第一章 第13話 将門の噂 Ⅱ

文字数 9,067文字

『なぜ(まもる)の息子達は将門を襲ったのか?』
 秀郷がそんなことを考えている時、置いてある(ふすま)(板状の衝立(ついたて)の両面に裂地を張着けたもの)の陰から「お邪魔しても宜しゅう御座いますか?」という女の声がする。
「誰か?」と問うと「久稔(ひさとし)の娘・露女(つゆめ)と申します」と答えた。
『他人を近付けるなと申して置いたのに』と思うが、久稔の娘とあらば、追い返す訳にも行かない。(ふすま)をずらして見ると、女がひとり平伏(へいふく)している。
「何用かな?」
 こんな時刻に女がひとりで来るからには、その意味は分かっているが、そんな気にもならないので敢えて尋ねた。差し(さわ)りなく帰したかった。
(とぎ)(まか)り越しました」
 (おもて)を伏せたまま、露女(つゆめ)は答えた。
「うん。それは(かたじけな)い。じゃが、情けないことに、寄る年波でのう。少々疲れておる。今宵は早く休ませてもらえぬか? 久稔(ひさとし)殿にもそのように伝えてくれ」
 そう言ったが、露女は引かない。
「それならば、お背中などお(さす)り致しましょう。お疲れも取れると思いますが……」
『面倒な女だな』と秀郷は思う。
「うん? 有り難いがそれには及ばぬ。寝れば疲れも取れる」
と再度断りを入れた。
「それでは役目が果たせませぬ。お休みになられるまで、どうか……」
『これ以上断ると角が立つ。確かにこの娘の面子(めんつ)も有ろう。酒も入っていることゆえ、そのうち寝てしまえば良い。例え眠れなくとも、寝た振りをすれば良いか』
 秀郷はそう思った。仕方無く、
「分かった。ならば、背など(さす)って貰おうか」
と告げる。
「有り難き仕合(しあわ)せに御座います」
 そう言って(おもて)を上げた露女(つゆめ)の顔を見て秀郷は驚いた。夕暮れ時の猫のような大きな目で、まっすぐに秀郷を見ている。普通の男なら思わず目を()いて声を出してしまうところだ。だが、さすが大狸の秀郷、眉ひとつ動かさず物憂(ものう)げに「頼む」とだけ言って腹這いになった。
「では、失礼致します」
 そう言って露女(つゆめ)(にじ)り寄る。露女は秀郷の背に手を掛けた。声は艶の有る良い声である。
『この女何なのだ』と秀郷は思っていた。生まれ持った顔は仕方無いとしても、仮にも(とぎ)に出るのに、紅も引かず白粉(おしろい)ひとつ塗っていない。己の欠点を隠そうともしていないのだ。その心根が分からない。
 元来、露女は色白なのだが、白粉(おしろい)を塗らない顔は、夜には黒ずんで見える。何を思ったか、そんな素顔で秀郷の前に出た。だから秀郷は『その心根が分からない』と思ったのだ。元々、今、女子(おなご)を抱きたいと思って居る訳ではないから『まあ良いわ』と思い、考え事をしながら寝てしまおうと思った。しかし、背を揉む力が意外と強い。下手では無いのでそれなりに気持ち良いのだが、いわゆる”痛気持ちいい”というやつで、眠るには差し支える。
「もそっと(ゆる)くても良いぞ」
「痛う御座いますか?」
「いや、そういうことでは無い」
(じょう)の殿、ひとつお聞きしても宜しう御座いますか?」
と突然、露女が言った。
「何じゃ」
と応じる。
「先日、常陸国(ひたちのくに)平将門(たいらのまさかど)とか言う方が、(さきの)常陸大掾(ひたちのだいじょう)様のご子息らに待ち伏せを受け、逆に討ち取ってしまったということですが、何故ご子息方は将門殿を討とうとされたので御座いましょう?」
 こんな事を聞いて来る女を、秀郷は他に知らない。
「なぜ、そんなことを聞く? 久稔殿に聞いたのか?」
 そう聞き返した。 
「いえ、父から聞いた訳では御座いません。噂を耳に致しました」
露女(つゆめ)がおっとりと答える。
女子(おなご)の身で(いくさ)などに興味が有るのか」
 秀郷は、何と無くではあるが、この女に興味が湧いて来た。
「戦に興味がある訳では御座いません。聞けば、将門殿の伯父方は皆、前常陸大掾(さきのひたちのだいじょう)様のご息女を()としているそうですが、その方々が将門殿に討たれた訳でも無いのに、なぜ御子息方は将門(まさかど)殿を討とうとされたのか、それを不思議と思うただけです」
「う?」と秀郷は思わず声を出した。実は秀郷もそれを不思議に思い、調べさせていたところなのだ。『待ち伏せを受け逆に討ち取ったということは、将門側も武装をしていたということだ。では、なぜ将門は、武装して下総(しもうさ)から常陸(ひたち)に向かったのか? 水守(みもり)(現・つくば市)に住む伯父の良正(よしまさ)を攻めようとしていたのか? いや、野本では方向が違うだろう。又、それを防ごうとして待ち伏せたと言うには、(たすく)達、(まもる)の子らが三人揃って将門を待ち伏せ、討ち取ってしまおうとする動機としては弱い。それに、将門と伯父達の関係はそこまで悪化していたとは思えない。やはり、平真樹(たいらのまさき)が絡んでいるに違いない』秀郷はそう考えていた。

 平真樹(たいらのまさき)は領地を巡って何年にも渡って源護(みなもとのまもる)と争っていた。将門の伯父のひとり・良兼(よしかね)は真樹の姉の夫であったが、真樹の姉の死後、(まもる)の娘を(めと)ったことに寄り、(まもる)陣営に移っていた。(まもる)の力が増し、真樹は劣勢に立たされていた。
 そんな折、父の遺領を巡って良兼(よしかね)を始め伯父達と揉めていた将門が、真樹の姉と良兼(よしかね)の間に生まれた娘を、良兼(よしかね)の反対を押し切って奪い、強引に妻にした。
 真樹は姪の夫となった将門を自陣営に誘う。伯父達から領地を取り戻すことに力を貸す代わりに、(まもる)との領地争いに加勢して欲しいと言うことだ。これは、姉の死後、(まもる)側に寝返った良兼(よしかね)への報復でもあり、真樹、将門、両者の利害が完全に一致する同盟関係である。そこで将門は戦支度(いくさじたく)をして真樹の(もと)に向かう。

 しかし、この情報は(まもる)側に漏れていた。(たすく)(まもる)の三人の息子達は、真樹と合流する前に将門を討ち取ってしまおうと、野本(現・筑西市)で将門を待ち伏せたのだ。地理的に言っても、(まもる)の勢力範囲は筑波山の西麓(現・茨城県笠間市、筑西市、桜川市がその領域として比定される)であり、筑波山の西北に勢力を張る真樹とは領地を接する部分が多いので争いが生じていた訳だ。(まもる)の領地の南には将門の伯父のひとり・平良正(たいらのよしまさ)の本拠地である水守(みもり)(現・茨城県つくば市水守)が有る。現在、国道百二十五号線が走っている南の辺りだ。将門の当時の本拠地・下総国(しもうさのくに)相馬郡(そうまごおり)豊田(とよだ)(現・茨城県常総市豊田・平安時代には常陸(ひたち)ではなく下総(しもうさ)に含まれていた)は更にその西南にある。現在の交通であれば豊田から戦闘場所である野本(現・筑西市)までは、国道二百九十四号を真っ直ぐ北上すれば良いのだが、当時の道程としては、良正(よしまさ)の領地・水守(みもり)の西、そして、(まもる)の領地の西を通って衣川(きぬがわ)沿いに北上し、(まもる)の領地の西を過ぎた辺りで東に曲り込んだことになる。そこで(たすく)達が待ち伏せたということは、やはり、平真樹(たいらのまさき)と合流する前に討ってしまおうと言うことだったのではないだろうか。

 どれほど悔いても悔い足りない。舘の焼け跡に亡霊のように立ちして、(まもる)は想っていた。 
『これが夢で有ってくれれば。いや、夢であってくれ!』
 甦って来るのは、息子達の在りし日の姿だ。
「父上! (しし)を獲りましたぞ」
 (たすく)の声がする。
 狩から戻った息子達が(やかま)しく話しながら庭に入って来る。
「これ、(やかま)しいぞ。考え事をしておったところじゃ、もそっと静かに致せ」
 (えん)に出て行った(まもる)が叱る。
「これは父上、申し訳御座いません」
 (たかし)(しげる)の二人が声を揃えて言い、頭を下げた。
「父上、狩は戦の鍛錬に御座います。成果は上々、このまま押し出して、真樹の奴にひと泡吹かせて参りましょうか?」
 (たすく)は能天気なことを言っている。
(たわ)けたことを申すな。戦は人と人との命のやり取り。狩とは違う。軽々に動くと思わぬことになる。気を着けよ」
 そう叱り付けた。この長男をもう少し厳しく(しつ)けるべきであったかと、その時、(まもる)は思った。幸い兄弟仲が良いのは救いだ。劣性を挽回しようと真樹が慌ただしく動いているという情報は、兼ね兼ね得ていた。あちこちの土豪に声を掛け味方に誘っていると言う。そうした中、将門が真樹の誘いに応じ準備をしているという情報が入って来たのは、前日のことである。
「明日にでも出立しそうとのことで御座います」
 郎等の一人がそんな報せを護に(もたら)した。
「将門…… 確か、国香殿達と揉めている甥であったな。国香殿の所へ使い致せ。ご相談したきことが有るゆえお越し頂きたいとな」
と命じる。
「はっ」
 郎等は早速出て行った。(たすく)が口を出して来た。
「父上、国香殿と何をご相談されるのですか? 討ってしまいましょう。真樹め、味方を掻き集めているようですが、将門が真樹の所へ入る前に討ってしまえば出鼻を挫けます。揉めているということですから、姉上方もお悦びになるでしょう。それに、我等だけでやってしまえば、国香殿、良兼(よしかね)殿、良正(よしまさ)殿に恩を売ることも出来ましょう。正に、一石二鳥どころか一石三鳥の名案とは思われませぬか?」
 確かにそうなれば面倒は無くなるとは思った。
「うん。だが、将門という男、どんな男なのか国香殿に確かめてみねばな」
 護とすれば、考えの浅い(たすく)(げん)に簡単に乗る訳には行かないと思う。
「大した者ではありますまい。同じく都に上っていた国香殿のご嫡男・貞盛(さだもり)殿が七位を得て左馬允(さまのじょう)に成っているのに引き換え、令外官(りょうげのかん)である滝口武者(たきぐちのむさ)止まりだったと言うではありませんか。長年、都に()りながら、結局官位ひとつ得られなかった無能な男です」
 (たすく)は、やはり、そう被せてきた。
「違う。滝口武者(たきぐちのむさ)に成ったということは、位階は無くとも武勇を認められたということだ。都とは違い、この坂東では武勇がどうであるかの方が大事だろう」
(たすく)を諌める。
「たまたま、小盗人(こぬすっと)か何か斬ったようです。検非違使(けびいし)を望んだがそれは叶えられず、滝口武者(たきぐちのむさ)しか得られなかったとか。同じ無冠でも検非違使(けびいし)なら、名の知れた賊を捕らえれば出世の糸口ともなります。滝口武者(たきぐちのむさ)ではそんな機会も滅多に有りません。結局出世など出来なかったと言うことです」
「誰から聞いた」
と確認する。
「ふふ。父上は麿のことを、ものを考えずに動く者とお思いのようですが、見損なっておいでです。真樹が将門を誘っていると聞いた時、ちゃんと調べさせました」
「そうか」
 (まもる)は少し安心した。だが『それが甘い判断だったとは……』
 僅か数日前、『軽々に動くと思わぬことになる』と(たしな)めた(まもる)自身が、その怖さを本当には分かっていなかったということになる。

 承平(じょうへい)五年(九百三十五年)二月四日のことであった。使いを受け国香がやって来た。国香は(ももる)の領地の西隣りを領し、真壁郡石田(まかべごおりいしだ)(現・筑西市東石田)に居を構えていた。
(しゅうと)殿、ここのところ何かと忙しゅうて無沙汰しておりましたが、急のお呼びとのことで急ぎ駆け着けて参りました。何で御座いますかな?」
 国香は、迎えに行った(まもる)の郎等の案内で、自らの郎等はひとりも連れずにやって来ていた。
「おお、国香殿。忙しいところを呼び立てて済まぬのう。ま、これへ。さ、さ」
と護が席を勧める。国香が対座すると、護は少し言い難そうにしていたが、やがて、
「実は、(みこと)の甥の将門のことじゃ……」
と切り出した。
「あ奴がどうか致しましたかな? 忌々しい奴で御座るよ」
 特に護の意図を探ろうとするでも無く、国香は、日頃の憤懣を口にした。
「所領のことで揉めているそうな」
と護が念を押す。
「はあ、元々は父が(のこ)した所領で御座るが、将門の父・良将(よしもち)が継いだ領地のいくつかに付いて揉めております。良将(よしもち)が、鎮守府将軍として陸奥(むつ)に赴任中他界してしまいましたので、良正(よしまさ)良兼(よしかね)とも話し合って取り敢えず管理することに致しました。将門は都に行っておりましたし、亡き良将(よしもち)()や幼い弟達では手が回るまいと思いましてな。荒れ果ててしまったり、周りの土豪達に奪われてしまったりしては、亡き父に申し訳が立ちませぬゆえ。ところが、都から戻ったあ奴めが、いきなり押しかけて来おって『父の遺領を返せ!』と、まるで我等が横領したかのように()くし立てる始末。伯父である我等に対して無礼にも、ほどが有る。これには麿だけで無く、良兼(よしかね)良正(よしまさ)も腹を立てましてな。将門がそう言う態度なら、こちらも管理の為、人を増やしたり手を掛けたりして来たのだから、それなりのものは貰おうということになりました。ところが、将門めは一切耳を貸さず、すぐに返せと繰り返すばかり。これでは交渉にも何もなりません。おまけに、良兼(よしかね)の娘まで奪ってしまいおった」
と国香は、自分の方に理の有ることだと言う事を力説する。
『都合良く言っているが、やはり横領したのであろうな』と(まもる)は思った。
『もし国香の言う通りなら、将門の留守に母にそれなりのものを届けているであろうし、そうしておれば、如何に将門とて怒鳴り込んだりはしないだろう』と思う。
『しかし、将門という男も策が無い。もう少し頭を使って上手く立ち回ることは出来なかったのか。大した男では無いな』とも思った。しかし、口では、
左様(さよう)か。それは難儀なことで御座るな」とだけ言った。
「頑固な上に、執拗(しつこ)い奴で御座るよ。身内ながら嫌になる。あれでは都で出世出来なかったのも無理は無い。愚息・貞盛も都では随分面倒を見てやったようだが、その礼の言葉すら無い」
と不満たらたらの様子。(まもる)はそこを突いた。
「ならば、討っても宜しいかな」
と国香の目を見る。
「う?」
 国香は、一瞬言葉に詰まった。
「平真樹と我等が長年揉めているのは承知されているだろうが、その真樹に与力する為に明日やって来る。我等としては不都合なので、討ってしまおうということになった。とは言え、婿(むこ)殿の甥とあればひと言、断って置かねばなるまいと思うて来てもらった」
 そう、招いた意図を明かす。
『腹立たしい奴め』とは思っていたが、正直、討ってしまおうとまでは思っていなかった。国香はちょっと目を泳がせたが、その後、目を(つむ)って考えていた。 
 やがて「分かり申した。すぐに戻って、人数を揃えて参陣仕る」と答える。
「いや、それには及ばぬ。時が無い。それに、身内同士の(いくさ)は気が進まぬであろう。我等だけでやる。(みこと)に異存がなければそれで良い。今宵は我が家に泊まって、明日はここで吉報を待たれよ」
と国香を制した。余り気の進む事ではないので、国香もほっとした。
「お気遣い(かたじけ)ない。では、お言葉に甘えてそうさせて頂きましょう」
「国香殿、我等にお任せ下さい」
(たすく)が言った。
「だが、気を着けられよ、(たすく)殿。将門は他人に引けぬ強弓(こわゆみ)を引く。狙いも確かだ。それに、付いている郎等の多くは良将(よしもち)と共に陸奥(むつ)に行っていた剛の者達じゃ」
 扶の方に体を向け、国香が厳しい表情となって告げる。
「ご心配召さるな、国香殿。我等とて、こんな戦いで郎等のひとりたりとも失いたくは無い。途中の森の中に伏せ、通り過ぎる頃合いにて横矢を射掛けて一挙に片を付けるつもりです。将門に弓を引く(いとま)など与えません」
 (たすく)の自信に満ちた言葉に、国香も(まもる)も満足げに頷いた。ところが、戦いの結果、(たすく)(たかし)(しげる)の三人の息子を一遍に失ってしまった。それに加えて国香も死んだ。また、長年仕えてくれた郎等の多くも今はもう居ない。

『出来ることなら、時を戻して『ならん! あの男を討とうなどと考えてはならん!』と叫びたい』そんな思いが身体の心から突き上げて来るのを、護は感じていた。
 こんな結末を一体誰が予想したろうか? 三倍もの人数で奇襲を掛けたのだ。負ける筈が無い戦いだった。まずい差配をして何人かの郎等を死なせてしまって怒鳴り付けるくらいが、予想出来る最悪の事態だった。
『吾ひとり生き残って、この先何の望が有るのか?』
 将門を憎む気持ちよりも、(すべ)てを失ってしまった虚脱感が(まもる)を支配していた。

 (たすく)達の出陣を国香と共に見送って舘に戻り、真樹のことなど話している時だった。郎等が一人、慌ただしく駆け込んで来た。聞けば真樹の領地と接する辺りで騒動が起きたと言う。
 放っては置けぬが主な郎等達は皆、(たすく)に付けてやった。任せられる者が居ない。そう思っていると、国香が、
「構わぬ。行かれよ、(しゅうと)殿。麿は客では無い、身内じゃ。ここで扶殿達の帰りをのんびり待っておることにする。火は小さいうちに消して置かねばなるまい」
と言ってくれた。その言葉に甘えて、(まもる)は残っている郎等を掻き集めて騒動の鎮圧に向かった。その留守中に、国香は火に巻かれて死んだ。敗走する者達を追って来た将門は、辺り一面に火を放ったのだ。混乱し逃げ惑う者達、迫り来る炎の中で、舘には案内する郎等のひとりとて居なかった。

 騒動を沈めて戻ろうとした(まもる)は、舘の方向が真っ赤になっているのを見た。
「何だ、あれは? 何が起きたのだ!」
 そう言うと思い切り馬の腹を蹴り駆け出した。途中、顔も体も(すす)と土で真っ黒になった奴婢(ぬひ)がひとり、息も絶え絶えになりながら走って来るのに出会った。
「何が有った!」
と馬上から尋ねる。
「殿様~っ。お舘も(さと)も蔵もみんな焼けちまった。若様方も皆死になさった!」
と奴婢は答えた。護に衝撃が走る。
「何~い!」
と言った切り、最早、ものを考える事も出来ない。ひたすら走った。

 戻った時には、既に将門は引き上げた後だった。全てが焼き払われ黒々とした焼け跡のあちこちに、まだ赤い炎がめらめらと上がっている。(くすぶ)っている屋根の残骸の下に遺骸が埋もれているのか、異臭が鼻を突く。逃げ散っていた郷人(さとびと)達が恐る恐る焼け跡に戻って来る。茫然と立ち尽くす者、身内の遺骸を見付け声を上げて泣きだす者、訳の分からぬことを喚きながら走り廻る者。長年付き従ってくれた郎等達の死体があそこにもここにも…… 地獄絵図だ。(たすく)(たかし)(しげる)三人とも死んだと聞かされたが、到底信じられる訳が無い。
「探せ! 探せ~っ!」
 (まもる)はただそれだけを繰り返し叫んでいた。そして、夕刻、生き残りの郎等の一人から息子達の最後の模様を聞かされ、遺体も運ばれて来た。舘の焼け跡から国香の焼死体も発見された。

 将門が特に非道だった訳では無い。焼き討ちは当時の(いくさ)の常道なのだ。焼き払うことに寄って相手の戦力を奪う。戦力とは、武器と人と食料だ。秋の取り入れ前の時期であれば、田に稔っている稲も焼いてしまう。兵は農民である。食べる物が無くなれば生活出来ないから、浮浪民となって他の土豪の領地や他国へ逃亡してしまう。穀倉も焼かれてしまえば、貸し付ける種籾(たねもみ)も無くなってしまうから逃亡を防ぐ手段はない。戦闘よりも遥かに効果的に相手を叩く手段は正に焼き討ちなのだ。待ち伏せを受けた将門の怒りが(まもる)の全てを奪い尽くした。

 都での不本意な生活と帰ってからの伯父達との揉め事。長い間、溜りに溜っていたものを将門は一挙に爆発させたのだ。

『我等は飛んでもない化け物を目覚めさせてしまったのかも知れない』そんな想いが護の心を支配し始めていた。しかし、考えてみればこれが(いくさ)だ。一時の戦闘に勝ったとしても相手を徹底的に叩いてしまわなければ後で反撃される。まして、戦力的に(まもる)には遥かに及ばない将門にしてみれば、どうしてもここまでやっておかなければならなかった訳だ。

 一方の(まもる)側はと言えば、お互い広大な領地を持ちながら、境界付近の帰属に付いて、真樹と長年争っていたが、僅かな所領の為に、元も子も無くすような大規模な戦闘をする気など双方共に無い。要は局地的な小競(こぜ)り合いを繰り返していたに過ぎないのだ。その意識が(まもる)にもその子らにも()み着いてしまっていたのだ。将門と(まもる)陣営との(いくさ)に対する意識の差がこの結果を生んだ。そしてそれは、戦闘開始前に既に始まっていた。
 (たすく)は、兵を伏せて待ち伏せをすれば楽に勝てると単純に考えていたろう。ところが、将門の郎等達は、陸奥(むつ)()った時、反乱を起こした蝦夷(えみし)の討伐を何度も経験している。蝦夷(えみし)との戦闘に於いて、始めから向かい合って戦闘を開始するなどということは殆ど無い。いわゆるゲリラ戦が蝦夷(えみし)の戦法であるから、常に待ち伏せを警戒しながら進軍しなければならないのだ。その為には、地形に寄ってどんな罠が仕掛けられている可能性が有るかを常に考え、それに対する警戒と探索を根気良く行う必要がある。鳥や獣の動静にも気を配らなければならない。

 遠くに森が見えて来た時「お待ち下さい!」と郎等のひとりが将門を制した。
「あの森の周りを多くの鳥が旋回しております」
と告げる。
「うん、確かに……」
と将門が応じる。
「恐らくあの森に巣が有るのに戻れぬ理由が有るのです」
 言われて直ぐ分かった。
「伏せ兵か?」
と確認する。
御意(ぎょい)
と告げた郎党が頷く。
「さては、我等の動きを前大掾(さきのだいじょう)に察知されたとみえるな。良う気付いてくれた」
 将門は、迂回して森の裏に回り込むよう早速一部の郎等に命じ、時間稼ぎの為、本隊には休息を命じた。

 休憩の後、頃合いを見計らって再出発したが、その時には、いつでも戦闘に移れるように郎等達に準備をさせていた。森の中の様子に気を配りながら速度を調整しつつ進む。

 矢頃にはまだ少し距離が有ると思われる辺りに至った時、森の中から突如悲鳴が上がり騒然となって、一部の将兵が道に飛び出して来た。裏に回り込ませた郎等達が一斉に矢を射掛け始めたのだ。一瞬満面の笑みを見せた将門だったが、次の瞬間には鬼のような形相(ぎょうそう)になり、自慢の弓を引き絞って、立派な(かぶと)(かぶ)った一人の武者に向かって放った。まさか届くまいと思われた距離から放たれた矢は武者の右太腿(ふともも)の外側に刺さった。武者は倒れ、兵達が慌てて周りを囲む。
「突っ込め~っ!」
 将門の号令と共に突撃が始まり、太腿に矢を受けた武者はあっさりと討ち取られてしまった。源太郎(みなもとのたろう)(たすく)であった。
 逆に奇襲を受け混乱し、おまけに大将を討ち取られてしまった(まもる)の兵達は、もはや、持ち堪えることが出来ない。我先に逃走を始めたが、思わぬことに、どれほど逃げても将門は執拗に追って来るのだ。逃走の途上、(たかし)(しげる)(たすく)のふたりの弟も、矢を受け落馬したところを将門の郎等に討ち取られてしまった。

 そんな細かな経緯までは、秀郷もまだ知らない。だが露女(つゆめ)は、秀郷も知りたがっていることをずばりと聞いて来たのだ。思わず秀郷は体を捻って上を向いた。間近に露女の顔があった。大きな目でじっと秀郷を見詰めている。燭台の炎に照らされた顔は意外に白く、肌の肌理(きめ)は細かい。およそ美人とされる女の顔の特徴とは縁遠いが、なぜかその時の秀郷には、露女の顔が限りなく美しく見えた。露女の髪の先が肩から滑り落ちて秀郷の頬に掛かったのを機に、秀郷は露女を抱き寄せていた。

 承平(じょうへい)五年(九百三十五年)二月は、(いま)だ内輪の争いではあるものの、将門の乱が始まった年であり、千方の母・露女が秀郷と政略的にたった一度だけ結ばれ、千方を宿した月である。

 そして、その五年後、天慶三年(九百四十年)の同じ二月に秀郷らが北山の戦いで将門を討つことになる。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み