第五章 第7話 逡巡
文字数 4,444文字
兼通の前を辞した信濃守・平維茂は満仲を居室に呼び、見張りを立てた上、ひそひそ話を始めた。
「いやはや驚きましたな。無法に騒乱を起こした者と話し合いとは、兼通侯は何をお考えであるのか」
「関白様の命と言われては、何とも」
満仲も渋い顔をしている。
「命が大納言様から受けた命は、関白様もご同意の上であったのであろう。それが一夜にして覆るとは、一体どうしたことであろうのう」
「大きな声では言えぬが、恐らく、蝦夷の蜂起の噂に怯えられたのであろう」
実頼の事である。
「有るか?」
「分からぬ」
「それにしても、大納言様にはひと言も無く覆されたのでは、大納言様も怒り心頭なのでは」
「仮にも関白じゃ。大納言様とて、正面切って潰す訳には行かん」
「黙って従う他無いと言われるか? しかし、考えても見られよ。関白様の世も先が見えている。遠からず大納言様が取って代わられることは目に見えている。今、大納言様の意を汲んで行動して置くことで、将来が開けるとは思われぬか」
満仲にしても、嘗て自分を侮辱した兼通の命に従うのは腹立たしい。しかし、感情に流されて判断する男では無い。今、関白の意に逆らって千方、千常を討ってしまうことの利害得失を考えてみた。
上手く討ち果たせれば、騒乱を収めることは出来る。収まってしまえば、関白・実頼とて伊尹を責めることは出来ないだろう。ただ、実頼の恨みを避ける為、伊尹が、満仲と維茂に責任を押し付けて、勝手にやったこととして実頼と手打ちに持ち込むことは無いだろうかと思う。
従ってはいても、満仲は公卿と言うものを信用してはいない。己の立場を守る為なら何でもやるのが公卿と言うものだと思っている。ましてや、千常、千方の暗殺に失敗でもすれば、全ての責任を押し付けられるのは目に見えている。降格も、従五位下でとどまれば良いが、やっと得た貴族の地位を失うようなことにでもなれば、二度と貴族に戻ることは出来ないかも知れない。そう思うと、簡単に維茂の言葉に乗る訳には行かない、
「今、関白様の意に逆らって罰を受けるようなこととなったとしても、大納言様の世となれば、必ず賞される。そうは思われぬか?」
維茂が畳み掛ける。維茂の考えの甘さに、満仲は呆れた。単なる希望的観測でしか無い。実頼が意外に長く今の地位にとどまると言う可能性も無くは無いのだ。その間に兼通の地位を引き上げ、伊尹と兼通の立場が逆転してしまうことも有り得る。外戚と言う点に於いては伊尹も兼通も立場は同じなのだから。
例えば、自分が実頼の立場であったならどうするかと満仲は考えた。伊尹、兼家、兼通の三人は九条流であり、いずれも外戚である。対する実頼、師尹、師氏の小野宮流は外戚では無い。
現在の地位こそ、関白・実頼、左大臣・師尹は大納言・伊尹より上だが、外戚である伊尹が日に日に力を増して来ている。高齢の実頼が職を辞すか薨去するようなことになれば、実権は完全に九条流のものとなり、九条流が摂関家の主流となる。つまり、小野宮流の子孫は傍流となってしまうのだ。
自分が実頼の立場であれば、その現状を傍観することは無いだろうと満仲は思う。狙い目は、兄弟達と仲が悪く冷飯を食わされている兼通である。師尹、師氏の弟達をしっかり抱え込み、兼通を出世させることで恩を売り、伊尹、兼家兄弟と対抗する。伊尹を出し抜いて兼通を最高権力者候補とし、その間に孫娘を入内させ、男子が生まれれば外戚の地位を獲得出来る。そうであれば、実頼に取って兼通は大事な駒。気に入らない男だからと言って、関白・実頼の命に今逆らうことは危険が大きい。満仲はそう結論付けた。
「命が変わったのじゃ。まして関白様直々の命とあらば、従う他無い。伊尹様の世となればと言うても、何の保障も無いことじゃ。下手をすれば、我等が反逆者とされてしまうぞ」
満仲は維茂をそう諌めた。
「これは都で名高い兵である満仲殿とも思えぬ気の弱いことで御座るな」
維茂は満仲の弱気を詰るように言った。
「我等、朝廷に仕える身で御座ろう。その最高位に有る方の命じゃ。仕方無いではないか」
満仲にそう言われた維茂は、ここまで腹を割って話してしまった以上、単独で強行することは出来なくなった。
「本意では無いが、命がそう言われるのであれば、やむを得ませんな」
そう言って折れた。
何度か使いが往復し、互いの安全を確保する為の約束が交わされた後、警備の人数を決めて、会談は佐久の福王寺で行われることとなった。
仮にも一方は参議。兼通側は最初、千常側を地下として配することを主張したが、千常は『裁きを受ける訳では無い。また、そんな距離では真面に話も出来ない』と飽くまで主張し、結局、左右向かい合うと言う訳には行かないが、双方本堂上に座し、兼通側が上座、千常側が下座と言うことで妥協した。兼通側は、参議・兼通、信濃守・平維茂、そして満仲の三人。一方の千常側は、千常、千方、望月貞義の三人が出席した。
「藤原千常。武力を以て信濃の地を乱し、国府に逆らったこと、甚だ怪しからんことである。本来ならお上のご威光を以て制すべき処であるが、世情不安の折、説諭に従って速やかに鉾を収めるならば、特別な計らいを以て罪一等を減じ、お構い無しとする。これは関白太政大臣様直々の命であり、温情である」
兼通は重々しく一同にそう言い渡す。聞いていた千常が、
「お言葉を伺う限り、一方的な申し条、話し合いとは思えません。我等の言い分を聞くおつもりが無ければ、これ迄で御座るな」
と早くも決裂を宣言した。
「待て。申したきこと有れば言うてみよ」
朝廷の権威を背景に、難無く収められると思っていた兼通は少し慌てた。決裂させる訳には行かないのだ。
「前左大臣・高明様及び我が兄・千晴並びに、同じく濡れ衣を着せられた方々を都にお戻し頂きたい」
絶対に譲れぬと実頼に釘を刺された問題を、千常はいきなり持ち出して来た。
「濡れ衣とは何か。高明、千晴、その他の者共は、罪が有ったゆえ罰せられたのじゃ。朝廷の正当なお裁きに因り決せられたこと。それが覆ることは無い」
この一点を断固拒否し、且つ和睦を纏めなければならないのだ。
「やはり、これ迄で御座いますな」
千常は飽くまで強気に言った。
「朝敵となるぞ。良いのか」
と兼通は脅しを掛ける。
「帝に逆らうつもりは毛頭御座いませんが、そう看されるのであれば仕方無い」
「飽くまで朝廷のご威光に盾を突くつもりか!」
兼通は顔色を変えた。
「このままでは、下野藤原が潰されます。座して死を待つつもりは有りませんので」
千常は、そう詰め寄る。
「潰さぬ。そう約束する」
しかし、何としても千常を説得しなければならないと思い、そう言った。
「それを信用せよと申されるか?」
言葉だけでは説得出来そうもなかった。
「約束する。そればかりでは無い。近頃、蝦夷に不穏な動きも見えると聞くが、そなたの武勇を評して鎮守府将軍に任じても良いと思うておる」
兼通は切り札を切った。千常は苦笑いして、
「己の立身出世の為にしている訳では無い」
と言った。欲得では無く意地だとすれば面倒だと兼通は思った。
「争いが続くことは民の迷惑でもあろう。時を与えよう。考えてみるが良い」
兼通は方向を変えて、そう攻めてみる。
『民のことなど考えたことも無いくせに』と千常は思った。だが、鎮守府将軍を匂わせて来た処を見ると、蝦夷の蜂起を恐れているのだなとは思った。であれば、まだ、譲らせる余地は有るのではないかと思った。
「こちらの申し条は、飽くまで高明様、兄・千晴らの赦免。ご検討頂けるのであれば、今一度話す機会を持つことに吝かでは無い」
こちらの条件は変わらないと飽くまで主張する。決裂は出来ない。千常が再検討を要求して来たのなら、持ち帰って時を稼ぎ対策を考えるしか無いと兼通は思った。
「約束は出来ぬ。だが、そのほうも、今一度、頭を冷やして考えて見るが良い」
と申渡し、その日の会談は、何の進展も無く終わった。
それぞれ勝手な思惑を以て、無理矢理、再度の話し合いが約束された。高明、千晴らの赦免。一番譲れない処を千常は突いて来ている。このままでは、何度話しても決着は着かないだろう。だが、何としても纏めなければならない。これを纏め上げて実頼の信頼を得なければ、兄弟を出し抜いて出世することは出来ない。先が見えない交渉に、兼通は頭を抱えた。
一方、お手並み拝見とばかりに成り行きを見守っていた満仲と維茂は、これは決裂するなと思った。慌てて反抗しなくて良かったと思う。交渉が行き詰まって決裂すれば、もはや、兼通は口出し出来無くなるばかりでは無く、実頼の信頼をも失うことになる。特に満仲にすれば、『様あ見ろ』と言った処だ。
こちらは千常。戦うより他に無いと腹を括っているものの、やはり、安倍の支援が得られないことは大きい。蝦夷蜂起の噂を敵が恐れているうちに、こちらの言い分を通してしまうことは出来ないだろうかと模索していた。
「兼通が太郎兄上と高明様の赦免に付いて譲る可能性は御座いましょうか」
千方がそう尋ねた。
「一旦決した朝廷の裁きを覆すとなると、参議如きには出来ぬ。関白・実頼、大納言・伊尹、その二人共が蝦夷蜂起の噂に怯えて我を忘れて慌てふためく以外には無かろうな」
「難しゅう御座いますな」
難しい展開になってしまったと千方は思った。
「六郎。我等が下野藤原を滅ぼすことになったら、あの世で父上にさぞかし叱られるであろうな」
千常が笑いながらそう言った。
「兄上の口から、そんな弱気なお言葉を聞くとは思いませんでした。やるからには勝たねばなりません」
千方はまだ望みを捨ててはいない。
「いや、臆して申している訳では無い。ただ父上であれば、一から十まで考えた上で勝算を導き出したであろうが、我等は行き当たりばったり。まるで、目隠しをして太刀を振り回しているようなものじゃ。麿もそなたも不出来な息子であるなと思ってのう。戦には勝ちも有れば負けも有る。その全てを推し測って決断出来るのが父上であった」
あの強気一辺倒だった千常も老いたのかと千方は思った。
「兄上、父上に伺うことは出来ませんが、朝鳥の意見を聞いてみませんか」
と千方は提案した。
「朝鳥は郎等ではありますが、兄上に取っても麿に取っても師と言えます。そして何より、父上ならどうお考えになるか一番分かっているのも朝鳥ではないでしょうか。下野藤原の浮沈を掛けた決断をするに当たって、朝鳥の助言は貴重と思います」
「うん? 確かに。考えてみれば、朝鳥には近頃寂しい想いをさせているのかも知れぬのう。体は衰えても、あの男、頭は衰えてはおらん。父上のお心を最も知る者には違いない」
千方の提案に千常も同意した。
「鷹丸が戻る頃ではありますが、新たに鳶丸を送り、出兵前に急ぎ来るよう、朝鳥に伝えさせましょう」
「分かった。そう致せ」
そう言って、千常は千方の肩を叩いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)