第七章 第1話 兆し
文字数 3,986文字
帝の心中には親政を望む気持ちが日に日に強くなっていたが、兼通が権力を確立してしまった為、願いは遠退くばかりだった。
そんな折、兼通が発病した。帝は、親政を取り戻す良い機会になるかも知れないと密かに期待していた。もし、兼通が後継を定めず没するようなことになれば、新たな関白など指名しなければ良い。帝自身、兼通が摂関を継いだ頃の十一歳の時とは違う。円融帝は既に十八歳に成っているのだ。
兼家が突然現れ、兼通の後任の関白に任じて欲しいと言って来た。相変わらず不躾な男だと腹が立っていた。兼通にもそう言う面が有るが、摂関家の者達は、帝と言う存在をどう心得ているのかと思う。なるほど、言葉や決められた所作では、畏れ多い存在として崇めているかのように振る舞っているが、その実、己の欲望を実現する為の、使い勝手の良い道具くらいにしか思っていない。強く撥ね付けるべきか、穏やかに諭すべきか考えているところへ兼通が現れたのだ。
病で痩せこけた身体を息子達に支えられて立っているその形相は夜叉かと思う程だった。除目の結果を奏上すると言うが、既に致仕(辞任)した身では無いかと言うことは出来た。しかし、左大臣・頼忠を中心に衆議で決めたことと言われれば、頼忠も同席している以上頭から拒否は出来ない。と言うよりも、実は、兼通の気迫に気圧されてしまったのだ。
だが、関白と成っても、外戚で有るか無いかに寄って、その影響力には大きな差が有る。兼家に対しては含む処も有ったので、関白を認めなければならないとすれば、兼家より頼忠の方が遥かにましだと帝は思った。頼忠なら関白の権限をある程度押さえ込むことが出来るのではないかと考えたのだ。
前年の貞元元年(九百七十六年)五月十一日、内裏が焼失していた。実は、この時期の前後、内裏は度々焼失している。平安遷都以来一度も焼失しなかった内裏が、天徳四年(九百六十年)以後、度々火災で焼失するようになった。その原因としては、放火説や、近衛府などに寄る消火機能の低下説などが言われているが、この前後より朝廷の公事や儀式が行われる時間が早朝から深夜に移行して行ったことも内裏内での火の使用を増やして、結果的に火災の原因となったと考えられる。当然、担当官庁である修理職は大忙しであり、生前の兼通に呼び出された頃も、貞元元年焼失後の再建の最中で、工事実施責任者・亮である千方は大忙しであった。
貞元二年(九百七十七年)七月二十九日再建された内裏で、兼通・兼家の最後の争いが行われた。
この年の八月二日に内裏造営の功労に伴う叙位が行われた。修理大夫・参議・源惟正は、正四位下から従三位に昇叙し、千方も従五位上に叙せられた。
この叙位の式典は、対象者の多さから、儀式を全て終えたのが翌朝となる大規模なものであった。式典は、当時、一上であった頼忠の奉行の下で滞り無く行われ、頼忠の評価を上げることとなった。
頼忠は、天暦十年(九百五十六年)に権左中弁に任じられ、以後、右大弁・左大弁を経て、安和元年(九百六十八年)に従三位中納言に任じられて公卿に列する迄、十三年にも渡って実務官僚である弁官を務めていた。その職掌は各省とその傘下の役職の監督が主であり、庶事の受け付け、官内の糾弾と決裁、起案文への署名、公務の遅滞や過失の判断、諸官庁の宿直と諸国司の朝集の裁定を司るものである。
頼忠の昇進自体は決して早い方では無かったが、弁官として太政官の実務に当たることが長く、故実・実務に通じた公卿としての素養を磨いた為、実務能力に長けていた。だが、特にこの時代、能力が高いことが必ずしも影響力の大きさとは一致しない。関白と成ったとは言え、頼忠に取って、帝との外戚関係が無いことが弱みだった。
まず、外戚である兼家との関係の修復を図る必要が有ると考えた。度重なる兼通の仕打ち、二度に渡る屈辱的な敗北。兼家の怨念は最高潮に達している筈だ。その恨みを、兼通に代わって自分が全て引き受けることになる。それだけは避けたい。又、兼家相手に戦い切る自信も無かった。
なるほど、頼忠は兼通の相談に乗って、兼家排斥に加担して来た。だが頼忠と言う男、本来実直で自分から謀略を巡らすようなことが出来る人間では無い。兼通からの相談に応じて、考えを述べて来ただけだ。だが、兼家から見れば、正しく共同正犯に違い無いのだ。
天元元年(九百七十八年)十月二日。頼忠は、上位の為光、朝光を超え、兼家を従二位に引き上げ右大臣とした。
だが一方では、貞元三年(九百七十八年・四月十五日・天元に改元)早々には、長女・遵子を入内させている。負けじと兼家も次女・詮子を同年(九百七十八年)八月に入内させる。
一方、円融帝には円融帝の思惑が有った。帝は藤原氏の権力を牽制する為に、左大臣・源雅信に一上としての職務を行わせようとした。これは、頼忠・兼家を牽制しつつ自らの親政の実をあげる為の策であった。
頼忠が関白と成って間も無く、千方は、
「折り入って話が有る」
と修理大夫・源惟正から呼び出された。従五位上に昇叙してから数ヶ月後のことである。千方としては、修理大夫に一歩近付いたという想いが有り、このまま一生官人として生きて行こうと言う気に成っていたところだった。
「内裏造営に際しては、真にご苦労であった。そなたの働きのお陰で麿も栄誉に浴することが出来た」
と必要以上におだてて来ることに、千方は違和感を感じた。
夕刻、私邸に呼ばれ、酒や料理も用意されている。惟正は上機嫌そうに見える。
「大夫様のご威光に寄り、下役の者達も仕事に励み、匠や人足達も良く働いてくれました。おまけに麿まで昇叙に預かったのは、大夫様のお口添え有ってのことと感謝致しております」
と、千方は謙虚に例を述べる。
「いや、そなたは珍しく修理職一筋の叩き上げ。誰よりも職務に通じておる。また、下役や匠達の人望も有る。いずれ麿の後継にと思っておる。じゃが麿も今暫くは大夫の職に留まることになる。そこでじゃ。一度外に出て見る気は無いか」
いきなりの提案に千方は驚いた。しかし、惟正が現職に長く留まろうと思っているなら、千方の存在は目障りに違い無い。
「外へ?」
現職を離れることに不安が有った。一旦離れた後、復帰の目は有るのだろうかと考えた。
「うん。新しい関白(頼忠)様がな、前関白(兼通)様より、そなたの武勇に付いて聞いておられたそうでな。前関白様に何か武技でもお見せしたことが有るのか?」
惟正が進言した訳では無く、関白の意向なのかと思う。関白・頼忠の意図を計り兼ねた。何故、見せた覚えなど無いのに、武技などと言う話が出て来るのかも分からなかった。
「さて、そのようなことは御座いませんが、前関白様は、どこで何をお聞きになられたのでしょう。とんと心当たりが御座いません」
兼通から信濃でのことを聞いたのだろうとは思ったが、千方は惚けた。
「そうか。それに付いては麿は何も聞いておらぬが、そなたの武勇を見込んで、鎮守府将軍にどうかと言うことでな」
「鎮守府将軍ですか?」
名誉でもあるが、都から遠い陸奥へ飛ばされると言うことでもある。
「うん。父も兄も務めたお役であろう。坂東の兵に取って、京官であれば馬寮の頭(左馬頭、右馬頭)と成ること。地方官であれば鎮守府将軍と成ることが最高の誉ではないのか?」
と惟正は説得に掛かる。
「確かに、仰せの通りです」
そう答える他無い。
「ならば問題は無い。四年ほど、陸奥で遊んで参れ」
「はっ」
嫌応は無い。これで決まってしまった。
一方、千常であるが、貞元二年(九百七十七年)十二月で美濃守の任を終え、下野に戻った。
実は、京官に転ずる旨の打診を受けていたが、断ったのだ。京官へ転ずると言うことは、地方の出先から中央官庁への転属であるから、例え位階が上がらなくとも栄転である。他の者なら踊り上がって喜ぶところだ。しかし、ご承知の通り、千常は都と公家が大嫌いなのだ。
「父上。京官に転じることをお断りになったそうですね。勿体無いことをなさいます」
庭に出て、久し振りに坂東の風を楽しむように歩き回っている千常に、文脩が縁の上から話し掛けて来た。
「都が良いなら、代わりに汝が行け」
と不機嫌そうに千常が答える。
「京官に目代は御座いません」
そんな事は当然千常も分かっている。それを聞き流せず、いちいち理屈で返して来る文脩の態度が気に入らないのだ。
「文脩。坂東の狢や狸は愛おしいものじゃな。山の中でひっそりと暮らしておる。そうは思わぬか」
と京官を嫌う理由を謎掛けのように伝える。
「はっ?」
頭が悪い訳ではないのだが、この種の皮肉は文脩には通じない。
「都では、狸や狐、そして狢共が街中に豪奢な舘を建て、人々を誑かしておる。麿は狐や狸と付き合うつもりは無い」
と解を伝える。
「そのようなこと仰せになるものではありません。兄上とてちゃんと京官としてお務めになっているではありませんか」
飽くまで文脩は筋論を通そうとする。
「あ奴は調子者じゃからな。だが、間違い無く坂東の兵じゃ。いざと成れば、いつでも腹を括れる。汝に出来るか」
それを案じているのだと伝えた。
「これは飛んだ薮蛇でした。又も父上のお叱りを受けることになってしまいました」
頭が固い訳では無い。千常、千方と文脩では、拘る部分に違いが有るのだ。
「文脩。今度戦いが有る時には初陣致せ」
毅然として千常が言った。
「それは望むところですが、わざわざ争いを起こすことの無いようお願い致します」
文脩も案じている事を率直に述べた。
「聞いた風なことを抜かすな」
『矢張りこ奴に継がせる訳には行かない』と千常は改めて思う。礼をして奥に消えて行く文脩の後ろ姿を、千常は複雑な想いで見送っていた。
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