第一章 第12話 将門の噂 Ⅰ

文字数 6,823文字

翌日、
(あば)ら家では御座いますし、何のお構いも出来ませぬが、宜しければお気軽にお立ち寄り下さいませ』との草原(かやはら)からの返事を受け、秀郷(ひでさと)は早速準備を始めた。
 国府とは目と鼻の先にある舘には兵を入れ、弟の高郷(たかさと)に国府の出入りを常に見張らせている。国府の中にも親秀郷派は多いし、反秀郷と見られている者の中にも、実は、裏で秀郷と繋がっている者が複数居る。内と外から常に見張っているのだから、国府が秀郷に知られずに他国に使いを出すことは非常に困難な状況に有る。
 秀郷は、良く言えば反体制派の首領であり、悪く言えば、官僚という表の顔を持ったマフィアの大ボスなのである。追討を受ける身で在りながら、誠に奇妙なことに下野少掾(しもつけのしょうじょう)を解任されてはいない。
 追討の官符が出た当初は、さすがに安蘇郡佐野(あそごおりさの)の舘に籠って守りを固めていたが、一年ほど経った或る日、十人ほどの郎等を従えて抜け抜けと国府に顔を出したのだ。この時、府中(武蔵国ばかりで無く一般に国府の所在地を府中と言う)の秀郷の舘は兵で溢れていた。前の晩にこっそりと兵を入れていたのだ。
『さては、居直って本気で謀叛を起こす気か』
 下野守(しもつけのかみ)藤原基順(ふじわらのもとより)はそう思ったが、国衙(こくが)の中にも秀郷の息の掛かった者が大勢居る。迂闊に動けば殺されるか囚われてしまう。
『ここはこっそりと抜け出して都に上り訴えるしかない。謀叛となれば、単なる乱行などでは無く、完全に朝敵となる。そうなれば、朝廷も今度こそは大規模な追討軍を送ることになるだろう。その中に加わって秀郷を討つことが出来れば、今までの失敗も帳消しになり、出世の道も開けるではないか。災転じて福と為すという言葉が有るが、これは正に天佑神助(てんゆうしんじょ)だ』
 基順(もとより)は、そう思って躍り上がりはしたが、誰にも知られずに抜け出すのは簡単なことでは無い。『さてどうしたものか』と悩んでぐずぐずしている処へ、ひょっこりと秀郷が顔を出したのだ。
 十人ほどの郎等を従えているものの、いずれも弓などは持っておらず、戦支度(いくさじたく)はしていない。
長官殿(こうのとの)。いつに変わらずお(すこ)やかなご様子、恐悦至極(きょうえつしごく)に存じます。この秀郷、持病のため永らくお務めを果たせず誠に申し訳御座いませんでした。幸い快癒致したようで御座いますので、これからは精進して体を(いたわ)りお務めに支障無きよう致したいと存じますので、一層のご鞭撻を賜りたいと存じます。本日は、まずご挨拶に(まか)り越した次第です」
 そう言って、秀郷は深々と頭を下げた。
『抜け抜けと良う言いおるわ。この大狸め』
 基順(もとより)は苦虫を噛み潰したような表情をして、秀郷の頭を見ていた。顔を上げた秀郷は満面の笑みを(たた)えていたが、ほんの一瞬だけその笑みが消え、鋭い眼光が基順を射した。基順は背中から冷や水を浴びせられたかのような悪寒に襲われ、思わず背筋を伸ばした。
「それでは、皆にも挨拶をした上で、今日の処は退散させて頂きます」
 笑顔に戻って秀郷が言った。

 実際この時、後に将門がしたように、下野守(しもつけのかみ)を追放し印鎰(いんやく)を奪い、下野(しもつけ)を乗っ取ることくらいは、秀郷にはいとも簡単に出来た。しかし、下野を乗っ取ったくらいでは朝廷には対抗出来ない。
『坂東を変える為には、もっと大きなうねりが必要だ』秀郷はそう思っていた。

 その後の秀郷は、気が向けば堂々と国府に顔を出していた。(すけ)大掾(だいじょう)が機嫌を取るだけでは無く、大目(おおさかん)以下の官人(つかさびと)達が代わる代わる挨拶に来る。
咎人(とがにん)の分際で……』と(いまいま)々しく思いながらも打つ手が無い。理由を付けて顔を合わさないことくらいでしか、基順は、せめてもの意地を示すことが出来なかった。

 だが、秀郷(ひでさと)が調子に乗って油断しているかと言えばそうでは無い。国府に出入りする者には常に目を光らせていたし、今回、武蔵に行くことに付いても極秘を貫いていた。それに加えて、祖真紀にも(めい)を下していたのだ。 
 三日前に祖真紀は三人の男達に大和人(やまとびと)の人足の格好をさせ、それぞれ三頭ずつの荷駄を積んだ馬を曳かせて武蔵国の国府に向けて出発させている。後ろ二頭の馬の荷箱は空であり、一頭目の藁筒(わらづつ)には身を守る為の武器が入っている。武蔵の国府に不穏な動きが有れば、空荷を捨て、馬を乗り潰してでも全速で秀郷に知らせることになっている。二頭は替え馬だ。草原(かやはら)の近隣の土豪達の動きにも目を光らせる為、それぞれ二人の者を向かわせた。また秀郷は久稔(ひさとし)に使いを送り、
異形(いぎょう)の者が増えると思うが気にしないで貰いたい』と伝えていた。
 実際、秀郷の訪問前日には浮浪人、旅の僧、見慣れぬ農夫等の姿が増えた。彼等は皆祖真紀の配下で、万一の時には何としても秀郷の逃走を助ける任務を負っていた。

 承平(じょうへい)五年(九百三十五年)二月二十五日、まだ寒く空っ風の吹く中、僅か六人の郎等を従えた秀郷が、のんびりとした風情(ふぜい)草原(かやはら)を訪れた。
 久稔(ひさとし)、その妻、豊地、豊水(とよみ)らが秀郷を出迎えたが、露女を始めとする娘達の姿はその中に無かった。久稔が秀郷を案内し、上座を勧める。
「こたびは、突然の無理な願い聞き届けて頂き、痛み入る。厄介をお掛け申す」
 穏やかな笑みを湛えながら秀郷が挨拶する。
「いえ、下野掾(しもつけのじょう)の殿には、このようなあばら家にお立ち寄り頂き、誠に有難う御座います」
 一度頭を下げ、見上げながら挨拶を返す。久稔は『これが噂の、“下野(しもつけ)の暴れん坊”か』と思いながら秀郷の顔を見た。茫洋とした面立(おもだ)ちに、白髪の混じった長い泥鰌髭(どじょうひげ)(たくわ)えている。 
『他人に腹の内を見せぬ男だな』自分のことを棚に上げて、久稔(ひさとし)は秀郷をそう見た。
「ははは。忘れておった。麿はまだ下野少掾(しもつけのしょうじょう)であったのう。じゃが、こたびは遊山(ゆさん)に参っただけ、ただの遠い縁者とのみ思ってくだされ」
「恐れ入ります。ではそのように心得させて頂きますが、遊山と仰せられましても道々ご覧になられた通り、このように見るものとて無い郷で御座います。一体何をお見せしたら良いものやら……」
と秀郷の本音を探ろうとする。
「山ばかり見て暮らしておると、たまには広々とした景色も見とうなってのう。人とは我儘なものじゃの。また、他国の四方山話(よもやまばなし)を聞くのも楽しみじゃな」
と水を向けて来た。
「ほう、四方山話で御座いますか? さて、殿はどのような話にご興味を持たれておいでか、麿などには見当も付きませぬ」
 久稔(ひさとし)、は一先ず惚ける。
「何、(みこと)が面白いと思うことであれば、麿も面白いと思うであろう」
 秀郷の目が動いた。そのくらいは察しているであろうとその目が言っている。
「さてと…… 近頃何か面白きことなど御座いましたかな? 恥ずかしながら苦労ばかり多くて面白きことなど急には思い出せませぬ」
 久稔は、秀郷の本音を読み取ろうとしてか、尚も惚けている。
「ひとの上に立つということは、苦労ばかり多いものじゃ。麿とて同じ。だが、目は開いて置かずばなるまい。周りが見えなくなっては(しま)いじゃからな」
 やはり秀郷は将門の動向を知りたがっているのだと久稔は確信した。そう見当は付けて準備は整っていたが。念の為確認をしたのだ。
「はい。…… 何やら、東の方が騒がしゅう御座いますな」
『お聞きになりたいのはその事で御座いますな』とばかりに秀郷の目を見、秀郷も『そうだ』と目で答える。
「ふん。東の方。ならば、それに付いて民はどんな噂をしておるのであろうか?」
と聞いて来た。
「まだ、左程(さほど)では御座いません」
と答える。
(みこと)はどう見る?」
と秀郷が重ねて問う。
「大火にならねば良いがと思うております」
 少し乗り出していた体を起こし、秀郷が僅かに笑う。
「ふん。村岡五郎が一枚()めば、この草原(かやはら)にも火の粉が飛んで来るやも知れぬと言うことか?」
 久稔(ひさとし)が頷く。
「恐れ入ります。お察しの通りに御座います」
 秀郷が久稔の目を覗き込むように見た。
「麿は豊田の小倅(こせがれ)(いさささ)か興味が有ってのう」
と言って久稔の反応を見ている。
豊田小次郎(とよだのこじろう)将門(まさかど)とか言う者で御座いますか?」 
前常陸大掾(さきのひたちのだいじょう)源護(みなもとのまもる)の子三人を討ちおった。例え村岡五郎が()まずとも只では済まん。潰されるか、跳ね除けるか見物(みもの)じゃ。待ち伏せを受けながら逆に討ち取ってしまうとは、なかなかの戦上手(いくさじょうず)と見えるな」
 正に、秀郷は久稔(ひさとし)の読んだ通りの事を考えている。もし、村岡五郎が絡んで来て、この北武蔵が軍場(いくさば)となった場合、秀郷が介入してくれればと言うのが久稔の思惑だ。その為の手は打った。
「実は、たまたま、我が家の郎等のひとりが、暇を取って三日ほど下総(しもうさ)の叔母の所へ行っておりました。何か面白き話など聞いておるやも知れません」
と探りを入れてみる。秀郷は(いぶか)しげな顔で久稔を見た。 
「何? 下総へ? …… たまたまとな」
『やはり、読んでおったか』と秀郷は思う。
「はい。たまたま行っておりました。宜しければ呼んで、噂話などお聞きになってみては?」
 今度は、久稔が秀郷の目を見て反応を探る。
「うむ。せっかくの嗜好。聞かせてもらおうか」
 秀郷が頷く。
「これ、二郎はおるか!」
 久稔が手を打って呼ぶと、控えていたのか、正能(しょうのう)二郎・輔定(すけさだ)がすぐに現れた。
「近う。近う参れ」
 (えん)で挨拶をした輔定を久稔が呼び入れた。
「構わぬ。もそっと近う」
 部屋の中程に控えた輔定に、更に秀郷がそう言った。
「恐れ入ります。(じょう)の殿には、初めて御意(ぎょい)を得ます。手前、この()の郎等・正能二郎と申します。お見知り置きを」
「下総に行っておったそうだな」
と秀郷が尋ねる。
「はい。叔母の家で三日ほど遊んでおりました」
「何か面白い話は有るか?」
「はい。つい先日、(さきの)常陸大掾(ひたちのだいじょう)様の子らを討ち取った将門とやらの評判は大したものに御座います」
「うん。どのように?」
 秀郷が身を乗り出す。
「普段から民と共に働き、自ら(もっこ)を担ぎ率先して新田開発などを行うばかりでなく、皇孫の身分にありながら気さくに民の話を聞き、高ぶるとところが無いそうです」
「ほう。…… それで、こたびの争いについては?」
 そう言いながら、秀郷が腕組みをする。
「『さすが小次郎様』というのが大方(おおかた)の声で御座いましょう。もともと将門の父の遺領を伯父達が横領しているということですから、将門に同情しており、農夫達は皆志願して将門の兵として働きたいと思っておるようで御座います」
 感心したように頷く。秀郷の将門と言う男への興味は益々深くなったようだ。
「徴発された兵と違って、それは強いのう」
御意(ぎょい)
 軽く息を吐き、秀郷が頷く。そして、
「なかなか面白き話聞かせて貰った」
と告げる。その様子を見て久稔(ひさとし)が、
「良いぞ。下がれ」
 と二郎輔定を下がらせる。

 (うたげ)が催され、一族の者達が代わる代わる進み出て秀郷に挨拶をし、盃を交わした。久稔の妻や千早(ちはや)を始め郷の娘達が接待をし、露女を除く久稔の娘達もその中に加わっていた。秀郷は愛想良く応じ、同席を許された秀郷の郎等達は慎み深く宴を楽しんでいた。
「うん。愉快、愉快。過分な持て成し痛み入る」
 笑みを浮かべて、秀郷が久稔に言う。
「飛んでも御座いません。粗酒粗肴(そしゅそこう)でお恥ずかしゅう御座います」
 それに答えて、久稔が頭を下げる。
「ちと、風に当たって来る」
 と秀郷が久稔に突然告げた。
「お供致します」
と久稔が応じる。
「いや、それには及ばぬ。いばり(小便)じゃ」
 秀郷は首を横に振り、掌で、立とうとする久稔を軽く制する。
 秀郷が(えん)から(きざはし)に足を掛けると、郎等のひとりが履物を揃える。庭の隅に向かう秀郷の後には、二人の郎等が距離を取って従い、他人を近付けぬ空間を作る。
「いずれかに動きはあるか?」
 小用を足しながら、秀郷が、(ひと)(ごと)のように呟くと、植え込みの陰から返事が有った。
「いえ、国府に動きは全く有りません。村岡、箕田(みのだ)笠原(かさはら)私市(きさいち)いずれにも動きは御座いません」
「そうか。分かった。祖真紀、気を緩めるでないぞ」
と姿無き声に秀郷が命じる。
「ははっ。承知」
と声だけが答える。

 賑やかな宴の後、人を近付けぬよう久稔(ひさとし)に言い置き、秀郷は、用意された寝所(しんじょ)に入った。そして、燭台(しょくだい)の灯りがゆらめく中、腕組みをして暫し考えていた。都から集めさせた将門の評判と先程聞いた話を突き合わせて、将門という男の実態を描き出そうとしていたのだ。

 将門は十五~十六歳の頃、都へ出て、藤原家の氏長者(うじのちょうじゃ)であった藤原忠平(ふじわらのただひら)私君(しくん)とした。
”私君”とは(おおやけ)の身分として仕えるのでは無く、いわば、願い出て勝手に仕えることで俸給などはもちろん貰えない。生活費は国許(くにもと)から送って貰う。それだけでは無く、常に各方面、つまり(あるじ)だけではなく家司(けいし)(摂関・大臣家などの家政を司る者)や女房達にも付け届けをしなければならない。直接、(あるじ)に願い事など出来ないから、間に立って主に取り次いでくれる者を味方にしなければならないのだ。
 何が目当てかと言えば、(あるじ)の推薦を受けて官職を得ることである。そんな訳で、有力な公卿(くぎょう)は、公に認められた家臣の他に只で使える従者(ずさ)を大勢抱え、それらの者から常に貢物(みつぎもの)まで巻き上げていたのだ。為政者達に取って、ここまで都合の良い世の中は滅多に無い。

 将門が仕えたのは、そんな権力者達の中でも頂点に立つ藤原忠平である。
 普通であれば、やがてはそれなりの官職を得られる立場にあった。処が将門は、気に入らないとすぐに顔に出るという大きな欠点を持っていた。反抗はしないが、明らかに不満なのだとすぐ分かる。結果、家司(けいし)や他の上の者に嫌われ、何年経っても官職に就くことが出来ないでいた。貢物(みつぎもの)はそれなりにしていたが、嫌われていては、それも溝に捨てているようなものだ。
 一方、同じく都に上っていた従兄弟(いとこ)貞盛(さだもり)は、明るく人なつっこい人柄で上司にも可愛がられていたばかりで無く、衣服の着熟(きこな)しも所作も都風を身に着けていたので、田舎者丸出しの将門とは違って女房達にも人気が有った。その上、貢物(みつぎもの)も、ただばら()く訳ではなく、家司(けいし)や女房達の好みを調べ、多少無理をしても相手の喜ぶ物を用意すると言う気配りも見せていた。同じ坂東から上絡(じょうらく)し、しかも従兄弟同士。時折会っては話をしていたが、将門の口から出るのは不満ばかり。貞盛が助言しても、一応は聞くが結局自分の生き方を変えない頑固者であった。
「この世の中、間違っておる!」
 将門は良く言った。
「そうかも知れんが、その中で上手く生きて行くより仕方あるまい」
 結局これが、将門と貞盛(さだもり)の考え方の違いであった。従兄弟(いとこ)の貞盛にだけに愚痴を溢すだけならまだ良かったのだが、都には将門と同じように何年経っても芽が出ない若者達が大勢居た。そんな者達が集まって酒を飲んでは愚痴を溢し合うようになるのは自然な流れだ。ところが、そんな仲間の中にも、内輪の愚痴を告げ口して自分だけ浮かび上がろうとする、飛んでもない奴も居るのだ。
 将門の愚痴もいつの間にか家司(けいし)の耳に入っていたりする。そして、巡り巡って秀郷の情報網にまで捕えられる始末だ。

『ふん。都での評判と下総(しもうさ)での評判、とても同じ男のものとは思えぬな。愚者(おろかもの)であり、同時に民人(たみびと)に慕われる英主(えいしゅ)という訳か…… 単に都の水が合わず坂東の水が合っていたというだけのことで済ますことでは無い。しかし、いずれも所詮は噂。実際にはどんな男なのか、一度この目で確かめてみたいものだ』秀郷はそう思った。

 秀郷は将門という男に付いて考えていた。『単なる愚か者かも知れぬ。たまたま今回の(いくさ)には勝ったが、いず潰れされるだろう』と思った。源護(みなもとのまもる)の三人の子息を(ことごと)く殺してしまったのだ。(まもる)は大きな痛手を蒙ったろうが、何としても将門を討とうとするに違いない。前常陸大掾(さきのひたちのだいじょう)として隠然たる力を保持していた男だ。その上、国香(くにか)良兼(よしかね)良正(よしまさ)、この三人の将門の伯父達は揃って(まもる)の娘を()としている。高望王(たかもちおう)(平高望)の子達でさえ、(まもる)の力を必要とした結果だ。

 上野(こうづけ)常陸(ひたち)上総(かずさ)の三国は親王任国(しんのうにんこく)である。筆頭官は(かみ)では無く太守(たいしゅ)と言う官職として必ず、天皇の子である親王(しんのう)補任(ぶにん)される。
 上野(こうづけ)上総(かずさ)と共に親王任国である常陸国(ひたちのくに)大掾(だいじょう)という役職は、他国で言えば(すけ)に相当する官職である。退任後もその影響力を残していた。
 太守(たいしゅ)は当然、遥任(ようにん)として現地には赴任しなかった為、実務上の最高位は次官の(すけ)であった。大掾(だいじょう)はそれに次ぐ役職ということになる。
 その上、同じ皇孫と言っても、源氏と平氏とでは格が違う。源氏は天皇の子又は孫が臣籍降下(しんせきこうか)したものであるのに対し、平氏は三世以降の王と呼ばれる皇孫が臣籍降下したものである為だ。中でも一字名源氏(いちじなげんじ)は、初めて臣籍降下した嵯峨源氏(さがげんじ)か次の仁明(にんみょう)源氏のうち、一世が臣籍降下した者に限られる。仁明源氏(にんみょうげんじ)のうち二世が降下した者の中に一字名は居ない。数が多くなりその有難味が薄れその身分も低く成りつつあった皇孫の中でも、一字名源氏(いちじなげんじ)は貴種と見られていた訳だ。だから、常陸(ひたち)下総(しもうさ)上総(かずさ)に勢力を広げつつあった平高望(たいらのたかもち)の子らも、進んで(まもる)との縁を結んでいたのである。

 良兼(よしかね)良正(よしまさ)の二人にしてみれば、この度の(いくさ)(まもる)相婿(あいむこ)である長兄の国香をも失っている。(まもる)に対する義理からも将門を討たない訳には行かないだろう。
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