第一章 第1話 隠れ郷
文字数 11,259文字
冬の赤城おろしばかりで無く、一面の茅の花穂を揺らし、強風は春にも坂東の野を吹き荒れる。坂東は風の地と言って良い。この辺りは利根川の自然堤防と湿地から成る土地で草原 と言う。茅は屋根を葺くなどその用途が多い為、何処の郷も茅場を持ち、季節になると郷人総出で草刈りをする。
この地は、元々、私市 氏の持っている茅場であったのだが、分家として分かれた者がこの土地及び周辺を譲り受け、草原氏を名乗るようになる。草原は、そのまま氏族名及び郷名となった。武蔵国・埼玉郡・草原郷 である。
折烏帽子が飛ばされぬよう顎紐 をしっかりと結び袖と裾をはためかせながら、その風の中を馬を駆って進む六名ほどの兵 の一団が有る。一行はやがてとある舘の前に至る。
この時代の土豪の居館は,盗賊や局地的紛争に備え,門構えと四隅に櫓を持ち,土塁に囲まれた上、その外側に堀を持つ小規模ながら半城郭的なものとなっている。
訪問客の一人が馬から飛び降りて門番の男と話す。話し終わると、門番の男は舘の敷地の中に走り込んで行く。
間もなく数人の男達が走り出て来て、痩せた年寄りが、訪問客達の先頭に立つ狩衣 姿の男の前に進み出て、深く頭を下げる。
馬上の男は三十少し過ぎ、揉み上げ、鼻の下、顎と繋がった濃い髭を生やした厳つい男である。
「突然のお越し驚きました。何の用意も御座いませんが、先ずは中へ」
「前触れも無しにすまん。思い立つと直 ぐやらねば気が済まぬ質でな。通るぞ」
騎馬の男達が進み、家の者達が従う。
天暦三年(九百四十九年)。母の実家の草原で育っていた千方だが、十四歳に成った春の或る日、兄である千常自身が数名の郎等を従えて迎えに来た。何の前触れも無く、突然のことである
郷長 ・草原久稔 は訪問の意図をあれこれ推し量りながら千常を案内していた。途中、久稔の娘・露女 が合流して久稔の後ろに従う。『やはり、そう思っているのか』と久稔は思う。露女が考えるのは千寿丸の事より他に無い。
上座に着いた千常。改めて挨拶をしようとする久稔を遮り、
「千寿丸を引き取りに来た」
と行き成り告げた。
露女はそれを察して久稔に付いて来たのだ。訪問の主旨を聞かされて、露女も久稔も飛び上がらんばかりに喜んだ。それは、今まで放置されていた子が、下野 ・藤原家の一員として認められることを意味するからだ。
露女が平伏した後、面 を上げて礼を述べる。
「有難う御座います。一日千秋の思いでこの日を待ち侘びておりました」
「そうか。ようやく父上の許しを得る事が出来た。待たせたが、千寿丸の身の立つようにするつもりだ。任せてくれ」
千常が露女を見据えて告げる。安堵と喜びが入り混じった表情を見せて、露女が再び面を伏せる。
「有難う御座います。将軍様が六郎の事お忘れでは無かったと分かり。この上の喜びは御座いません」
久稔がそう礼を述べる。
「勿論、父上は忘れてはおらん、だか、今引き取る事を進言したのは麿じゃ」
「左様で御座いますか。お心遣い感謝致します」
改めて久稔が礼を述べる。
千方は、館の中が急に騒がしくなったのを感じていたが、何が起きたのか分からなかった。遠目にチラッと見掛けた恐ろしげな男は誰なのかと考えていた。母や祖父の態度からすれば身分の有る人なのだろうと思ったが、それ以上深くは考えなかった。
その晩は舘に泊まることになった千常が、宴 の席で酔い痴れている頃、千方は母に呼ばれた。
訪問客は兄で、自分を下野に引き取る為に来たのだと言う。行き成りそんな事を言われても、千方には不安しか無い。
「お座りなさい」
悪びれて突っ立ったままの千方に、母は静かに言った。千方は、仕方無く母の前に座る。
「何故、下野に行かねばならないのですか」
突然の事で、どう取って良いのか分からないし、余り気が進まないので、そう聞いてみた。
「世に出る為に必要な事です」
と言われてもピンと来ない。
「母上もご一緒に?」
「いえ、そなたひとりです」
千方は動揺した。
「母上は行かれないのですか?」
と聞く。
「麿は参らぬ」と母は答えた。
「何故ですか?」
と聞く千方に、
「六郎殿、聞き分けるのです。そなたは、従四位下 ・武蔵守、下野守、並びに鎮守府将軍・藤原秀郷 様のお子なのですよ。世に出なければなりません。父上の許に参るのです。わざわざ兄上がお迎えに来て下さった。そのことを良うくお考えなされ」
千方の問には答えず、母は千方の下野 行きを促す。
母に突き放されても千方に怯む気は無かった。兄と言われる人は、世間的に言えば父親ほどの年齢であり、その上、顎髭を蓄えた恐ろしげな人である。(この時、千常三十三歳であった)
『分かりました』と簡単には言えない。露女は千方の目を見つめて続ける。
「母は、この十四年、この日の来ることを待ち望んで生きて参りました。その母の望を奪うのですか。母が死んでも良いとお思いか、六郎殿」
『母が死んでも……』行き成り何故そんな言葉が発せられたのか分からない。何の事かと思うが、その強い言い方に千方は少し狼狽えた。こんな言い方をする母を嘗て知らなかった。
千方の幼名は『千寿丸』と言う。草原の家の人々は、秀郷との繋がりを強調したい気持からか、幼い頃より六郎様と呼ぶ者が多かったが、母はいつも千寿丸と呼んでいた。その母が今、敢えて『六郎殿』と呼び、凛 として寄せ付けぬ気を発しながら、『母が死んでも良いとお思いか』と言う。理解出来ない成り行きではあったが、もはや抗 うことは出来なかった。
翌朝、郷の者達の盛大な見送りを受けて、千常に従って下野に向けて出立した。千方に取って武蔵を離れるのは初めての経験だった。
武蔵国・埼玉(佐伊太末)郡は現在の熊谷市、行田市、加須市、羽生市、北埼玉郡、南埼玉郡、大里郡を含む地方である。太田(於保太)、笠原(加佐波良)、草原(加也波良)、埼玉(佐以多萬)、餘戸 の五郷が置かれていた。
埼玉郡・草原郷は、南は太田郷に接し、東はもう下総国(現:千葉県北部)に接している。
刀祢川 を隔てて北は上野国(現:群馬県)、一部は下野国(現:栃木県)、常陸国(現:茨城県)にも接している。
現在の利根川は千葉県の銚子に注いでいるが、これは、江戸時代に行われた利根川東遷事業の結果であり、平安時代の刀祢川は、川俣(現:羽生市)付近で三派に分かれていた。
即ち、北は現在の群馬県館林市の方へ流れて谷田川となり、中は現在の利根川の河道を流れて村君を通り、飯積 (いずれも現:羽生市)付近の左岸から、現:茨城県古河市方面に流れる合の川を分流したが、主流は外野 、阿佐間 (現:加須市大利根)を経て、川口(現・加須市川口)に於いて最古の利根川に合流していた。(この付近を浅間川筋と呼ぶ)そして南の『会 の川』は、志多見 、加須 を経て、川口で中央の一派(浅間川筋)を合わせて、現在の古利根川筋を流れ、さらに、高野、杉戸、春日部、吉川を経て、戸ヶ崎付近(現・三郷市)で荒川と入間川を合わせて、下流は隅田川となって東京湾に注いでいたのだ。
一行はまず西に向かい、川俣の浅瀬を渡り、更にいくつもの流れを渡って、また川沿いを西に進み、村岡(現・熊谷市)の対岸付近から、武蔵国が東山道に属していた頃の街道(東山道武蔵路 )を通って北上し、一旦、上野に出た。
上野の新田郷(現・群馬県太田市)から東山道本道に道を取り、下野に向かう。
着いたところは、秀郷の舘ではなく、千常の舘らしい。祖父・久稔の舘と比べて広くかなり立派な舘であり、多くの者達が立ち働いていた。
千常は見かけに寄らず気さくで、何かと千方に話しかけてくれたり、珍しい食べ物を勧めてくれたりで、居心地が悪くは無かったが、忙しい千常が留守の間は、所在無く庭を歩きながら、千方は、やはり母を思い浮かべていた。生まれ育った草原を離れたと言う実感がまだ無い。目に映るのは借り物のように虚 ろな情景である。周りに居るのは、郎等や雑色ばかりで、千常の家族が居るのか居ないのかも分からなかった。
三日目の朝早く、出掛けるから支度をして待つようにとの千常の言葉を郎等の一人が伝えに来た。そして、支度を終えるか終えないうちに、どかどかと、荒々しい足音を立てて千常が現れた。
「参るぞ」と言われ『どちらへ』とは聞き返さなかった。千方は、いよいよ父・秀郷の舘へ行くものだと思い込んでいたのだ。「はい」と返事に力が入った。やはり、父には会ってみたかったのだ。
庭に下りると、五十を大分過ぎていると思われる、兵 然とした固太りの郎等がひとり待っており、別の郎等が、千常と千方の馬を厩から引き出して来る処だった。
千常は普段の狩衣姿で、特に改まった装 いはしていない。
「千寿丸。朝鳥じゃ、和主 の世話に付ける。見知り置くが良い」
簀子 (廊下)の上から千常が言った。
「日下部朝鳥 と申します。お見知り置きを、千寿丸様」
自分の馬の轡 を取った朝鳥が、千方に挨拶する。いかった肩、太い腕。茶の直垂 が体に馴染んでいる。体型に比して、表情は一見柔和である。これが、千方と朝鳥の出会いであった。
供は朝鳥ひとりだった。千常は北に向って馬を馳せる。千方は遅れまいと必死で着いて行く。
十四歳の千方には、小ぶりな馬が与えられていたので、千常の馬に着いて行くのは、容易では無い。朝鳥は、少し下がって呑気そうに馬を操る。
「千寿丸。この坂東ではな、真に強き者しか生き残れぬ」
馬の歩みを少し緩めて、千常が千方に話し掛けて来た。
「はい。麿も兄上のように猛き兵 に成りとう御座います」
型通りのお世辞を言っただけだ。
「思っているだけでは駄目だ。真に、心も体も強く鍛えねば生き残れぬ。いや、誰ぞの足許に平伏し、何もかも差し出すならば、命だけは永らえることが出来ようが、それはもはや男子 では無い。分かるか?」
千常の真剣な口振りを意識しなかった。千方は気軽に「はい」と答えたが、千常にぎろりと睨 まれた。何が気に障ったのかと思ったが、千方には心当たりが無い。
「止まれ。馬を降りよ」
千常は、突然厳しい顔付きになり、鋭くそう言った。千方は慌てて馬を止め、降りた。
馬から飛び降りつかつかと歩み寄って来た千常に、いきなり思い切り殴られた。いや、十四歳の子供を千常が思い切り殴ったりしたら、それこそ、本当に死んでしまうかも知れない。千常としては、それ成りに加減して殴ったに違いないのだ。しかし、千方はひっくり返った。
千方にしてみれば、思い切り殴られたと感じた。激しい痛みと恐ろしさが錯綜し、千常に着いて来たことを、本当に悔いた。
千常は仁王立ちに成って見下ろしている。次の一撃が来るのではないかと、思わず千方は身を固くした。
視界の端に、朝鳥がゆっくりと馬を降りる姿が映ったが、主人を止める様子など微塵 も無い。その時、ふっと千常の表情が変わった。
「立て、千寿丸。鎮守府将軍の子が、下郎のように、怯えて蹲ったりするものではない」
意外なことに、千常は静かにそう言った。もはや表情も普段のそれに戻っている。
千方は必至で立ち上がり、着ていた水干 の土を払った。
「良いか千寿丸。今の汝 が真の汝ぞ。己の弱さを知るが良い。先程、麿の話に調子を合わせて勇ましきことを言いおったが、口で言うだけなら、都の長袖 の公家でも言える。もう一度言うが、この坂東では、真に強くならねば生き残れぬのだ。しかと覚えておけ」
千方は、強張った声で「はい」と言うことしか出来なかった。
「馬に乗れ」
促されて馬に乗ったが、左頬はずきずきと痛んでおり、まだ膝が微かに震えていた。
一行は北に向っている。彼方には、山が連なって見え、国府や秀郷の舘の有る方角では無いことは、行ったことの無い千方にも察せられた。だが、もはや、それに付いて尋ねる気力は無かった。
道はやがて山に懸かり、登っては下り、回り込んだかと思えば、谷に沿って進む。
『一体、どこに行くつもりか』
千方の心の中で不安な気持ちが増して行く。何種類かの山鳥の鳴き声が、絶えず聞こえている。
「こんな山の中で、殿は良く道に迷ったりされませぬな」
どうやら、朝鳥も行く先は知らないらしい。
「戯け! ここをどこだと思うておる。下野の内じゃ。己が庭を知らぬで、敵が攻めて来た時どう迎え撃つ」
己が言葉を楽しんでいるかのように千常が言った。
「如何にも。仰せの通りに御座います。しかし、山間に入れば、遠くの山も見えませぬゆえ、その形や方角を覚えることも出来ませぬ。どこもここも同じように見える山中で、分かれ道の目印など、どう覚えておられるのでしょうか?」
「ふふ。朝鳥よ。そのほうは剛の者だが、やはり将の器では無いのう」
千常が得意げに言う。
「仰せの通り。多くの者をどう動かすか考えるより、目の前の敵と斬り結んでいる方が、よほど楽で御座ります。やはり、生まれ持った分相応の考えしか出来ぬものと見えますな」
とは言ったが、朝鳥は気付いていた。向かいの尾根や、山中の木々の間に時々人影が差す。付け狙っている者では無く、恐らく、千常を案内し、陰ながら護っている者達であろうと朝鳥は思った。で無ければ、まだ子供の千寿丸を連れ、供には朝鳥ひとりを伴っただけで、こんな山中に入って来るほど、今の千常は無用心な男ではない。豪放ではあるが短慮では無いのだ。
千常にだけ分かる目印も、そこここに有るに違いない。山鳥の声に似せた合図で、分かれ道の左右を知らせているのかも知れない。朝鳥はそう思っていた。
着いたのは、山に囲まれた猫の額ほどの盆地だった。三、四十軒の家が点在し、僅かな畑が囲む。家の作りはいわゆる竪穴式である。中心の柱から円錐状に、萱を懸けた屋根が地表まで届いている。
畑や家の中、或いは草陰から、湧き出るように人々が集まって来た。中には、山から馬を駆って駆け降りて来る者も居る。老若男女合わせて七、八十人にもなった。
千常一行が中心の広場に着いた頃には、皆、跪いて迎えていた。幼い子供達だけが、物珍しそうに見たり、駆け回っては互いに顔を見合わせたりして、意味も無く笑い転げている。
妙な違和感を、千方は覚えていた。武蔵や他の下野の民とはどこか違う。着ている物や持ち物も見慣れない物が多い。山の民だからだろうかと、千方は思った。
「殿。ようこそお出で下されました」
長 らしき者が進み出て、深々と頭を下げる。
「うん。皆、息災か。食に不自由はしておらぬか」
千常が馬上から、鷹揚に尋ねる。
「いえ.お陰様で、皆不自由無く暮らさせて頂いております」
「重畳 じゃ」
千常が馬から飛び降りると、ひとりの若者が走り寄って、馬の轡を取る。千方と朝鳥も下馬し、それぞれ郷の若者に手綱を手渡した。
「お疲れになりましたで御座いましょう。まずは、お休み下さいませ」
奥の小高い所に、防風林のように周りの木を残し、林を切り開いたのであろう一角が有り、木々の間から、床も周りの柱も有る建物が見える。
掘立小屋に近い造作だが、竪穴住居ばかりの郷の中では特別な建物なのであろう。
郷長の住まいか、あるいは千常が訪れた時の為に、特別に建てられたものなのかも知れない。
「ではご案内仕ります。どうぞ、こちらへ」
「いや、済まぬがゆっくりもしておられぬのだ。色々と忙しゅうてな。早々に立ち帰り、段取り致さねばならぬことも有る」
「このような山深き所までお運び頂き、おもてなしも出来ぬままお帰りとあらば、心苦しゅう御座います。夕餉には、心ばかりの粗肴も用意致しますゆえ。ごゆるりとお過ごし頂ければ」
「済まぬ。そうもしておれんのじゃ。こう見えて、なかなか忙しゅうてな」
「ならば、山里のことゆえ、俄なことには猿酒、山の木の実などしか御座いませぬが、せめて、一口なりとお召し上がり頂ければ」
「うむ。馳走になろう。ここで良い」
早速、郷長の指示で筵が敷かれ、女達は舘に走り、そこに用意してあったものを持って戻って来る。膳が用意されたとは言っても、言葉通りささやかなものだ。
千常と朝鳥の膳には、木の実を盛った”かわらけ”(土師器の皿)、木をくり抜いた荒削りな椀に猿酒。千方の膳には多めの木の実と水の入った椀が並べられた。
もちろん、この時代、未成年飲酒禁止と言った法が有った訳では無いが、子供の飲むべきものでは無いと言う認識は有った。
「川の魚など、すぐに焼かせますゆえ、暫し、お待ち下さいませ」
「いや、それは良い。また馳走になろう。日の暮れぬうちに戻らぬとな」
「左様で御座いますか……」
郷長が至極残念そうにそう言ったとき、山から迷い出て来たのか、一羽の兎が叢 から現れ、体を丸くし、立ち止まって辺りを見回している。皆がそれに気付き、千方は『愛 し』と思った。
猿酒を口にしていた千常が不意に言った。
「走っている兎を馬上から射ることが出来る童はおるか?」
一度頷いた郷長がひとりの童と視線を合わせた。そして右手で合図すると、後ろの方に控えていた男が、すぐに兎の後方に木の枝を投げた。驚いた兎は村の中心に向かって走り出す。と思うが早く、郷長が目配せをした童。即ち先ほど馬で山から下りて来た中のひとりの童が、ひらりと馬に跳び乗り、兎を追うように走り始めた。山で狩りでもしていたのか、その手には既に短弓が握られていた。
兎は急に走る方向を変えたりして、何とか逃がれようと必死だが、馬上の童は上手く誘導し、皆の良く見える場所に追い出した。そして、放った矢は違わず兎の首を射抜いた。
『酷いことを』と千方は思ったが、女達も含めて、皆、大喝采である。
童は馬から跳び降り、兎の首を貫いている鏃を折り、矢を抜いた後、それを自らの額に当てて天を仰ぎ、祈りでも捧げるように片膝を突いたまま暫く項垂れていた。
そして立ち上がると、左手で馬の轡を取り、右手で耳を持って兎をぶら下げたまま歩いて戻って来た。
「見事であった。名は何と申す」
童は言い澱んでいる風に見えた。
「姫王丸に御座います」
他の童が、大声で言った。姫王丸は、その方向を見て、キッと睨んだ。
「何? 姫王丸とな」
千常は思わず吹き出しそうになったが堪えた。その童、鋭い目をした色黒の子であったのだ。
「わっぱ。その名は気に入っておるか?」
童は黙っている。すると、さっき姫王丸と教えた童が、「この間、つい邪揄って『姫』って呼んでしまったら、本気で殺されそうになりました」と言った。
あちこちで笑い声が起こった。
「そうか。いずれ郷一番の猛き者に成るであろう男には、ちと似合わん名じゃのう。麿が名を付けて遣わす。今日よりは『夜叉丸』と名乗るが良い」
「やしゃまる?」
「そうじゃ。気に入らぬか?」
「いえ、気に入りました」
姫王丸、いや夜叉丸は力強く答えた。本人以上に喜んでいると見えるのが、先程の童だった。
「名は?」と千常が聞く。
「犬丸」 童は顔中で笑った。当時としては、良く有る名だ。
「そうか。良い名じゃ。犬は強き者を表す」
犬丸は照れて、
「いや~ぁ…… そんなに強くはありませぬ」
と言う。
「そうか、では、夜叉丸の次に強いのは誰か?」
犬丸ばかりで無く、子供達が一斉にひとりの童を指差した。だが、その先に居たのは、小柄で風采の上がらぬ童だった。童は、少し得意げに心持ち顔を上に向けた。
「そうか。そちゃ強いか」
と千常は納得の行かぬ様子だ。
「人は見掛けだけでは分かりませぬ」
「なんと…… 言いおるのう、小童 」
「これ!」と郷長が慌てて童を制し、
「申し訳も御座りませぬ。世間知らずの山童のことゆえ、どうか、お許しを」
と取り繕った。
「いや、構わぬ。面白きわっぱじゃ。名は?」
見掛けに寄らず、利発な子だと思った。
「しゅてんまる」
本来は『秋天丸』なのだが、その父がなぜか(しゅてんまる)と呼んでいたので、本人も含めて、いつの間にか皆が『しゅてんまる』と呼ぶようになってしまったのだ。
「酒呑丸 ? これは又荒々しき名よのう」
千常にはそう聞こえた。そう思い込んだのは、猿酒を飲んでいたせいであろうか。
大江山から出て、当時、都を荒らし回っていた盗賊の頭、鬼とも呼ばれる『酒呑童子』のことが頭を過り、千常には、そう聞こえたのだ。
「ところで夜叉丸、見事であった。何か褒美をやろう。欲しい物は無いか?」
「戦 に出たい」
「そうか。いずれ望は叶うであろう。今はこれを遣わす」
千常は、小刀を腰から外し、左手で差し出した。
兎をそこに置き、進み出た夜叉丸が、両手で受け頭を下げる。夜叉丸は、千常に背を向けて元の位置に下がりながら、その小刀を縦にし、横にして眺め、抜いて見つめた後、鞘 に戻した。
「これで、敵の長 を突きます」
夜叉丸は、千常の方を振り返り、貰 った小刀を、横にして前に突き出し、強く言った。
表情の乏しい童だったが、それでも誇らしげな気持ちが読み取れた。代わって郷長が進み出る。
「殿、夜叉丸に代わり、厚く御礼申し上げます。必ずや、殿のお役に立つ男になりましょう」
「いや、夜叉丸ばかりでなく、酒呑丸も犬丸も、この千寿丸の役に立たせたい。既に伝えてある通り、千寿丸を三年の間この郷に預けるゆえ、夜叉丸に負けぬ男に育てて貰いたい。長 、宜しく頼み置く」
千方は驚いた。父との対面どころでは無く、三年もの間、自分はこんな所に置き去りにされるのか。そう思うとひどく気持ちが滅入った。
「承知致しております。朝鳥殿と力を合わせ、必ずや、ご期待に沿うように致しましょう」
千方より驚いたのは、朝鳥の方だった。
「長、麿と力を合わせてとは、どういうことか?」
郷長は、千常の方を見て、どう答えるべきか目で問うた。
「汝 もここに残れ」
「飛んでも無い。殿おひとりでこの山里からお帰し申す訳には参りませぬ」
「朝鳥よ。今日より、その方の主 は千寿丸じゃ」
「殿~っ」
珍しく、朝鳥は必死になった。
「朝鳥殿。殿は郷の者共がお送り申し上げますゆえ、ご案じ無く」
そう、郷長が口を挟んだ。
「黙れ! ……いや、口を挟まんでくれ長 。…… 殿! こんな所に三年もの間おったのでは、呆けてしまいます。なんぞ、この朝鳥にお気に召さぬ処でも御座いますのか」
珍しく剥きになっている朝鳥の顔を、千常は静かに見詰めていた。そして、やがて言った。
「朝鳥、三郎のこと、気の毒であった」
そう言われて朝鳥は、虚を突かれたように戸惑った。
天慶三年(九百四十一年)二月一日のことである。千常二十四歳。秀郷ら連合軍は、常陸掾 ・藤原玄茂 率いる将門軍の先鋒と対峙していた。
千常は、尿意を催し、陣幕を潜って裏に出た。気付いた日下部三郎・是光がそれを追って陣幕を潜った時見たものは、小用を足す千常の後ろから忍び寄る敵の姿だった。
「殿~っ!」と叫びながら走り寄り、振り向いた敵のひとりを斬り伏せたが、もうひとりに斬り掛かられ、刃を合わせた途端に、三人目に脇腹から深く刺し抜かれたのだ。
是光の声を聞き、陣幕を引き倒して、武者達が駆け出して来た。数人は千常を囲んで守り、他の者は敵に討ち掛かって行った。そして、五人居た敵をことごとく討ち取り、残敵を求めて草原に分け入り、林の中に入って行った。
千常を守る為に取り囲んだ武者達の中に、朝鳥も居た。千常に走り寄る時、血に染まって倒れている我が子をちらと見たが、五人目の敵が倒されるまで、朝鳥は千常の傍を離れなかった。
その直後、敵が逆落としに攻撃を掛けて来た為、悲しんでいる間も無かった。朝鳥は鬼神の如く敵を斬りまくった。
その姿を見て、若き日の千常は胸が張り裂ける思いだった。己が油断の為に、朝鳥に取って、掛け替えの無い子の命を失わせてしまった。それだけでは無い。是光は、幼き日の千常の遊び相手でもあったのだ。
だが、他の遺族に対する弔意と同じ程度の言葉を掛けたのみで、ことさら、大袈裟に詫びることは出来なかった。
怖いもの知らずだった千常に、己が行動に付いての慎重さが出て来たのは、それからだった。
「もう、九年になるか。是光の働き見事であったな。この命救われた。麿の油断であった。許せ」
そこまで言ったのは初めてだった。千常の心の内を朝鳥は知った。だが、朝鳥は黙っていた。
千常は兼ね兼ね気になっていた。三男を討死させた後、まるで死に場所を求めているかのように思える節が朝鳥には有ったのだ。
二人の娘は、朋輩の子と娶せ、子も出来てそれなりに暮らしているが、朝鳥には、男子の運が無かった。
長男は子供の頃川で溺れて死に、次男・是貞は十七歳で病の為早世している。そして、三郎の戦死。その上、その半年後には、長年連れ添った連れ合いも病の為亡くしていた。
承平・天慶の乱以降、戦と言えるものこそ無かったが、他氏との揉め事や小競り合い、更には群盗との戦いなど日常茶飯事であった。
そんな時、若い者を後目に、朝鳥は真っ先駆けて飛び込んで行くのだ。元々剛の者ではあったし戦功も多かったが、千常は危ういものを感じていた。
「三郎を帰してやることは出来ぬが、この千寿丸を三郎と思って、もう一度育ててみてはくれぬか」
涙こそ見せないが、朝鳥は感じ入った様子で黙っていた。感激して、礼の言葉を重ねるなどということをする男では無かったが、千常は朝鳥の気持ちを充分に察していた。
「殿、お受け致します」
千常も諄くは言わない。
「そうか。頼むぞ。では帰る。馬を引け!」
千常はもう立ち上がっていた。
千常の行動は素早い。そして、人に任せられることは任すが、自分でやった方が良いと思うことは、些細なことまで自分でやる。そのせいで、いつも、やたらと忙しく動き回っている。
この日の段取りも、使い役の郷の者を使って、郷長にはその意を充分に伝えてあったものと見える。だから、それ以上の話は必要無いのだ。千常の心中に有った目的は、既に果たされていた。
慌ただしく、千常は帰り支度に掛かる。若者の一人が急ぎ足で、千常の馬を引いて現れ、他に六人の郷の男達が騎馬で現れた。乗馬しようとする千常に、朝鳥が駆け寄った。
「殿」
「まだ何か有るか?」
「もし、千寿丸様が、殿に弓引くような男に育った時は、いかが致しましょう?」と小声で言った。
千常はにやりと笑った。
「今日より、千寿丸が主ぞ。朝鳥。その時は、千寿丸共々この首取りに参るが良い。だが、麿はそんな心配はせぬ」
「千寿丸様をどうお使いになるおつもりか?」
「麿の懐刀。武蔵国に打ち込む楔。そんな答で満足か?」
「ははっ」
郷長に促された千寿丸が近寄って来た。
気持ちはやはり沈んでいるが、もはや諦めてここに残るしかないと覚悟を決めていた。
「兄上、お気を付けて」
「うん。千寿丸。如何なる時も、父上の子であること。そして、この千常の弟であることを忘れるで無い。良いな。さらばじゃ」
郷長はまた深々と頭を下げる。
去って行く一団を見送りながら、千方、朝鳥、それぞれの胸にそれぞれの想いが渦巻いていた。
◉参考資料
・千方神社と縁起
https://7496.mitemin.net/i337519/
https://7496.mitemin.net/i337516/
・尊卑分脈(系図 千常、千方の関係)
https://7496.mitemin.net/i337548/
https://img1.mitemin.net/fb/7b/acuc9ae1f053o21ca9h61kjja7s_hno_2x0_12f_41to.jpg
・古代利根川の流路図
https://7496.mitemin.net/i404941/
・現在の会の川
https://7496.mitemin.net/i399996/
https://img1.mitemin.net/42/1v/2lp77a5adz4ikrzkh3oilasp890l_wl3_1hc_u0_142gx.jpg
この地は、元々、
折烏帽子が飛ばされぬよう
この時代の土豪の居館は,盗賊や局地的紛争に備え,門構えと四隅に櫓を持ち,土塁に囲まれた上、その外側に堀を持つ小規模ながら半城郭的なものとなっている。
訪問客の一人が馬から飛び降りて門番の男と話す。話し終わると、門番の男は舘の敷地の中に走り込んで行く。
間もなく数人の男達が走り出て来て、痩せた年寄りが、訪問客達の先頭に立つ
馬上の男は三十少し過ぎ、揉み上げ、鼻の下、顎と繋がった濃い髭を生やした厳つい男である。
「突然のお越し驚きました。何の用意も御座いませんが、先ずは中へ」
「前触れも無しにすまん。思い立つと
騎馬の男達が進み、家の者達が従う。
天暦三年(九百四十九年)。母の実家の草原で育っていた千方だが、十四歳に成った春の或る日、兄である千常自身が数名の郎等を従えて迎えに来た。何の前触れも無く、突然のことである
上座に着いた千常。改めて挨拶をしようとする久稔を遮り、
「千寿丸を引き取りに来た」
と行き成り告げた。
露女はそれを察して久稔に付いて来たのだ。訪問の主旨を聞かされて、露女も久稔も飛び上がらんばかりに喜んだ。それは、今まで放置されていた子が、
露女が平伏した後、
「有難う御座います。一日千秋の思いでこの日を待ち侘びておりました」
「そうか。ようやく父上の許しを得る事が出来た。待たせたが、千寿丸の身の立つようにするつもりだ。任せてくれ」
千常が露女を見据えて告げる。安堵と喜びが入り混じった表情を見せて、露女が再び面を伏せる。
「有難う御座います。将軍様が六郎の事お忘れでは無かったと分かり。この上の喜びは御座いません」
久稔がそう礼を述べる。
「勿論、父上は忘れてはおらん、だか、今引き取る事を進言したのは麿じゃ」
「左様で御座いますか。お心遣い感謝致します」
改めて久稔が礼を述べる。
千方は、館の中が急に騒がしくなったのを感じていたが、何が起きたのか分からなかった。遠目にチラッと見掛けた恐ろしげな男は誰なのかと考えていた。母や祖父の態度からすれば身分の有る人なのだろうと思ったが、それ以上深くは考えなかった。
その晩は舘に泊まることになった千常が、
訪問客は兄で、自分を下野に引き取る為に来たのだと言う。行き成りそんな事を言われても、千方には不安しか無い。
「お座りなさい」
悪びれて突っ立ったままの千方に、母は静かに言った。千方は、仕方無く母の前に座る。
「何故、下野に行かねばならないのですか」
突然の事で、どう取って良いのか分からないし、余り気が進まないので、そう聞いてみた。
「世に出る為に必要な事です」
と言われてもピンと来ない。
「母上もご一緒に?」
「いえ、そなたひとりです」
千方は動揺した。
「母上は行かれないのですか?」
と聞く。
「麿は参らぬ」と母は答えた。
「何故ですか?」
と聞く千方に、
「六郎殿、聞き分けるのです。そなたは、
千方の問には答えず、母は千方の
母に突き放されても千方に怯む気は無かった。兄と言われる人は、世間的に言えば父親ほどの年齢であり、その上、顎髭を蓄えた恐ろしげな人である。(この時、千常三十三歳であった)
『分かりました』と簡単には言えない。露女は千方の目を見つめて続ける。
「母は、この十四年、この日の来ることを待ち望んで生きて参りました。その母の望を奪うのですか。母が死んでも良いとお思いか、六郎殿」
『母が死んでも……』行き成り何故そんな言葉が発せられたのか分からない。何の事かと思うが、その強い言い方に千方は少し狼狽えた。こんな言い方をする母を嘗て知らなかった。
千方の幼名は『千寿丸』と言う。草原の家の人々は、秀郷との繋がりを強調したい気持からか、幼い頃より六郎様と呼ぶ者が多かったが、母はいつも千寿丸と呼んでいた。その母が今、敢えて『六郎殿』と呼び、
翌朝、郷の者達の盛大な見送りを受けて、千常に従って下野に向けて出立した。千方に取って武蔵を離れるのは初めての経験だった。
武蔵国・埼玉(佐伊太末)郡は現在の熊谷市、行田市、加須市、羽生市、北埼玉郡、南埼玉郡、大里郡を含む地方である。太田(於保太)、笠原(加佐波良)、草原(加也波良)、埼玉(佐以多萬)、
埼玉郡・草原郷は、南は太田郷に接し、東はもう下総国(現:千葉県北部)に接している。
現在の利根川は千葉県の銚子に注いでいるが、これは、江戸時代に行われた利根川東遷事業の結果であり、平安時代の刀祢川は、川俣(現:羽生市)付近で三派に分かれていた。
即ち、北は現在の群馬県館林市の方へ流れて谷田川となり、中は現在の利根川の河道を流れて村君を通り、
一行はまず西に向かい、川俣の浅瀬を渡り、更にいくつもの流れを渡って、また川沿いを西に進み、村岡(現・熊谷市)の対岸付近から、武蔵国が東山道に属していた頃の街道(
上野の新田郷(現・群馬県太田市)から東山道本道に道を取り、下野に向かう。
着いたところは、秀郷の舘ではなく、千常の舘らしい。祖父・久稔の舘と比べて広くかなり立派な舘であり、多くの者達が立ち働いていた。
千常は見かけに寄らず気さくで、何かと千方に話しかけてくれたり、珍しい食べ物を勧めてくれたりで、居心地が悪くは無かったが、忙しい千常が留守の間は、所在無く庭を歩きながら、千方は、やはり母を思い浮かべていた。生まれ育った草原を離れたと言う実感がまだ無い。目に映るのは借り物のように
三日目の朝早く、出掛けるから支度をして待つようにとの千常の言葉を郎等の一人が伝えに来た。そして、支度を終えるか終えないうちに、どかどかと、荒々しい足音を立てて千常が現れた。
「参るぞ」と言われ『どちらへ』とは聞き返さなかった。千方は、いよいよ父・秀郷の舘へ行くものだと思い込んでいたのだ。「はい」と返事に力が入った。やはり、父には会ってみたかったのだ。
庭に下りると、五十を大分過ぎていると思われる、
千常は普段の狩衣姿で、特に改まった
「千寿丸。朝鳥じゃ、
「
自分の馬の
供は朝鳥ひとりだった。千常は北に向って馬を馳せる。千方は遅れまいと必死で着いて行く。
十四歳の千方には、小ぶりな馬が与えられていたので、千常の馬に着いて行くのは、容易では無い。朝鳥は、少し下がって呑気そうに馬を操る。
「千寿丸。この坂東ではな、真に強き者しか生き残れぬ」
馬の歩みを少し緩めて、千常が千方に話し掛けて来た。
「はい。麿も兄上のように猛き
型通りのお世辞を言っただけだ。
「思っているだけでは駄目だ。真に、心も体も強く鍛えねば生き残れぬ。いや、誰ぞの足許に平伏し、何もかも差し出すならば、命だけは永らえることが出来ようが、それはもはや
千常の真剣な口振りを意識しなかった。千方は気軽に「はい」と答えたが、千常にぎろりと
「止まれ。馬を降りよ」
千常は、突然厳しい顔付きになり、鋭くそう言った。千方は慌てて馬を止め、降りた。
馬から飛び降りつかつかと歩み寄って来た千常に、いきなり思い切り殴られた。いや、十四歳の子供を千常が思い切り殴ったりしたら、それこそ、本当に死んでしまうかも知れない。千常としては、それ成りに加減して殴ったに違いないのだ。しかし、千方はひっくり返った。
千方にしてみれば、思い切り殴られたと感じた。激しい痛みと恐ろしさが錯綜し、千常に着いて来たことを、本当に悔いた。
千常は仁王立ちに成って見下ろしている。次の一撃が来るのではないかと、思わず千方は身を固くした。
視界の端に、朝鳥がゆっくりと馬を降りる姿が映ったが、主人を止める様子など
「立て、千寿丸。鎮守府将軍の子が、下郎のように、怯えて蹲ったりするものではない」
意外なことに、千常は静かにそう言った。もはや表情も普段のそれに戻っている。
千方は必至で立ち上がり、着ていた
「良いか千寿丸。今の
千方は、強張った声で「はい」と言うことしか出来なかった。
「馬に乗れ」
促されて馬に乗ったが、左頬はずきずきと痛んでおり、まだ膝が微かに震えていた。
一行は北に向っている。彼方には、山が連なって見え、国府や秀郷の舘の有る方角では無いことは、行ったことの無い千方にも察せられた。だが、もはや、それに付いて尋ねる気力は無かった。
道はやがて山に懸かり、登っては下り、回り込んだかと思えば、谷に沿って進む。
『一体、どこに行くつもりか』
千方の心の中で不安な気持ちが増して行く。何種類かの山鳥の鳴き声が、絶えず聞こえている。
「こんな山の中で、殿は良く道に迷ったりされませぬな」
どうやら、朝鳥も行く先は知らないらしい。
「戯け! ここをどこだと思うておる。下野の内じゃ。己が庭を知らぬで、敵が攻めて来た時どう迎え撃つ」
己が言葉を楽しんでいるかのように千常が言った。
「如何にも。仰せの通りに御座います。しかし、山間に入れば、遠くの山も見えませぬゆえ、その形や方角を覚えることも出来ませぬ。どこもここも同じように見える山中で、分かれ道の目印など、どう覚えておられるのでしょうか?」
「ふふ。朝鳥よ。そのほうは剛の者だが、やはり将の器では無いのう」
千常が得意げに言う。
「仰せの通り。多くの者をどう動かすか考えるより、目の前の敵と斬り結んでいる方が、よほど楽で御座ります。やはり、生まれ持った分相応の考えしか出来ぬものと見えますな」
とは言ったが、朝鳥は気付いていた。向かいの尾根や、山中の木々の間に時々人影が差す。付け狙っている者では無く、恐らく、千常を案内し、陰ながら護っている者達であろうと朝鳥は思った。で無ければ、まだ子供の千寿丸を連れ、供には朝鳥ひとりを伴っただけで、こんな山中に入って来るほど、今の千常は無用心な男ではない。豪放ではあるが短慮では無いのだ。
千常にだけ分かる目印も、そこここに有るに違いない。山鳥の声に似せた合図で、分かれ道の左右を知らせているのかも知れない。朝鳥はそう思っていた。
着いたのは、山に囲まれた猫の額ほどの盆地だった。三、四十軒の家が点在し、僅かな畑が囲む。家の作りはいわゆる竪穴式である。中心の柱から円錐状に、萱を懸けた屋根が地表まで届いている。
畑や家の中、或いは草陰から、湧き出るように人々が集まって来た。中には、山から馬を駆って駆け降りて来る者も居る。老若男女合わせて七、八十人にもなった。
千常一行が中心の広場に着いた頃には、皆、跪いて迎えていた。幼い子供達だけが、物珍しそうに見たり、駆け回っては互いに顔を見合わせたりして、意味も無く笑い転げている。
妙な違和感を、千方は覚えていた。武蔵や他の下野の民とはどこか違う。着ている物や持ち物も見慣れない物が多い。山の民だからだろうかと、千方は思った。
「殿。ようこそお出で下されました」
「うん。皆、息災か。食に不自由はしておらぬか」
千常が馬上から、鷹揚に尋ねる。
「いえ.お陰様で、皆不自由無く暮らさせて頂いております」
「
千常が馬から飛び降りると、ひとりの若者が走り寄って、馬の轡を取る。千方と朝鳥も下馬し、それぞれ郷の若者に手綱を手渡した。
「お疲れになりましたで御座いましょう。まずは、お休み下さいませ」
奥の小高い所に、防風林のように周りの木を残し、林を切り開いたのであろう一角が有り、木々の間から、床も周りの柱も有る建物が見える。
掘立小屋に近い造作だが、竪穴住居ばかりの郷の中では特別な建物なのであろう。
郷長の住まいか、あるいは千常が訪れた時の為に、特別に建てられたものなのかも知れない。
「ではご案内仕ります。どうぞ、こちらへ」
「いや、済まぬがゆっくりもしておられぬのだ。色々と忙しゅうてな。早々に立ち帰り、段取り致さねばならぬことも有る」
「このような山深き所までお運び頂き、おもてなしも出来ぬままお帰りとあらば、心苦しゅう御座います。夕餉には、心ばかりの粗肴も用意致しますゆえ。ごゆるりとお過ごし頂ければ」
「済まぬ。そうもしておれんのじゃ。こう見えて、なかなか忙しゅうてな」
「ならば、山里のことゆえ、俄なことには猿酒、山の木の実などしか御座いませぬが、せめて、一口なりとお召し上がり頂ければ」
「うむ。馳走になろう。ここで良い」
早速、郷長の指示で筵が敷かれ、女達は舘に走り、そこに用意してあったものを持って戻って来る。膳が用意されたとは言っても、言葉通りささやかなものだ。
千常と朝鳥の膳には、木の実を盛った”かわらけ”(土師器の皿)、木をくり抜いた荒削りな椀に猿酒。千方の膳には多めの木の実と水の入った椀が並べられた。
もちろん、この時代、未成年飲酒禁止と言った法が有った訳では無いが、子供の飲むべきものでは無いと言う認識は有った。
「川の魚など、すぐに焼かせますゆえ、暫し、お待ち下さいませ」
「いや、それは良い。また馳走になろう。日の暮れぬうちに戻らぬとな」
「左様で御座いますか……」
郷長が至極残念そうにそう言ったとき、山から迷い出て来たのか、一羽の兎が
猿酒を口にしていた千常が不意に言った。
「走っている兎を馬上から射ることが出来る童はおるか?」
一度頷いた郷長がひとりの童と視線を合わせた。そして右手で合図すると、後ろの方に控えていた男が、すぐに兎の後方に木の枝を投げた。驚いた兎は村の中心に向かって走り出す。と思うが早く、郷長が目配せをした童。即ち先ほど馬で山から下りて来た中のひとりの童が、ひらりと馬に跳び乗り、兎を追うように走り始めた。山で狩りでもしていたのか、その手には既に短弓が握られていた。
兎は急に走る方向を変えたりして、何とか逃がれようと必死だが、馬上の童は上手く誘導し、皆の良く見える場所に追い出した。そして、放った矢は違わず兎の首を射抜いた。
『酷いことを』と千方は思ったが、女達も含めて、皆、大喝采である。
童は馬から跳び降り、兎の首を貫いている鏃を折り、矢を抜いた後、それを自らの額に当てて天を仰ぎ、祈りでも捧げるように片膝を突いたまま暫く項垂れていた。
そして立ち上がると、左手で馬の轡を取り、右手で耳を持って兎をぶら下げたまま歩いて戻って来た。
「見事であった。名は何と申す」
童は言い澱んでいる風に見えた。
「姫王丸に御座います」
他の童が、大声で言った。姫王丸は、その方向を見て、キッと睨んだ。
「何? 姫王丸とな」
千常は思わず吹き出しそうになったが堪えた。その童、鋭い目をした色黒の子であったのだ。
「わっぱ。その名は気に入っておるか?」
童は黙っている。すると、さっき姫王丸と教えた童が、「この間、つい邪揄って『姫』って呼んでしまったら、本気で殺されそうになりました」と言った。
あちこちで笑い声が起こった。
「そうか。いずれ郷一番の猛き者に成るであろう男には、ちと似合わん名じゃのう。麿が名を付けて遣わす。今日よりは『夜叉丸』と名乗るが良い」
「やしゃまる?」
「そうじゃ。気に入らぬか?」
「いえ、気に入りました」
姫王丸、いや夜叉丸は力強く答えた。本人以上に喜んでいると見えるのが、先程の童だった。
「名は?」と千常が聞く。
「犬丸」 童は顔中で笑った。当時としては、良く有る名だ。
「そうか。良い名じゃ。犬は強き者を表す」
犬丸は照れて、
「いや~ぁ…… そんなに強くはありませぬ」
と言う。
「そうか、では、夜叉丸の次に強いのは誰か?」
犬丸ばかりで無く、子供達が一斉にひとりの童を指差した。だが、その先に居たのは、小柄で風采の上がらぬ童だった。童は、少し得意げに心持ち顔を上に向けた。
「そうか。そちゃ強いか」
と千常は納得の行かぬ様子だ。
「人は見掛けだけでは分かりませぬ」
「なんと…… 言いおるのう、
「これ!」と郷長が慌てて童を制し、
「申し訳も御座りませぬ。世間知らずの山童のことゆえ、どうか、お許しを」
と取り繕った。
「いや、構わぬ。面白きわっぱじゃ。名は?」
見掛けに寄らず、利発な子だと思った。
「しゅてんまる」
本来は『秋天丸』なのだが、その父がなぜか(しゅてんまる)と呼んでいたので、本人も含めて、いつの間にか皆が『しゅてんまる』と呼ぶようになってしまったのだ。
「
千常にはそう聞こえた。そう思い込んだのは、猿酒を飲んでいたせいであろうか。
大江山から出て、当時、都を荒らし回っていた盗賊の頭、鬼とも呼ばれる『酒呑童子』のことが頭を過り、千常には、そう聞こえたのだ。
「ところで夜叉丸、見事であった。何か褒美をやろう。欲しい物は無いか?」
「
「そうか。いずれ望は叶うであろう。今はこれを遣わす」
千常は、小刀を腰から外し、左手で差し出した。
兎をそこに置き、進み出た夜叉丸が、両手で受け頭を下げる。夜叉丸は、千常に背を向けて元の位置に下がりながら、その小刀を縦にし、横にして眺め、抜いて見つめた後、
「これで、敵の
夜叉丸は、千常の方を振り返り、
表情の乏しい童だったが、それでも誇らしげな気持ちが読み取れた。代わって郷長が進み出る。
「殿、夜叉丸に代わり、厚く御礼申し上げます。必ずや、殿のお役に立つ男になりましょう」
「いや、夜叉丸ばかりでなく、酒呑丸も犬丸も、この千寿丸の役に立たせたい。既に伝えてある通り、千寿丸を三年の間この郷に預けるゆえ、夜叉丸に負けぬ男に育てて貰いたい。
千方は驚いた。父との対面どころでは無く、三年もの間、自分はこんな所に置き去りにされるのか。そう思うとひどく気持ちが滅入った。
「承知致しております。朝鳥殿と力を合わせ、必ずや、ご期待に沿うように致しましょう」
千方より驚いたのは、朝鳥の方だった。
「長、麿と力を合わせてとは、どういうことか?」
郷長は、千常の方を見て、どう答えるべきか目で問うた。
「
「飛んでも無い。殿おひとりでこの山里からお帰し申す訳には参りませぬ」
「朝鳥よ。今日より、その方の
「殿~っ」
珍しく、朝鳥は必死になった。
「朝鳥殿。殿は郷の者共がお送り申し上げますゆえ、ご案じ無く」
そう、郷長が口を挟んだ。
「黙れ! ……いや、口を挟まんでくれ
珍しく剥きになっている朝鳥の顔を、千常は静かに見詰めていた。そして、やがて言った。
「朝鳥、三郎のこと、気の毒であった」
そう言われて朝鳥は、虚を突かれたように戸惑った。
天慶三年(九百四十一年)二月一日のことである。千常二十四歳。秀郷ら連合軍は、
千常は、尿意を催し、陣幕を潜って裏に出た。気付いた日下部三郎・是光がそれを追って陣幕を潜った時見たものは、小用を足す千常の後ろから忍び寄る敵の姿だった。
「殿~っ!」と叫びながら走り寄り、振り向いた敵のひとりを斬り伏せたが、もうひとりに斬り掛かられ、刃を合わせた途端に、三人目に脇腹から深く刺し抜かれたのだ。
是光の声を聞き、陣幕を引き倒して、武者達が駆け出して来た。数人は千常を囲んで守り、他の者は敵に討ち掛かって行った。そして、五人居た敵をことごとく討ち取り、残敵を求めて草原に分け入り、林の中に入って行った。
千常を守る為に取り囲んだ武者達の中に、朝鳥も居た。千常に走り寄る時、血に染まって倒れている我が子をちらと見たが、五人目の敵が倒されるまで、朝鳥は千常の傍を離れなかった。
その直後、敵が逆落としに攻撃を掛けて来た為、悲しんでいる間も無かった。朝鳥は鬼神の如く敵を斬りまくった。
その姿を見て、若き日の千常は胸が張り裂ける思いだった。己が油断の為に、朝鳥に取って、掛け替えの無い子の命を失わせてしまった。それだけでは無い。是光は、幼き日の千常の遊び相手でもあったのだ。
だが、他の遺族に対する弔意と同じ程度の言葉を掛けたのみで、ことさら、大袈裟に詫びることは出来なかった。
怖いもの知らずだった千常に、己が行動に付いての慎重さが出て来たのは、それからだった。
「もう、九年になるか。是光の働き見事であったな。この命救われた。麿の油断であった。許せ」
そこまで言ったのは初めてだった。千常の心の内を朝鳥は知った。だが、朝鳥は黙っていた。
千常は兼ね兼ね気になっていた。三男を討死させた後、まるで死に場所を求めているかのように思える節が朝鳥には有ったのだ。
二人の娘は、朋輩の子と娶せ、子も出来てそれなりに暮らしているが、朝鳥には、男子の運が無かった。
長男は子供の頃川で溺れて死に、次男・是貞は十七歳で病の為早世している。そして、三郎の戦死。その上、その半年後には、長年連れ添った連れ合いも病の為亡くしていた。
承平・天慶の乱以降、戦と言えるものこそ無かったが、他氏との揉め事や小競り合い、更には群盗との戦いなど日常茶飯事であった。
そんな時、若い者を後目に、朝鳥は真っ先駆けて飛び込んで行くのだ。元々剛の者ではあったし戦功も多かったが、千常は危ういものを感じていた。
「三郎を帰してやることは出来ぬが、この千寿丸を三郎と思って、もう一度育ててみてはくれぬか」
涙こそ見せないが、朝鳥は感じ入った様子で黙っていた。感激して、礼の言葉を重ねるなどということをする男では無かったが、千常は朝鳥の気持ちを充分に察していた。
「殿、お受け致します」
千常も諄くは言わない。
「そうか。頼むぞ。では帰る。馬を引け!」
千常はもう立ち上がっていた。
千常の行動は素早い。そして、人に任せられることは任すが、自分でやった方が良いと思うことは、些細なことまで自分でやる。そのせいで、いつも、やたらと忙しく動き回っている。
この日の段取りも、使い役の郷の者を使って、郷長にはその意を充分に伝えてあったものと見える。だから、それ以上の話は必要無いのだ。千常の心中に有った目的は、既に果たされていた。
慌ただしく、千常は帰り支度に掛かる。若者の一人が急ぎ足で、千常の馬を引いて現れ、他に六人の郷の男達が騎馬で現れた。乗馬しようとする千常に、朝鳥が駆け寄った。
「殿」
「まだ何か有るか?」
「もし、千寿丸様が、殿に弓引くような男に育った時は、いかが致しましょう?」と小声で言った。
千常はにやりと笑った。
「今日より、千寿丸が主ぞ。朝鳥。その時は、千寿丸共々この首取りに参るが良い。だが、麿はそんな心配はせぬ」
「千寿丸様をどうお使いになるおつもりか?」
「麿の懐刀。武蔵国に打ち込む楔。そんな答で満足か?」
「ははっ」
郷長に促された千寿丸が近寄って来た。
気持ちはやはり沈んでいるが、もはや諦めてここに残るしかないと覚悟を決めていた。
「兄上、お気を付けて」
「うん。千寿丸。如何なる時も、父上の子であること。そして、この千常の弟であることを忘れるで無い。良いな。さらばじゃ」
郷長はまた深々と頭を下げる。
去って行く一団を見送りながら、千方、朝鳥、それぞれの胸にそれぞれの想いが渦巻いていた。
◉参考資料
・千方神社と縁起
https://7496.mitemin.net/i337519/
https://7496.mitemin.net/i337516/
・尊卑分脈(系図 千常、千方の関係)
https://7496.mitemin.net/i337548/
https://img1.mitemin.net/fb/7b/acuc9ae1f053o21ca9h61kjja7s_hno_2x0_12f_41to.jpg
・古代利根川の流路図
https://7496.mitemin.net/i404941/
・現在の会の川
https://7496.mitemin.net/i399996/
https://img1.mitemin.net/42/1v/2lp77a5adz4ikrzkh3oilasp890l_wl3_1hc_u0_142gx.jpg