第七章 第12話 鏑木の罠

文字数 17,344文字

千晴(ちはる)がなぜ?』と満仲(みつなか)は思う。『まさか、摂政家(せっしょうけ)家司(けいし)を殺そうとする程の(たわ)けに成った訳でもあるまい』
 探って来た者の報告に寄ると、僧は全くの一人だと言う。となれば、源満仲ほどの者が逃げ隠れする訳には行かない。又、郎等を引き連れて行くのも沽券(こけん)に関わる。何のつもりかは分らぬがひとりで行くしか無いと思った。

 都見物に上って来た土豪のようないで立ちで笠を被り、満仲はひとり西院(さいいん)に向かった。摂政(せっしょう)・藤原兼家の家司(けいし)とは誰も気付かない。そんないで立ちである。
 境内に入ると、成るほど老僧がひとり庭石に腰掛けている。こちらも笠で顔は見えないが、()せこけた老僧である。
『あれが、本当に千晴なのか』
 満仲はそう思った。満仲の知る千晴は、痩せ形ながら、鍛え上げられた肉体を持った精悍な男だ。
 満仲はゆっくりと歩んで老僧の前に立った。老僧もゆっくりと立ち上がる。
 顎紐(あごひも)を解き、老僧が笠を脱いだ。かなり、老け込んでいる。
「何用か? 麿を殺しに来たのか」
 満仲が静かに尋ねる。
「まさか」
 そう言って、千晴は静かに笑った。
「見ての通り、(つえ)以外持ってはおらぬ。それに、この体では立ち会っても負けるわ」
「で、あろうな。それほど愚かに成ったとも思えぬ。だが、麿に対して、それ以外の用が有ろうとも思えぬ。まさか、単に(うら)み言を言いに来た訳ではあるまい」
 満仲は千晴を見据えた。
「恩も(うら)みも情も捨てた。今は無名(むみょう)と名乗っておる。要は名無しじゃ。ここに居るのは、もはや、藤原千晴(ふじわらのちはる)などでは無い」
 満仲は鼻の先で笑う。
「 『千晴(ちはる)がなぜ?』と満仲(みつなか)は思う。『まさか、摂政家(せっしょうけ)家司(けいし)を殺そうとする程の(たわ)けに成った訳でもあるまい』
 探って来た者の報告に寄ると、僧は全くの一人だと言う。となれば、源満仲ほどの者が逃げ隠れする訳には行かない。又、郎等を引き連れて行くのも沽券(こけん)に関わる。何のつもりかは分らぬがひとりで行くしか無いと思った。

 都見物に上って来た土豪のようないで立ちで笠を被り、満仲はひとり西院(さいいん)に向かった。摂政(せっしょう)・藤原兼家の家司(けいし)とは誰も気付かない。そんないで立ちである。
 境内に入ると、成るほど老僧がひとり庭石に腰掛けている。こちらも笠で顔は見えないが、()せこけた老僧である。
『あれが、本当に千晴なのか』
 満仲はそう思った。満仲の知る千晴は、痩せ形ながら、鍛え上げられた肉体を持った精悍な男だ。
 満仲はゆっくりと歩んで老僧の前に立った。老僧もゆっくりと立ち上がる。
 顎紐(あごひも)を解き、老僧が笠を脱いだ。かなり、老け込んでいる。
「何用か? 麿を殺しに来たのか」
 満仲が静かに尋ねる。
「まさか」
 そう言って、千晴は静かに笑った。
「見ての通り、(つえ)以外持ってはおらぬ。それに、この体では立ち会っても負けるわ」
「で、あろうな。それほど愚かに成ったとも思えぬ。だが、麿に対して、それ以外の用が有ろうとも思えぬ。まさか、単に(うら)み言を言いに来た訳ではあるまい」
 満仲は千晴を見据えた。
「恩も(うら)みも情も捨てた。今は無名(むみょう)と名乗っておる。要は名無しじゃ。ここに居るのは、もはや、藤原千晴(ふじわらのちはる)などでは無い」
 満仲は鼻の先で笑う。
(なれ)の寝言などに興味は無い。用件を申せ。結構忙しい身でな」
と、千晴の思惑を確かめようとした。
「ならば率直に申そう。仏門に入る気は無いか?」
 満中に取って、千晴の(げん)は意外過ぎて、何の魂胆が有って言っているのか、その予測すらも付かないものだった。
「何? 馬鹿も休み休み申せ。何が悲しくて麿が出家せねばならんのだ。やはり(ほう)けたか、千晴」
 馬鹿にするように、そう言った。
「そうか、思い悩むことは無いのか。それならば良いが」
と千晴は思わせ振りに言う。
「何が言いたい。ふん、分かったぞ。坊主の(なり)をして(もっと)もらしいことを申しておるが、やはり恨み言を言いたいのであろう。もし、高明(たかあきら)様が失脚しなければ、その家司(けいし)として、(なれ)は今の麿と同じ立場に立っていた筈だったのだからな。
 高明様を見限った麿を許せぬであろう。だが、そんな持って回った言い方でしか麿に恨み言を言えぬとすれば、藤原千晴も落ちたものよな。はっきりと(ののし)られた方が、まだ気分が良いわ」
(ののし)られることには慣れていると申すか。気の毒にな」
 満仲がキッと目を()いた。心の奥底を見透かされたような気がしたのだ。満仲は、左手で太刀の(さや)を掴んだ。右手で(つか)を握れば、いつでも抜ける態勢である。
「哀れな姿を見ては斬る気も起らなんだが、愚弄する気なら斬り捨てるぞ」
と、威嚇する。千晴は顔色も変えない。
「そうしたければするが良い。もはや惜しい命でも無い。だが、坊主を殺すと七代祟ると申すぞ。そう成ることは本意ではあるまい。世間の陰口を気にせず(なれ)がひた走って来たのは、弟達や子や孫に美田を残してやりたいが為であったのであろう。
 世間からは鬼のように言われても、(なれ)には、そう言う家族思いの優しい処が有る。麿と違ってな」
 満仲が何とも言えない妙な顔付きをした。
「気色の悪いことを申すな、心にも無く」
と、改めて千晴を睨む。
「いや、今は心底そう思っておる。確かに、あの頃は(なれ)(さげす)んでおったし、警戒もしていた。島に居た頃は、(なれ)を殺す為に生きて帰る。日々そう思って過ごして居た。だが、生まれて初めて飢えと言うものを知り、病をも得て、我が命もはやこれ迄かと悟った時、ふと気付いたのだ。(なれ)に取っては、負け犬になるか、あの生き方をするかのどちらかしか無かったのだとな。麿は、父の残してくれた美田の上に胡坐(あぐら)()き、兄弟達の助けも有って、ただ、ひたすら高明様に仕えることが出来ていたのだとな。それに引き換え、(なれ)には何も無かった。どんな手を使ってでも、己で掴み取って来なければならなかったのだな。そう気付いた。そして思った。もし麿が(なれ)の立場だったらそこまで頑張れたであろうかとな。恐らく、負け犬に成っていたであろう。
 そんな風に立場の違う者が、簡単に他人を『善だ。悪だ』と決め付けて良いものだろうかと思った。(なれ)(たばか)られたからでは無い。負け犬となったのは、己自身の身から出たものだと気付いた。だが、更に考え続けると、何が勝ちで何が負けなのかと思うようになった。
 本音を言えば、(なれ)同様、麿も出世しか考えていなかったのよ。こんなことを言い出すと、それこそ負け犬の遠吠えとしか聞こえぬであろうが、生き方に付いて何かと考えるようになり、結局、己で答を出すことが出来ず(きょう)を読み仏に(すが)った」
 満仲は、自分はなぜこんな戯言(たわごと)をいつまで聞いているのかと己自身で思いながらも『もう良い。失せろ』と言ってその場を立ち去ることが出来ないで居る自分に苛立(いらだ)っていた。
「浮き世も戦場と同じ、善も悪も無い。有るのは勝ちか負けかだけだ。麿が勝ち、(なれ)は負けた。それだけのこと、わざわざ仏に聞かずとも自明のことだ。屁理屈を並べてみても、腹の足しにもならんぞ」
 そう皮肉っぽく言った。
「仏に教えを乞いたいのは、そのようなことでは無い」 
と千晴が答える。
「なら、仏には会えたのか?」
 満仲は、意識してことも無げに尋ねた。
「いや、まだだ。心は未だ彷徨(さまよ)っておる」
()や子、孫達には会うたか?」
「情は捨てたと申したであろう」
「ふん、下らん。いつまでそんな話に付き合っておられんわ」
 そう言い残すと、満仲は(きびす)を返して歩き出した。千晴は、それを無言で見送る。少し行って、満仲が振り返った。
無名(むみょう)とやら、二度と麿の前に現れるな」
 凄みを効かせて、千晴を睨む。
(なれ)の曾祖父は清和(せいわ)(みかど)。皇孫たる身がこのままで終われるかと言うのが、(なれ)の出世欲の源であったのでは無いのか。そして、帝の血を引いていると言うことが、唯一の誇であったはずだ。前帝(さきのみかど)にしたことに対し(たてまつ)り、今、心苦しくは無いのか?」
 己の悩みをずばり突かれて、満仲は内心ギクリとした。
「何のことを申しておる」
と惚ける。
「いや、良い」
 再び(きびす)を返して、満仲は歩き始めた。
「世迷い言を抜かしおって」
 そう呟くが、ずっしりと重い物が載し掛かって来るような気がした。

    
 都からは遠く離れた下野(しもつけ)の国府。
 千方の弟・文脩(ふみなが)が、下野守(しもつけのかみ)目代(もくだい)である鏑木当麻(かぶらぎとうま)に呼び出されている。
「良う参られた。忙しいところ呼び出して済まなかったな」
 鏑木当麻(かぶらぎとうま)は愛想良く文脩を迎える。
「いえ、暇をもて余している身ゆえ」
とありふれた対応をした文脩だったが、
「そうであったな。本来なら下野藤原(しもつけふじわら)の当主となるべき身がのう」
と言う、鏑木(かぶらぎ)の言葉を聞いて、緊張を高めた。何らかの意図が有って自分を呼んだのだと気付いた。
「いえ、そう言う意味で申し上げたのでは御座いません」
 相手の出方を見て、差し障り無く(かわ)して行く他無いと文脩は思った。
「だが、分からぬのは先代のお考えじゃ。このように立派なご実子がおられるのに、何故(なにゆえ)?」
『そんな徴発になぞ乗らんぞ』と文脩は思う。 
「麿は未だ未熟ゆえ、当主など務まりません」
「そのようなことは無い。今日も、中々気配りの有る手土産を貰っているそうで、麿から見れば、下野藤原家(しもつけふじわらけ)の当主として立派な(うつわ)をお持ちと見えるがな」
 露骨に文脩と千方を仲違(なかたが)いさせ、下野藤原を揉めさせようとしているのだと分かる。
「麿は元より、家中(かちゅう)一同の者も納得してのことで御座います」
「いや、これは失礼致した。つい、他家の事情に深入りしたことを申してしまった。許されよ」
 鏑木は白々しくそう言った。餌を投げ、文脩の反応を見ているつもりなのだろう。
「いえ、お気遣い(かたじけな)く存じます」
と差し障り無く、文脩は返す。
「実は、我が(あるじ)・下野守様が、そなたのことを気にしておられてな。承知の通り、我が殿は摂政(せっしょう)家の家司(けいし)でもある。麿から殿に申し上げることは、摂政様のお耳に入れることも出来る。麿は、そなたがいたく気に入った。何ぞ困ったこと有らば、遠慮無く申して来るが良い。どのようなことでも、必ず役に立てると思う」
「有り難う御座います」
「なに、下野守(しもつけのかみ)の職は、下野藤原の協力無しには務まらぬ仕事。まして、目代(もくだい)に過ぎぬ麿などは尚更(なおさら)じゃ。当主がそなたであったなら、もっと楽しく仕事が出来たであろうと思ってな」
 文脩は逆に鏑木を(からか)いたくなった。
「と申されますと、今、当家との間に何か不都合なことでも有ると言うことで御座いましょうか?」
と、聞いてみる。
「いや、取り立ててそう言うことは無い。だが、麿は目代の身であるから、(さきの)鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)様には、色々と言い(ずら)いことも有るのよ」
「そのようなことであれば、お役に立てると思います。宜しければ、麿から兄に話しますが」
 何を言って来るかと思いながらも、文脩がそう水を向ける。
「今、取り立てて何か有ると言う訳では無い。何かの折には頼むかも知れぬ」
 鏑木はそう(かわ)した。

 目代(もくだい)が下野藤原を分裂させようと狙っていることを文脩(ふみなが)は感じ、来る前にひと言、千方に話して置くべきだったと思った。
 鏑木当麻(かぶらぎとうま)は、恐らく、尾ひれを付けて自分と話したことを意図的に流すだろう。それが、他人の口を介して千方の耳に入れば、千方から、有らぬ疑いを掛けられるかも知れない。文脩(ふみなが)は、小山(おやま)に寄って全てを千方に話そうと思った。
 父・千常や千方の考えも分からない訳では無い。(つわもの)の意地も大事だ。だが、世は既に摂関家のものと成っている。それに比べて、(つわもの)の力は小さ過ぎる。殆どの者が摂関家に(すが)って生きており、(つわもの)同士の連帯感も無い。そんな中で孤高を貫こうとすれば、結局は潰されることになるのではないか。理想は分かるが、千方には、もう少し現実を見て欲しい。文脩(ふみなが)はそう思っている。だからと言って、目代(もくだい)の口車に乗って千方を追い落とそうなどとは考えていない。

 小山(おやま)の舘に着くと文脩(ふみなが)は、一度深く呼吸してから中に入った。広間で待つと、間も無く千方が現れた。
「突然どうした? 来るとは聞いていなかったが」
 入って来るなり、歩きながら千方がそう尋ねる。 
「申し訳有りません。実は、国府に行った足で寄らせて頂きました」
と、文脩は訪問の主旨を述べた。
「国府に?」
「はい。目代(もくだい)に呼び出されました」
「用件は?」
 文脩(ふみなが)が表情を引き締める。
「それですが、どうも我が家を割ろうと画策(かくさく)しているように思えます」
「有り得ることだ。鏑木(かぶらぎ)と言う男、満仲の郎等と言うことに成っておるが、実は、満季(みつすえ)の郎等じゃからな」
 そう言いながら、千方が腰を下ろす。
「左様で。それが、何か?」
 文脩(ふみなが)は、千方と満季の因縁を知らなかった。
「満季は満仲以上に麿を恨んでおる」
 千方はそう言った、
「初めて伺いました。一体、兄上との間に何が有ったのですか?」
「昔のことだ。それは良い。だが、満季と言う男、(あきら)めの悪い男じゃな」
「ご安心下さい。そのような手にうかうか乗るようなことは御座いません」
 何よりも伝えたい事はそれだった。
「分かっておる。そなたを疑ってなどおらぬ」
「有り難う御座います」
「しかし、そなたが話に乗らんと踏んだら、次にどんな手を打って来るかだ」
 そう言って、千方は(くう)(にら)んだ。

 鏑木(かぶらぎ)の手は、意外なところに伸びた。
 数日後のことだ。侑菜(ゆな)の父・端野昌孝(はしのまさたか)の舘に国府の役人が現れた。
「突然のことで済まぬが、目代様が近くにおいでになっておってのう。見廻りの途中じゃ。少し疲れを覚えたので、白湯(さゆ)など飲んで、暫し休みたいと仰せじゃ。前鎮守府将軍(さきのちんじゅふしょうぐん)様の北の(かた)のご実家が近くに有るのを思い出されてな。(しば)し休ませて貰えぬか聞いて参れとのことで伺った」

 応対した郎等が急いで昌孝に報告する。
「何? 目代(もくだい)様が? そうか。『(あば)()では御座いますが、宜しければごゆるりと』とお伝えせよ」
と郎党に指示する。
「はっ」
と返事して、郎等は戻って行く。
「これ、(たれ)かおらぬか。急ぎ、酒肴(しゅこう)の支度をせよ」
 昌孝は使用人たちにそう指示した。

 目代(もくだい)鏑木(かぶらぎ)はいたって愛想良く挨拶を交わして広間に通った。腹の中は兎も角、この人当たりの良さを満季は見込んだのかも知れない。高圧的に押さえ込もうとするのでは無く策を用いて、下野藤原を(おとしいれ)れようと考えたものと見える。
目代(もくだい)様には、このような、むさいところへお寄り頂きまして光栄に存じます」
 昌孝の方も、卒無く慇懃に応じている。
「いや、突然のことで迷惑かとは思うたのじゃが、一度、(みこと)()うてみたいとも思うておったのでな」
 鏑木は、まずは昌孝がどんな男か値踏みをしようと思っている。
「それは、益々光栄なことで。白湯(さゆ)では味気無いので、今、(ささ)など用意させておりますので、暫しお待ちを」
 昌孝は素直に国守(くにのかみ)目代(もくだい)を持て成そうとしている。
「おいおい、麿はまだお役目中であるぞ」
「そう仰らず。ひと口なりとも」
「困ったことに成ったのう。うん、良い。本日の見廻りはこれ迄と致そう。折角の志、断るのも無礼に成るでのう」
『これなら行けそうだ』と鏑木は腹の中で思った。
「左様で御座いますか。ならば、存分にお過ごし下さいませ。お口に合うような(さい)も御座いませんが、何か用意させておりますので」
「気を遣われては困る。ほんのひと口、喉を潤すだけで良い」
 益々愛想良く、鏑木は振る舞う。
「委細承知しております。まずは、お(くつろ)ぎ下さいませ」
「弱ったものじゃのう」
 鏑木は白々しく弱って見せる。
 一方、昌孝の方も、目代の品定めをしているつもりでいた。『この男、話せる。いや、(ぎょ)(やす)いかも知れぬ。適当に貢物(みつぎもの)を贈って置けば、何かの時には役に立つだろう』昌孝はそう思った。

 間も無く酒と塩漬けの菜が運ばれて来る。
(さかな)は後ほど参りますので、こんなものでもお摘み頂き、まずはご一献(いっこん)
と昌孝は、鏑木に酒を勧める。
(かたじけ)ない。遠慮無く頂くことにしよう。時に昌孝殿。前鎮守府将軍(さきのちんじゅふしょうぐん)様にお子は?」
 鏑木は昌孝にそう尋ねた。
松寿丸(しょうじゅまる)と言う八歳に成るひと粒種がおります」
「ほう、男子(おのこ)か。先が楽しみじゃな」
と、鏑木は昌孝を煽り始めた。
「はあ。…… まあ」
 昌孝は曖昧に答える。
「うん? そうか。確か前将軍様は、継承の際、跡目(あとめ)文脩(ふみなが)殿と宣言したのであったな。となると、散位(さんい)となっている前将軍(さきのしょうぐん)様が再び官職に復帰せぬことには、松寿丸(しょうじゅまる)殿の居場所が無くなってしまうと言うことか」
 そうわざとらしく問い掛ける。
「はあ。まあ」
 昌孝にしても、他人に軽々本音を(もら)らす訳には行かないので、曖昧な答を続ける。
「策かも知れぬな」
 と突然鏑木が言った。昌孝には意味が分からない。
「策?」
と、問い返す。
「中々の策士と聞いておる。御承知かとは思うが、あのお方は若い頃一時期、(さきの)相模介(さがみこすけ)殿の(もと)西宮左大臣(さいぐうのさだいじん)(高明(たかあきら))様の従者(ずさ)をしておられた。我が(あるじ)とも知り合いであるから、そんな噂を聞いておる」
 鏑木の建前上の主は満仲である。(したた)かな策士と言われている満仲がそう評するからには、相当なものと言える。千方にはそんな面が有ったのかと昌孝は驚いた。
文脩(ふみなが)殿が納得していたとしても、周りの者達はには不満が有ったはず。先代の遺命であるから、当主の座に就くことに反対は出来ぬ。だが、その後文脩(ふみなが)殿に譲るのか? 松寿丸(しょうじゅまる)殿に譲ろうとするのではないか。文脩(ふみなが)殿の郎等達の心には、当然そんな不安が有った(はず)だ。そんな状況の(もと)では、家中を纏めることが出来ぬ。そこで、文脩(ふみなが)殿後継を宣言したのであろう。そうして置けば時が稼げる。色々と策を巡らす余裕が出来ると言う訳だ」
松寿丸(しょうじゅまる)を当主にすることを諦めてはいないと言うことですか?」
 昌孝は、文脩に跡を譲るつもりと、千方が皆の前で宣言したことに不満を持っていた。孫の松寿丸に継がせたいと思っているからである。
「遅く出来た子じゃ。孫と同じくらい(いとお)しいのではないか?」
 その気持ちを(あお)るように鏑木は続けた。
「言われてみれば。……」
 鏑木の言葉に昌孝の心はざわめいている。
「いずれ松寿丸(しょうじゅまる)殿が当主と成れば、その祖父として、下野に於ける(みこと)の立場は大きなものとなることは必定」
 鏑木(かぶらぎ)は、ずばり昌孝の本音を突いた。
「いや、別にそのようなことを考えている分けでは御座いません」
と否定するが、当然口先だけである。
「一度、あのお方の本音を確かめて見てはいかがかな」
『行ける』と見極めた鏑木は、ここぞとばかり罠を仕掛けた。
「…… はあ」 
 昌孝が心を動かされているのは確実と見た鏑木は、とどめを刺すように、
「松寿丸殿に繋ぐ策を、あのお方は考えていると思いますぞ」
と言った。
「そうで御座ろうかな」
 昌孝は完全に鏑木の策に嵌った。
「ただ、これはここだけの話。麿が申したなどとは言わんでくれよ。目代(もくだい)が他家のことに干渉したと言われては困るでのう」
 策が上手く行くと踏んだ鏑木は、念の為、昌孝の口止めに掛かる。
「いえ、決して漏らすようなことは致しません。ご安心を」
 昌孝の言葉を満足げに聞いて、鏑木は旨そうに酒を飲み干した。 
「頼み置く」
と更に念を押すと、昌孝も、
「必ず」
と応じた。鏑木は、ほどほどに飲んで食べ、帰って行った。
『将軍様はそれほどの策士だったのか。麿としたことが全く見抜けなかった。(まこと)だろうか』
 昌孝はそう思う。正直、この処の千方には落胆していた。鎮守府将軍と成って喜んだのも束の間、その後は官職を得られず散位(さんい)と成ってしまった。
 (さきの)関白・兼通(かねみち)(もと)での出世だったから、兼通とは犬猿の仲の兼家の天下と成った今、政治的に干されるのはやむを得ないのかも知れない。時を待とうと思っていた。
 千常が突然(こう)じ、千方が当主と成ることが決まった時には、『待てば海路の日和有り』とは良く言ったものだと喜んだ。だが、何も継承の席で、次は文脩(ふみなが)であると宣言することは無いだろう。松寿丸の立場はどうなるのだと、大いに不満を感じていたのだ。千方が下野藤原を継承する立場だったから娘をやったのだ。一時の千方には、いずれ参議にまで上るのではないかと思われるほどの勢いが有った。その(しゅうと)であり、次代を継ぐ松寿丸(しょうじゅまる)の外祖父であれば、鳥取(ととり)の家から端野(はしの)に養子に出された身としては、実家を(しの)ぐ大出世を果たすことに成る。その時、昌孝は我が世の春が来ることを確信した。
 それがどうだ。今と成っては、何一つ確かなものは無くなってしまっている。それが、千方に対する不満となっていた。しかし、鏑木(かぶらぎ)の言葉を信ずるとすれば、まだ、松寿丸が当主を継ぐ可能性が無くなった訳では無いと言うことになる。微かな希望が沸いて来た。『しかし、千方は本当にそんな策を考えているのだろうか』とも思う。
 あの秀郷(ひでさと)の子だ。千方が策士としての資質を受け継いでいても、何の不思議も無い。都での出世も、上手く兼通(かねみち)に取り入った結果だったのかも知れない。運悪く兼家の天下と成ってしまい無聊(ぶりょう)(かこ)っているが、千方が策士であるならば、そんなことで諦めてしまうはずは無い。(しゅうと)婿(むこ)。利害を同じくする立場として、ここはひとつ、千方の本音を聞き出す必要が有る。そう思った。その上で、千方の本音が、当主を松寿丸に継がせることに有れば、千方派の土豪を増やすなど出来ることは有るはずだ。千方から松寿丸に当主を繋ぐ道が有るなら、その為には何でもする。昌孝はそう決心した。

「お人払いをお願い致します」
 数日後、千方を尋ねた昌孝はそう申し出た。仕方が無いといった表情で、千方が同席していた広表智通(ひろおもてともみち)に目配せをする。智通は、ニヤリと笑って、礼をして出て行く。智通に聞かれて都合の悪いことなど何も無い。智通もそれが分かっているから、ニヤリとしたのだ。
「将軍様。いや、今日は(しゅうと)として婿(むこ)殿の本音をお聞きしたいと思い、伺いました」 
 昌孝は、そう切り出した。
「本音? 麿は(しゅうと)殿とは、いつも本音で話しているつもりだが」 
と、千方が答える。
「明かせぬことも御座いましょう。しかしながら、他人には明かせぬ腹の内をお聞かせ頂ければ、この昌孝、(しゅうと)として、身命(しんめい)()してお役に立つ覚悟に御座います。ずばり伺います。松寿丸(しょうじゅまる)様に当主を継承する為、どのような策をお考えでしょうか? 是非とも本音をお聞かせ下さいませ」
 昌孝が、千方にそう迫る。
「松寿丸に当主を継がせる気は無い。後継は文脩(ふみなが)じゃ。それは、皆の前でも申したことであろう。本音だ」
 千方は、どんな思い込みをしたのか、昌孝が面倒な事を言い出したものだと思った。 「文脩(ふみなが)様後継を打ち出さなければご家中(かちゅう)が纏まらない。それは分かります。しかし、可愛い我が子に跡を継がせたいと思うのは人情。お考えがお有りになるのでは?」
「無い。可愛い我が子と言えば、亡き兄上に取っては、文脩(ふみなが)じゃ。それを、()えて麿に継がせたのだ。返すのが筋であろう。義父(ちち)上、そのようなこと一体誰から吹き込まれたのか? 家中を割ろうと図っている者がおると聞いておる。そのような策に乗ってはならん」
 文脩から、鏑木が分断工作をしようとしていると聞いていたので、ピンと来た。しかし、そう釘を刺された昌孝の中では、千方に対する強い不満と失望が沸き上がって来た。
「もう、良う御座います。吾を信じて腹を割って下さらぬとは情けない。失礼致す」
 昌孝はそう言い捨てて席を立った。昌孝が去って間も無く、智通(ともみち)が入って来た。
「吹き込んだのは鏑木(かぶらぎ)に相違御座いませんな」
と智通も言う。
厄介(やっかい)なことに成った」 
 千方は渋い顔をして腕を組んだ。   に興味は無い。用件を申せ。結構忙しい身でな」
と、千晴の思惑を確かめようとした。
「ならば率直に申そう。仏門に入る気は無いか?」
 満中に取って、千晴の(げん)は意外過ぎて、何の魂胆が有って言っているのか、その予測すらも付かないものだった。
「何? 馬鹿も休み休み申せ。何が悲しくて麿が出家せねばならんのだ。やはり(ほう)けたか、千晴」
 馬鹿にするように、そう言った。
「そうか、思い悩むことは無いのか。それならば良いが」
と千晴は思わせ振りに言う。
「何が言いたい。ふん、分かったぞ。坊主の(なり)をして(もっと)もらしいことを申しておるが、やはり恨み言を言いたいのであろう。もし、高明(たかあきら)様が失脚しなければ、その家司(けいし)として、(なれ)は今の麿と同じ立場に立っていた筈だったのだからな。
 高明様を見限った麿を許せぬであろう。だが、そんな持って回った言い方でしか麿に恨み言を言えぬとすれば、藤原千晴も落ちたものよな。はっきりと(ののし)られた方が、まだ気分が良いわ」
(ののし)られることには慣れていると申すか。気の毒にな」
 満仲がキッと目を()いた。心の奥底を見透かされたような気がしたのだ。満仲は、左手で太刀の(さや)を掴んだ。右手で(つか)を握れば、いつでも抜ける態勢である。
「哀れな姿を見ては斬る気も起らなんだが、愚弄する気なら斬り捨てるぞ」
と、威嚇する。千晴は顔色も変えない。
「そうしたければするが良い。もはや惜しい命でも無い。だが、坊主を殺すと七代祟ると申すぞ。そう成ることは本意ではあるまい。世間の陰口を気にせず(なれ)がひた走って来たのは、弟達や子や孫に美田を残してやりたいが為であったのであろう。
 世間からは鬼のように言われても、(なれ)には、そう言う家族思いの優しい処が有る。麿と違ってな」
 満仲が何とも言えない妙な顔付きをした。
「気色の悪いことを申すな、心にも無く」
と、改めて千晴を睨む。
「いや、今は心底そう思っておる。確かに、あの頃は(なれ)(さげす)んでおったし、警戒もしていた。島に居た頃は、(なれ)を殺す為に生きて帰る。日々そう思って過ごして居た。だが、生まれて初めて飢えと言うものを知り、病をも得て、我が命もはやこれ迄かと悟った時、ふと気付いたのだ。(なれ)に取っては、負け犬になるか、あの生き方をするかのどちらかしか無かったのだとな。麿は、父の残してくれた美田の上に胡坐(あぐら)()き、兄弟達の助けも有って、ただ、ひたすら高明様に仕えることが出来ていたのだとな。それに引き換え、(なれ)には何も無かった。どんな手を使ってでも、己で掴み取って来なければならなかったのだな。そう気付いた。そして思った。もし麿が(なれ)の立場だったらそこまで頑張れたであろうかとな。恐らく、負け犬に成っていたであろう。
 そんな風に立場の違う者が、簡単に他人を『善だ。悪だ』と決め付けて良いものだろうかと思った。(なれ)(たばか)られたからでは無い。負け犬となったのは、己自身の身から出たものだと気付いた。だが、更に考え続けると、何が勝ちで何が負けなのかと思うようになった。
 本音を言えば、(なれ)同様、麿も出世しか考えていなかったのよ。こんなことを言い出すと、それこそ負け犬の遠吠えとしか聞こえぬであろうが、生き方に付いて何かと考えるようになり、結局、己で答を出すことが出来ず(きょう)を読み仏に(すが)った」
 満仲は、自分はなぜこんな戯言(たわごと)をいつまで聞いているのかと己自身で思いながらも『もう良い。失せろ』と言ってその場を立ち去ることが出来ないで居る自分に苛立(いらだ)っていた。
「浮き世も戦場と同じ、善も悪も無い。有るのは勝ちか負けかだけだ。麿が勝ち、(なれ)は負けた。それだけのこと、わざわざ仏に聞かずとも自明のことだ。屁理屈を並べてみても、腹の足しにもならんぞ」
 そう皮肉っぽく言った。
「仏に教えを乞いたいのは、そのようなことでは無い」 
と千晴が答える。
「なら、仏には会えたのか?」
 満仲は、意識してことも無げに尋ねた。
「いや、まだだ。心は未だ彷徨(さまよ)っておる」
()や子、孫達には会うたか?」
「情は捨てたと申したであろう」
「ふん、下らん。いつまでそんな話に付き合っておられんわ」
 そう言い残すと、満仲は(きびす)を返して歩き出した。千晴は、それを無言で見送る。少し行って、満仲が振り返った。
無名(むみょう)とやら、二度と麿の前に現れるな」
 凄みを効かせて、千晴を睨む。
(なれ)の曾祖父は清和(せいわ)(みかど)。皇孫たる身がこのままで終われるかと言うのが、(なれ)の出世欲の源であったのでは無いのか。そして、帝の血を引いていると言うことが、唯一の誇であったはずだ。前帝(さきのみかど)にしたことに対し(たてまつ)り、今、心苦しくは無いのか?」
 己の悩みをずばり突かれて、満仲は内心ギクリとした。
「何のことを申しておる」
と惚ける。
「いや、良い」
 再び(きびす)を返して、満仲は歩き始めた。
「世迷い言を抜かしおって」
 そう呟くが、ずっしりと重い物が載し掛かって来るような気がした。

    
 都からは遠く離れた下野(しもつけ)の国府。
 千方の弟・文脩(ふみなが)が、下野守(しもつけのかみ)目代(もくだい)である鏑木当麻(かぶらぎとうま)に呼び出されている。
「良う参られた。忙しいところ呼び出して済まなかったな」
 鏑木当麻(かぶらぎとうま)は愛想良く文脩を迎える。
「いえ、暇をもて余している身ゆえ」
とありふれた対応をした文脩だったが、
「そうであったな。本来なら下野藤原(しもつけふじわら)の当主となるべき身がのう」
と言う、鏑木(かぶらぎ)の言葉を聞いて、緊張を高めた。何らかの意図が有って自分を呼んだのだと気付いた。
「いえ、そう言う意味で申し上げたのでは御座いません」
 相手の出方を見て、差し障り無く(かわ)して行く他無いと文脩は思った。
「だが、分からぬのは先代のお考えじゃ。このように立派なご実子がおられるのに、何故(なにゆえ)?」
『そんな徴発になぞ乗らんぞ』と文脩は思う。 
「麿は未だ未熟ゆえ、当主など務まりません」
「そのようなことは無い。今日も、中々気配りの有る手土産を貰っているそうで、麿から見れば、下野藤原家(しもつけふじわらけ)の当主として立派な(うつわ)をお持ちと見えるがな」
 露骨に文脩と千方を仲違(なかたが)いさせ、下野藤原を揉めさせようとしているのだと分かる。
「麿は元より、家中(かちゅう)一同の者も納得してのことで御座います」
「いや、これは失礼致した。つい、他家の事情に深入りしたことを申してしまった。許されよ」
 鏑木は白々しくそう言った。餌を投げ、文脩の反応を見ているつもりなのだろう。
「いえ、お気遣い(かたじけな)く存じます」
と差し障り無く、文脩は返す。
「実は、我が(あるじ)・下野守様が、そなたのことを気にしておられてな。承知の通り、我が殿は摂政(せっしょう)家の家司(けいし)でもある。麿から殿に申し上げることは、摂政様のお耳に入れることも出来る。麿は、そなたがいたく気に入った。何ぞ困ったこと有らば、遠慮無く申して来るが良い。どのようなことでも、必ず役に立てると思う」
「有り難う御座います」
「なに、下野守(しもつけのかみ)の職は、下野藤原の協力無しには務まらぬ仕事。まして、目代(もくだい)に過ぎぬ麿などは尚更(なおさら)じゃ。当主がそなたであったなら、もっと楽しく仕事が出来たであろうと思ってな」
 文脩は逆に鏑木を(からか)いたくなった。
「と申されますと、今、当家との間に何か不都合なことでも有ると言うことで御座いましょうか?」
と、聞いてみる。
「いや、取り立ててそう言うことは無い。だが、麿は目代の身であるから、(さきの)鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)様には、色々と言い(ずら)いことも有るのよ」
「そのようなことであれば、お役に立てると思います。宜しければ、麿から兄に話しますが」
 何を言って来るかと思いながらも、文脩がそう水を向ける。
「今、取り立てて何か有ると言う訳では無い。何かの折には頼むかも知れぬ」
 鏑木はそう(かわ)した。

 目代(もくだい)が下野藤原を分裂させようと狙っていることを文脩(ふみなが)は感じ、来る前にひと言、千方に話して置くべきだったと思った。
 鏑木当麻(かぶらぎとうま)は、恐らく、尾ひれを付けて自分と話したことを意図的に流すだろう。それが、他人の口を介して千方の耳に入れば、千方から、有らぬ疑いを掛けられるかも知れない。文脩(ふみなが)は、小山(おやま)に寄って全てを千方に話そうと思った。
 父・千常や千方の考えも分からない訳では無い。(つわもの)の意地も大事だ。だが、世は既に摂関家のものと成っている。それに比べて、(つわもの)の力は小さ過ぎる。殆どの者が摂関家に(すが)って生きており、(つわもの)同士の連帯感も無い。そんな中で孤高を貫こうとすれば、結局は潰されることになるのではないか。理想は分かるが、千方には、もう少し現実を見て欲しい。文脩(ふみなが)はそう思っている。だからと言って、目代(もくだい)の口車に乗って千方を追い落とそうなどとは考えていない。

 小山(おやま)の舘に着くと文脩(ふみなが)は、一度深く呼吸してから中に入った。広間で待つと、間も無く千方が現れた。
「突然どうした? 来るとは聞いていなかったが」
 入って来るなり、歩きながら千方がそう尋ねる。 
「申し訳有りません。実は、国府に行った足で寄らせて頂きました」
と、文脩は訪問の主旨を述べた。
「国府に?」
「はい。目代(もくだい)に呼び出されました」
「用件は?」
 文脩(ふみなが)が表情を引き締める。
「それですが、どうも我が家を割ろうと画策(かくさく)しているように思えます」
「有り得ることだ。鏑木(かぶらぎ)と言う男、満仲の郎等と言うことに成っておるが、実は、満季(みつすえ)の郎等じゃからな」
 そう言いながら、千方が腰を下ろす。
「左様で。それが、何か?」
 文脩(ふみなが)は、千方と満季の因縁を知らなかった。
「満季は満仲以上に麿を恨んでおる」
 千方はそう言った、
「初めて伺いました。一体、兄上との間に何が有ったのですか?」
「昔のことだ。それは良い。だが、満季と言う男、(あきら)めの悪い男じゃな」
「ご安心下さい。そのような手にうかうか乗るようなことは御座いません」
 何よりも伝えたい事はそれだった。
「分かっておる。そなたを疑ってなどおらぬ」
「有り難う御座います」
「しかし、そなたが話に乗らんと踏んだら、次にどんな手を打って来るかだ」
 そう言って、千方は(くう)(にら)んだ。

 鏑木(かぶらぎ)の手は、意外なところに伸びた。
 数日後のことだ。侑菜(ゆな)の父・端野昌孝(はしのまさたか)の舘に国府の役人が現れた。
「突然のことで済まぬが、目代様が近くにおいでになっておってのう。見廻りの途中じゃ。少し疲れを覚えたので、白湯(さゆ)など飲んで、暫し休みたいと仰せじゃ。前鎮守府将軍(さきのちんじゅふしょうぐん)様の北の(かた)のご実家が近くに有るのを思い出されてな。(しば)し休ませて貰えぬか聞いて参れとのことで伺った」

 応対した郎等が急いで昌孝に報告する。
「何? 目代(もくだい)様が? そうか。『(あば)()では御座いますが、宜しければごゆるりと』とお伝えせよ」
と郎党に指示する。
「はっ」
と返事して、郎等は戻って行く。
「これ、(たれ)かおらぬか。急ぎ、酒肴(しゅこう)の支度をせよ」
 昌孝は使用人たちにそう指示した。

 目代(もくだい)鏑木(かぶらぎ)はいたって愛想良く挨拶を交わして広間に通った。腹の中は兎も角、この人当たりの良さを満季は見込んだのかも知れない。高圧的に押さえ込もうとするのでは無く策を用いて、下野藤原を(おとしいれ)れようと考えたものと見える。
目代(もくだい)様には、このような、むさいところへお寄り頂きまして光栄に存じます」
 昌孝の方も、卒無く慇懃に応じている。
「いや、突然のことで迷惑かとは思うたのじゃが、一度、(みこと)()うてみたいとも思うておったのでな」
 鏑木は、まずは昌孝がどんな男か値踏みをしようと思っている。
「それは、益々光栄なことで。白湯(さゆ)では味気無いので、今、(ささ)など用意させておりますので、暫しお待ちを」
 昌孝は素直に国守(くにのかみ)目代(もくだい)を持て成そうとしている。
「おいおい、麿はまだお役目中であるぞ」
「そう仰らず。ひと口なりとも」
「困ったことに成ったのう。うん、良い。本日の見廻りはこれ迄と致そう。折角の志、断るのも無礼に成るでのう」
『これなら行けそうだ』と鏑木は腹の中で思った。
「左様で御座いますか。ならば、存分にお過ごし下さいませ。お口に合うような(さい)も御座いませんが、何か用意させておりますので」
「気を遣われては困る。ほんのひと口、喉を潤すだけで良い」
 益々愛想良く、鏑木は振る舞う。
「委細承知しております。まずは、お(くつろ)ぎ下さいませ」
「弱ったものじゃのう」
 鏑木は白々しく弱って見せる。
 一方、昌孝の方も、目代の品定めをしているつもりでいた。『この男、話せる。いや、(ぎょ)(やす)いかも知れぬ。適当に貢物(みつぎもの)を贈って置けば、何かの時には役に立つだろう』昌孝はそう思った。

 間も無く酒と塩漬けの菜が運ばれて来る。
(さかな)は後ほど参りますので、こんなものでもお摘み頂き、まずはご一献(いっこん)
と昌孝は、鏑木に酒を勧める。
(かたじけ)ない。遠慮無く頂くことにしよう。時に昌孝殿。前鎮守府将軍(さきのちんじゅふしょうぐん)様にお子は?」
 鏑木は昌孝にそう尋ねた。
松寿丸(しょうじゅまる)と言う八歳に成るひと粒種がおります」
「ほう、男子(おのこ)か。先が楽しみじゃな」
と、鏑木は昌孝を煽り始めた。
「はあ。…… まあ」
 昌孝は曖昧に答える。
「うん? そうか。確か前将軍様は、継承の際、跡目(あとめ)文脩(ふみなが)殿と宣言したのであったな。となると、散位(さんい)となっている前将軍(さきのしょうぐん)様が再び官職に復帰せぬことには、松寿丸(しょうじゅまる)殿の居場所が無くなってしまうと言うことか」
 そうわざとらしく問い掛ける。
「はあ。まあ」
 昌孝にしても、他人に軽々本音を(もら)らす訳には行かないので、曖昧な答を続ける。
「策かも知れぬな」
 と突然鏑木が言った。昌孝には意味が分からない。
「策?」
と、問い返す。
「中々の策士と聞いておる。御承知かとは思うが、あのお方は若い頃一時期、(さきの)相模介(さがみこすけ)殿の(もと)西宮左大臣(さいぐうのさだいじん)(高明(たかあきら))様の従者(ずさ)をしておられた。我が(あるじ)とも知り合いであるから、そんな噂を聞いておる」
 鏑木の建前上の主は満仲である。(したた)かな策士と言われている満仲がそう評するからには、相当なものと言える。千方にはそんな面が有ったのかと昌孝は驚いた。
文脩(ふみなが)殿が納得していたとしても、周りの者達はには不満が有ったはず。先代の遺命であるから、当主の座に就くことに反対は出来ぬ。だが、その後文脩(ふみなが)殿に譲るのか? 松寿丸(しょうじゅまる)殿に譲ろうとするのではないか。文脩(ふみなが)殿の郎等達の心には、当然そんな不安が有った(はず)だ。そんな状況の(もと)では、家中を纏めることが出来ぬ。そこで、文脩(ふみなが)殿後継を宣言したのであろう。そうして置けば時が稼げる。色々と策を巡らす余裕が出来ると言う訳だ」
松寿丸(しょうじゅまる)を当主にすることを諦めてはいないと言うことですか?」
 昌孝は、文脩に跡を譲るつもりと、千方が皆の前で宣言したことに不満を持っていた。孫の松寿丸に継がせたいと思っているからである。
「遅く出来た子じゃ。孫と同じくらい(いとお)しいのではないか?」
 その気持ちを(あお)るように鏑木は続けた。
「言われてみれば。……」
 鏑木の言葉に昌孝の心はざわめいている。
「いずれ松寿丸(しょうじゅまる)殿が当主と成れば、その祖父として、下野に於ける(みこと)の立場は大きなものとなることは必定」
 鏑木(かぶらぎ)は、ずばり昌孝の本音を突いた。
「いや、別にそのようなことを考えている分けでは御座いません」
と否定するが、当然口先だけである。
「一度、あのお方の本音を確かめて見てはいかがかな」
『行ける』と見極めた鏑木は、ここぞとばかり罠を仕掛けた。
「…… はあ」 
 昌孝が心を動かされているのは確実と見た鏑木は、とどめを刺すように、
「松寿丸殿に繋ぐ策を、あのお方は考えていると思いますぞ」
と言った。
「そうで御座ろうかな」
 昌孝は完全に鏑木の策に嵌った。
「ただ、これはここだけの話。麿が申したなどとは言わんでくれよ。目代(もくだい)が他家のことに干渉したと言われては困るでのう」
 策が上手く行くと踏んだ鏑木は、念の為、昌孝の口止めに掛かる。
「いえ、決して漏らすようなことは致しません。ご安心を」
 昌孝の言葉を満足げに聞いて、鏑木は旨そうに酒を飲み干した。 
「頼み置く」
と更に念を押すと、昌孝も、
「必ず」
と応じた。鏑木は、ほどほどに飲んで食べ、帰って行った。
『将軍様はそれほどの策士だったのか。麿としたことが全く見抜けなかった。(まこと)だろうか』
 昌孝はそう思う。正直、この処の千方には落胆していた。鎮守府将軍と成って喜んだのも束の間、その後は官職を得られず散位(さんい)と成ってしまった。
 (さきの)関白・兼通(かねみち)(もと)での出世だったから、兼通とは犬猿の仲の兼家の天下と成った今、政治的に干されるのはやむを得ないのかも知れない。時を待とうと思っていた。
 千常が突然(こう)じ、千方が当主と成ることが決まった時には、『待てば海路の日和有り』とは良く言ったものだと喜んだ。だが、何も継承の席で、次は文脩(ふみなが)であると宣言することは無いだろう。松寿丸の立場はどうなるのだと、大いに不満を感じていたのだ。千方が下野藤原を継承する立場だったから娘をやったのだ。一時の千方には、いずれ参議にまで上るのではないかと思われるほどの勢いが有った。その(しゅうと)であり、次代を継ぐ松寿丸(しょうじゅまる)の外祖父であれば、鳥取(ととり)の家から端野(はしの)に養子に出された身としては、実家を(しの)ぐ大出世を果たすことに成る。その時、昌孝は我が世の春が来ることを確信した。
 それがどうだ。今と成っては、何一つ確かなものは無くなってしまっている。それが、千方に対する不満となっていた。しかし、鏑木(かぶらぎ)の言葉を信ずるとすれば、まだ、松寿丸が当主を継ぐ可能性が無くなった訳では無いと言うことになる。微かな希望が沸いて来た。『しかし、千方は本当にそんな策を考えているのだろうか』とも思う。
 あの秀郷(ひでさと)の子だ。千方が策士としての資質を受け継いでいても、何の不思議も無い。都での出世も、上手く兼通(かねみち)に取り入った結果だったのかも知れない。運悪く兼家の天下と成ってしまい無聊(ぶりょう)(かこ)っているが、千方が策士であるならば、そんなことで諦めてしまうはずは無い。(しゅうと)婿(むこ)。利害を同じくする立場として、ここはひとつ、千方の本音を聞き出す必要が有る。そう思った。その上で、千方の本音が、当主を松寿丸に継がせることに有れば、千方派の土豪を増やすなど出来ることは有るはずだ。千方から松寿丸に当主を繋ぐ道が有るなら、その為には何でもする。昌孝はそう決心した。

「お人払いをお願い致します」
 数日後、千方を尋ねた昌孝はそう申し出た。仕方が無いといった表情で、千方が同席していた広表智通(ひろおもてともみち)に目配せをする。智通は、ニヤリと笑って、礼をして出て行く。智通に聞かれて都合の悪いことなど何も無い。智通もそれが分かっているから、ニヤリとしたのだ。
「将軍様。いや、今日は(しゅうと)として婿(むこ)殿の本音をお聞きしたいと思い、伺いました」 
 昌孝は、そう切り出した。
「本音? 麿は(しゅうと)殿とは、いつも本音で話しているつもりだが」 
と、千方が答える。
「明かせぬことも御座いましょう。しかしながら、他人には明かせぬ腹の内をお聞かせ頂ければ、この昌孝、(しゅうと)として、身命(しんめい)()してお役に立つ覚悟に御座います。ずばり伺います。松寿丸(しょうじゅまる)様に当主を継承する為、どのような策をお考えでしょうか? 是非とも本音をお聞かせ下さいませ」
 昌孝が、千方にそう迫る。
「松寿丸に当主を継がせる気は無い。後継は文脩(ふみなが)じゃ。それは、皆の前でも申したことであろう。本音だ」
 千方は、どんな思い込みをしたのか、昌孝が面倒な事を言い出したものだと思った。 「文脩(ふみなが)様後継を打ち出さなければご家中(かちゅう)が纏まらない。それは分かります。しかし、可愛い我が子に跡を継がせたいと思うのは人情。お考えがお有りになるのでは?」
「無い。可愛い我が子と言えば、亡き兄上に取っては、文脩(ふみなが)じゃ。それを、()えて麿に継がせたのだ。返すのが筋であろう。義父(ちち)上、そのようなこと一体誰から吹き込まれたのか? 家中を割ろうと図っている者がおると聞いておる。そのような策に乗ってはならん」
 文脩から、鏑木が分断工作をしようとしていると聞いていたので、ピンと来た。しかし、そう釘を刺された昌孝の中では、千方に対する強い不満と失望が沸き上がって来た。
「もう、良う御座います。吾を信じて腹を割って下さらぬとは情けない。失礼致す」
 昌孝はそう言い捨てて席を立った。昌孝が去って間も無く、智通(ともみち)が入って来た。
「吹き込んだのは鏑木(かぶらぎ)に相違御座いませんな」
と智通も言う。
厄介(やっかい)なことに成った」 
 千方は渋い顔をして腕を組んだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み