第二章 第13話 喪失

文字数 8,971文字

 帰って来たと言う安堵感がどこかに有る。生まれ故郷の武蔵では無いが、坂東と言うくくりの中では、やはり故郷と言う感覚が沸いて来る。
 陸奥(むつ)での日々は楽しかったが、故郷に帰ったと言う安堵感はそれとは別物と言える。だが、千方が生まれ育った武蔵の風景は下野(しもつけ)とは違う。川越しに見る山々は飽くまで遠く、空と溶け合った背景であり、現実感の無いものであった。冬の寒い日にはくっきりと見えるが、春からは、彼方に朧気(おぼろげ)に霞んでいるか薄雲に隠れている。

 千方は幼い頃、山が目の前に有るとか、そこに登ると言うことを現実の感覚として捉えたことは無い。山々は、空や雲或いは陽や星と同じように、飽くまで背景として存在していたに過ぎ無いのだ。
 草原(かやはら)(現・埼玉県加須市、羽生市付近)は、利根川が氾濫と流路の変更を繰り返し、運んだ土砂が堆積して作り上げた自然堤防の上に位置している。南を見渡すと山は無く、どこまでも平坦な土地が続き、地平線を大きく遮るものは存在しない。埼玉県は今でも、日本一高低さの少ない県であるが、この辺りは特に平坦な土地が続いているのだ。
 自然堤防の上に人々が住み、その南には湿地を改良して開墾した田畑が続く。周りには、湿原の葦の原や、乾地の雑木林が散在する。湿原から水を抜く為の掘割が数多く掘られていて池や沼も多い。それが、千方が幼い頃より馴染んで来た故郷の風景なのだ。だから、千常に従って初めて下野(しもつけ)に来た時、山裾(やますそ)まで(みち)が続いていて、登ることが出来ると言うことに驚きを覚えた。

 始めて下野(しもつけ)に連れて来られて、三日目に山に分け入った時、普通であれば感動とも言えるほどの感覚を味わっていた筈なのだが、どこに連れて行かれるのかと言う大きな不安が存在した為に、その感動は、意識の奥に閉じ込められた。
 初めて来た時、下野(しもつけ)とは山国なのだなと思ったが、今にしてみると、丁度、武蔵と陸奥の中間的地形を持った国だったのだと思う。
 しかし、実のところ、千方は下野(しもつけ)を良く知らない。殆どの期間を山中で暮らし、平地を歩いたのは、来た時と、初冠(ういこうぶり)の為、宮の二荒山大明神(ふたあらやまだいみょうじん)に出向いた時、それに、陸奥に旅立つ時の三度だけだ。それなのに、下野(しもつけ)に入った途端、故郷に戻ったと言う安堵感を覚えたことが、千方自身不思議に思えた。

 千方一行は、まず安蘇郡(あそごおり)・佐野に向かい、千常に挨拶を済ませてから北上し、唐沢山(からさわやま)西麓(せいろく)の田沼に有る秀郷の隠居所を訪れることにした。
 東山道から佐野に入る。久し振りに千常の住む舘の門を潜ると、顔馴染みの郎等がすぐに舘の奥に走って行った。
「陸奥からのお方は、あちらに酒肴(しゅこう)など用意しておりますので、ご案内致します」
と別の郎等が葛良(かずら)らに声を掛ける。
多岐(たき)殿、世話になった。後ほど挨拶に参ろうと思うが、まずは(くつろ)がれよ」
と千方が告げる。
「では、お言葉に甘えまして、そうせさせて頂きます」
 そう挨拶して葛良(かずら)は千常の郎等に案内されて行った。
「殿はおられるのか?」
 人も舘の隅々までも知り尽くしている朝鳥が、別の若い郎等に声を掛けた。
「はい。おられます」
と郎等が答える。
藤三(とうざ)。子は生まれたか?」
 良く知った仲なのだろう。
「次の月になりましょう」
(かか)身重(みおも)の時に女子(おなご)遊びなどするで無いぞ」
 朝鳥らしい軽口が飛び出す。
「まさか……」
 若い郎等は鼻白んだ。
「親父殿は達者か?」
と朝鳥が聞く。
「それが、このところ調子が悪く。寝たり起きたりですわ。朝鳥殿のように、元気であってくれれば良いのですが」
「何、あの男得意の仮病であろう。そのうちケロっとして元気になるわ。心配するな」
 安心させようとしての事か、本当にそう思っているのかは分からない。
「全く。朝鳥殿に掛っては(かな)いませぬな。そうあってくれれば良いのですが……」
 そんな会話を交わしながら朝鳥は、ずかずかと奥に通って行く。何十年も過ごした舘である。
 千方も朝鳥と共に奥へ進むが、心の中は何となく落ち着か無い。初めて来た時に 足掛け三日滞在したとは言え、その後、二度しか訪れたことが無いのだから無理も無い。まして、夜叉丸、秋天丸に至っては尚更である。

 広間に入ろうとして、一瞬、千方の足が止まった。何と、千常が既に奥の上座に座っている。
「これは兄上。只今(ただいま)戻りまして御座います」
 そう言って中程まで進んで、胡坐(あぐら)()き、両の拳を床に突いて一礼し、千常と対座する。
 朝鳥、古能代、日高丸の手を引き高見丸を抱いた小鷺(こさぎ)、その後ろから夜叉丸と秋天丸。それぞれ腰を低くして進み、千方の後ろに席を取って、同じように一礼する。千方は顔を上げた。その時千常の顔が、何と無く憂鬱そうに見えた。
「うん。大儀であった。古能代、()と子らか?」
と千常が古能代に声を掛ける。
「はっ。小鷺(こさぎ)と申します。それに、上が日高丸、下が高見丸に御座います。こたびは、我儘をお聞き入れ頂き、連れ帰ることが出来ました。殿並びに大殿様の御配慮、(かたじけな)く思うております」
 朝鳥が受けていた密命など知らぬ古能代が丁寧に例を述べた。
小鷺(こさぎ)に御座います。お見知り置きを」
 小鷺もそう挨拶をした。
「うん。古能代を支えてくれ、頼むぞ」
「はい。及ばずながら」
「六郎。陸奥は如何(いかが)であった?」
 千方に向かって千常が尋ねる。
「楽しゅう御座いました」
「そうか。それは良かった。朝鳥、大儀(たいぎ)であった」
 千常の目が、古能代暗殺が現実にならずに済んだ事に付いての安堵を朝鳥に伝えており、朝鳥もほっとした気持ちを目に込めているが、それは二人だけに分かる沈黙の会話である。
「いえ。麿も楽しませて頂きました。それに、またひとつ、六郎様は大きくなられましたぞ」
 朝鳥の口から出る言葉は、千方の成長に付いてである。
「…… そうか。六郎。人の世には色々なことが有る。だがな、(つわもの)は、常に強くあらねばならぬ。良いな」
 千常の使う常套句ではあるが、朝鳥には何やら言い訳めいて聞こえた。
「はっ」
と返事はする。
一休(ひとやす)みしたら、(さと)に帰るが良い」
と千常が言った。
「兄上。陸奥守・平貞盛様には一方(ひとかた)ならぬお世話になりました。(さと)に戻る前に、田沼の父上の(もと)に参り、帰郷の御挨拶方々(かたがた)その旨申し上げとう御座います」
 田沼に寄る許しを千方は願い出た。
「それは、麿から申し上げて置く」
と何故か千常にいなされた。
「しかし、……」
と千方が言い掛ける。父に直接伝えると貞盛に約束したことが心に掛っていた。それに、吉利(きり)のことも直接頼みたかった。
「良いから(さと)に戻れ」
 千方が言おうとするのを遮って、千常が郷に帰るよう促す。
「実は、父上にお願いしたき儀も御座いまして」
 千方は納得していない。
「何か? 急ぎのことか?」 
と千常が聞いて来た。
「はい。出来れば」
「申して見よ」
「はい。実は夜叉丸が……」
 千方がそう言い掛けた時、
「六郎様、そのことなら宜しゅう御座います。(さと)に帰りましょう」
と夜叉丸が割って入った。
「夜叉丸案ずるな。兄上のお許しを得て、父上の(もと)へ参る」
と千方が夜叉丸に告げる。
「何事かは知らぬが、父上には麿から申し上げて置く。今は帰れと申しておるのじゃ」
 千常は毅然として千方の願いを撥ね付けた。
「何卒、お聞き入れ頂きとう存じます」
 千方は重ねて許可を求める。
(くど)い! 言うことを聞け」
 千常の声が大きくなった。
「兄上、実は夜叉丸、いえ、小鷺(こさぎ)殿に取っても良きことで御座います」
 千方の執拗さに、
「麿の言うことを聞けぬのか」
と千常の表情が変わった。察した朝鳥が、
「六郎様!」と声を出す。
 その時、いきなり立ち上がった千常が、つかつかと千方の傍まで歩み寄り、頬を殴った。
「さっさと立ち戻れ!」
 そう一括すると、どたどたと足音を立てて、千常は広間を出て行ってしまった。

 隠れ郷に向かう途中殴られた時のように、千方は飛ばされもしなかったし、(おび)えてもいなかった。憂鬱な目をして、左手で殴られた頬を(さす)った。
 突然、高見丸が激しく泣き始めた。日高丸は恐怖に固まっている。小鷺(こさぎ)は戸惑って、必死で高見丸をあやす。
 何が有ったのかと朝鳥は考えていた。そして、
「六郎様、戻りましょうぞ」
殊更(ことさら)のんびりとした語調を作って言った。

 初めて兄に逆らった。貞盛への約束を守る為と夜叉丸を思ってのことだ。それが、理由も分からず拒否された。兄を理不尽(りふじん)な男だと思った。
『何も郎等達の目の前で殴ることは無いだろう。幼い童も同席しているのに』
 そう思った。千方は唇を噛んで暫くの間、(くう)を睨んでいたが、やがて笑顔を作り、立ち上がって振り返った。そして、
「子らを驚かせてしまったな。小鷺(こさぎ)殿、済まぬ」
と言った。
「いえ、こちらこそお騒がせ致しまして」
 小鷺は高見丸が泣いた事を詫た。
「六郎様、もう、吉利(きり)のことは宜しゅう御座います。手前のことで殿を怒らせてしまい、申し訳御座いません」
 夜叉丸は、己が原因を作ったと思い詫びた。
「いや、貞盛様にお約束したことも有って、重ねてお願いしたのだ。そのほうのことばかりでは無い。詫びる必要は無い。むしろ、詫びねばならぬのは麿の方じゃ」
「いえ、そんな」
「六郎様」 
 朝鳥が呼び掛けた。
「殿は気の短いお方ですが、決して理不尽な方では御座いません。きっと、何か理由(わけ)があるはず。お詫びして、(さと)に参りましょう」
 千方が黙って頷く。
「…… 分かった。そう致そう」

 千方は、一人で廊下伝いに千常の居室に向かった。そして千常の居室前に来ると、背を向けて書見(しょけん)をしているように見える千常に声を掛けた。
「兄上。入っても宜しゅう御座いますか?」
「入れ」
 振り向いた千常が、やや重い声音(こわね)で言った。近くまで歩み寄り、腰を降ろし改めて黙礼する。
「先程は申し訳御座いませんでした。(さと)に戻ります」
と詫た。背を向けた儘、
「うん」
とのみ千常は答えた。
「では失礼致します」
 立ち上がった千方を、振り向いた千常が見上げた。千方は黙礼(もくれい)し、千常に背を向けて部屋を出ようとした。
「六郎……」
 その背中に千常が声を掛けた。
「はい」
 振り向いた千方が答える。一瞬間を置いて、
「…… いや、良い。行け」
とだけ千常は言った。
「はっ」
 千常は何を言おうとしたのかと、千方は思う。しかし、問い返さずに、黙って広間に戻った。


 皆、会話が余り無かった。初めて下野(しもつけ)に来た小鷺(こさぎ)に、来る早々嫌な思いをさせてしまったことを、千方は申し訳無く思った。
「古能代、小鷺(こさぎ)殿に嫌な思いをさせてしまった。済まぬ」
と古能代に詫た。
「いえ」
とだけ古能代は答えた。

 すぐに、佐野を()った。山に入った。蝉時雨(せみしぐれ)(やかま)しい程に鳴り響いているが、それが(かえ)って静寂を感じさせる。
 千方がこの山道を始めて辿ったのは、春であった。次に辿ったのは、旋風丸(つむじまる)の事件の報告の為、佐野に出向いた時、そして思いも掛けぬ初冠(ういこうぶり)となった冬のことである。
 岩の上に立って、寒風に髪を(なび)かせながら、千方を見送っていた芹菜(せりな)の姿が、ふいに脳裏を(よぎ)った。
『そうだ、芹菜と話せば、この割り切れぬ思いも晴れるかも知れない』と千方は思った。

『何を気にしておる。殿様とて、時には機嫌の悪いこともあろう。たまたま間の悪い時に行き合わせただけと思うたら良い』
 そんな風に言われそうな気がする。千方は思わずひとりでニンマリとした。
「古能代。祖真紀は我らが山に入ったことは()うに存じておろうな」
 そう朝鳥が尋ねた。
「はい」
とだけ古能代は答えた。
「ならば、既に(さと)の者が山蔭(やまかげ)におろう。なぜ姿を見せぬ」
と更に問う。
「分りませぬ」
 必要最小限の答しか返って来ない。陸奥以来、少しは変わったかと思っていたが、相変わらず愛想の無い男だなと朝鳥は思った。
「嫁と孫が来たと言うに、迎えくらい(よこ)しても良いと思うが、余所者(よそもの)でも入って来た時のように何をこそこそと見張らせておるのじゃ、気に入らん。祖真紀に言うてやらねばなりませぬな、六郎様」
 そう不満を口にする。
「祖真紀には祖真紀の考えが有るのであろう。(さと)に入った途端、郷人(さとびと)総出で迎えてくれるかも知れぬぞ」
と千方が笑顔で朝鳥を(なだ)める。
「そうで御座いましょうか?」
 朝鳥は納得行かない様子だ。

 郷人総出(さとびとそうで)の出迎えは無かった。(さと)は普段と変わらぬ(たたず)まいを見せている。
 千方の姿を見付けると、歩いていた者は道端に身を()けて土下座する。田や畑で働いていた者達は、道端まで出て来て、同じように土下座する。普段と変わらぬ光景である。

 広場まで来ると、祖真紀ひとりが出迎えていた。
「お帰りなさいませ、六郎様。途中までお出迎えもせず申し訳御座いません」
と頭を下げる。
「いや、そんなことは良い」
と千方が応じる。
「祖真紀、(さと)に何か有ったのか?」
 朝鳥が尋ねた。
「はい。御座いました」
 祖真紀が静かに答える。
「何が有ったのか?」
 嫌な予感がした。千方が祖真紀に問う。
「のちほどお話し致します。まずは、舘の方へ。古能代。小鷺(こさぎ)殿と子らを吾の住まいに案内(あない)して置け。(かか)に引き合わせたら、(なれ)は舘に参れ」
 祖真紀は古能代にそう指示した。
「分かった。では、六郎様、のちほど」
 そう言って、妻と子等を連れて古能代は住まいに向かう。
「子らも疲れておろう。小鷺(こさぎ)殿、ゆるりと休まれよ」
 小鷺の後ろ姿に千方が声を掛けた。
「お言葉に甘えてそうさせて頂きます」
 振り返った小鷺が答える。
   
 (やかた)前の階段の下では、郎等達が整列して千方を出迎えた。矢張り、山に入った時から千方帰還の情報は伝わっていたものと見える。しかし、犬丸でさえも満面の笑みを(たた)えて出迎えてはいない。いや、むしろ犬丸が一番暗い表情をしているのだ。
「お帰りなさいませ」
 揃ってそう言って頭を下げた。
「今、帰った。留守居大儀であった。何が有った?」
 千方が尋ねる。
「まずは、舘でお(くつろ)ぎ下さい」
 千方の質問には答えず、鷹丸がそう言った。
「うん」
と答え、重ねて聞くことはしなかった。だが、千方は、留守中(さと)に余程のことが有ったのだと言う確信を持った。そして、兄が取った態度に訳があったことも察した。しかし、この(さと)に起こる大事とは何か? それが想像も付かなかった。

 (はや)る心を抑えて、ゆっくりとした足取りで階段を上がった。入口を入り(かまち)に腰を降ろすと、控えていた中年女が足を(すす)ぐ。何だ、芹菜(せりな)では無いのかと千方は思った。
 (かまち)を上がり、そのまま一番奥まで進むと腰を降ろした。朝鳥、夜叉丸、秋天丸が続き千方と一旦対座するが、祖真紀が入って来た為、正面を空けて両側に開く。
「六郎様。ご無事のお帰り祝着(しゅうちゃく)に存じます」
 頭を下げて、祖真紀がそう挨拶した。
「うん。留守中世話を掛けた」
 「国時(くにとき)の姿が見えぬようじゃが」
 朝鳥が祖真紀に尋ねた。
三輪(みわ)様は、皆様と入れ違いに田沼に戻られました」
「そうか。礼を言いたかったのだがのう」
 朝鳥は何気無い話を続けている。
「祖真紀。何が有った」
 堪えきれず千方がずばりと聞いた。一度視線を落とした祖真紀が視線を戻し、千方を見据える。
「六郎様。お留守中、芹菜(せりな)が死にました。申し訳ありません」
と一気に言った。
「何?」
 聞き違いだろうと思った。『芹菜が死んだ? どう言うことだ。そんな馬鹿な!』そんな言葉が千方の脳裏を駆け巡った。しかし言葉には出さなかった。犬丸の方を見ると、犬丸は視線を外し下を向いた。
「あの元気な芹菜が死んだと申すか? なぜ?」
 千方が真剣な表情で詰める。
「半月ほど前のことで御座います。他の女子共(おなごども)と話しながら作業場から戻る途中、急に胸を押さえて座り込み。そしてそのまま、何ひとつ話す(いとま)も無く息絶えたと言うことに御座います」
 祖真紀はそう言って静かに千方の目を見た。
「そんな馬鹿な……」
 思わずそんな言葉が千方の口から漏れる。
「はい、聞いた時、手前も(にわ)かには信じられませんでした。あの元気な芹菜が、そんなにもあっさりと死んでしまう筈が無いと思いました。お心お察し致します」
(まこと)か? …… (まこと)のことか! 犬丸」
 千方は、思わず犬丸に向けて声を荒げていた。犬丸は伏せていた顔を上げ千方を見て、目を閉じて黙って頷いた。
 沈黙が辺りを支配した。誰も言葉を発することが出来ない。千方は、ただ(くう)を見据えていた。確かに聞いた。確かに聞きはしたが、聞いたことを認識出来ないでいる。
『六郎様。起きて下され』どこからかそんな言葉が聞こえて来て、目覚めさせてはくれないだろうか。そんな風に思ってみる。
『ふう、夢だったのか』目覚めてそう呟き、苦笑いを浮かべる己の姿を想い浮かべ、次の瞬間にそれが起こることを(せつ)に願った。しかし、面々の強張(こわば)った顔、張り付いた光景は消えることは無かった。
 朝鳥も衝撃を受けていた。そして同時に、千常の取った態度について思い起こしていた。恐らく、千常は祖真紀から報せを受けていただろう。だが、下野(しもつけ)藤原(しもつけふじわら)家から見れば、芹菜(せりな)は、千方が手を付けた蝦夷の娘に過ぎない。当主である千常が、わざわざ千方に伝えるようなことでは無いのだ。
 その役目を負うのは、祖真紀が相応(ふさわ)しい。自分から伝えるべきことでは無いが、千方の気持ちを思えば早く報せてやりたい。それが千常の苛立(いらだ)ちとなって表れたのだろう。そう言う千常の性格を、千常の守役でもあった朝鳥は知り抜いている。相変わらず不器用なお方じゃと思った。

 気が付くと祖真紀が朝鳥を見ている。目が合った。朝鳥は目から祖真紀の意図を読み取った。入口の方を見ると、遅れて来た古能代が一番後ろに席を取った処だった。恐らく、母から事情を聞いている筈だ。
「六郎様。お心お察し致します。我等はこれで退散させて頂きます」
 朝鳥の方を見た千方が小さく頷く。来たばかりの古能代を含めて、他の者達が一斉に立ち上がり、静かに入口の方に歩き始めた。
「待て!」
 千方が声を発した。
「犬丸。残ってくれ」
 足を止めて振り返った犬丸が、祖真紀と朝鳥の顔を見る。祖真紀も朝鳥も、黙って頷いた。
 犬丸は千方の前まで進み、そこに腰を降ろした。他の者達は出て行く。誰も言葉を発せず、それぞれの想いを秘めたまま舘を出、階段を降りた。
「朝鳥殿。話して置きたいことと相談が御座る」
 階段を下り切ったところで、祖真紀が言った。朝鳥が黙って頷く。
「古能代。(なれ)も参れ。(なれ)の住まいを使う」
 祖真紀が古能代に言った。
「はい」
と古能代が返事する。
「他の者達は、それぞれ家族の(もと)へ戻るが良い」
 祖真紀がそう指示をする。
「はっ」
と言う返事だけを残し、鷹丸、鳶丸、竹丸、それに、夜叉丸、秋天丸も、それぞれの住まいに戻って行く。

 皆が出て行った後、千方と犬丸は暫く無言で対座していた。やがて、千方が口を切った。
「どのように知った?」
「舘から戻る途中で、走って来る幼い弟に出会いました。…… 泣きじゃくって、ただ『(ねえ)が、(ねえ)が』と言っているだけで、何があったのか分りませんでした。芹菜(せりな)に何かが有った事だけは分りましたので、急いで戻りました。
 入口の近くまで来ると、母の泣き声が聞こえました。入って行くと、上向きに寝かされた(ねえ)(おお)(かぶ)さるようにして、(かか)が泣いていました。(てて)は傍に座り込んで、何とも言えぬ顔をして、ただ黙っていました。
 芹菜が死んだことは明らかでしたが、なぜそんなことになったのか。そんな想いだけが頭の中を駆け巡りました。吾は『何が有った。なぜなんだ!』と叫んでいました。『分からぬわ!』と(てて)が叫び返して来ました」
「どのような顔をしておった、芹菜は?」
と千方が聞く。
(おだ)やかな顔でした。事情は後から、一緒に居た女子(おなご)から聞きました。あっと言う間に死んでしまうなんて、何の(やまい)だったのかも分りませぬ。
 すぐに六郎様にお報せせねばとは思うたのですが、夏の暑さの中陸奥まで行って戻るまで、どの道、遺体をそのままにして置くことは出来ません。それで、郷長(さとおさ)が殿にお報せしただけで、お帰りをお待ち申しておりました」
「やはり、兄上は知っておったのか……」
 光景を思い起こして、千方が呟く。
「殿は何も仰らなかったのですか?」
 犬丸が千方に尋ねた。
「父上のところへ寄ってから帰ろうとしたら、さっさと帰れと追い返された」
「左様で御座いますか」
と犬丸。
 もはや夢であってくれと思うことは出来なかった。芹菜(せりな)はこの世にいない。そう認めるしか無い。しかし、あれほど元気だった者が、あっと言う間に死んでしまう(やまい)などがあるのか? 他に死んだ者が周りにいないと言うことは、流行病(はやりやまい)などでは無いだろう。そんな風に考えている時、千方は、ふと或ることに思い当った。
 他でも無い。千方と芹菜が近付く切掛けとなったあの出来事だ。竹の小枝を踏み抜いた千方を、芹菜が真剣に手当してくれた時、(まむし)に噛まれた訳でも無いのに、何を大袈裟なと思ったことを思い出した。それが少し可笑しく、又嬉しくもあった。
 そして何より、男女子(おのこおなご)などと呼ばれている芹菜にこんな心根(こころね)が有ったのだと思ったことが、芹菜に心を寄せる切掛けのひとつとなったことは確かだ。しかし今千方は、芹菜のあの行動は、命と言うものを遥かに真剣に考えていたからでは無かったのかと思う。つまり、己の命が、或いは長く無いかも知れないと思っていたのでは無いかと思うのだ。
 実は、芹菜はそれまでも何度か発作を起こしていた。それは、運良くと言うか運悪くと言うべきか、たまたま、他人(ひと)の見ていない時に起こっていた。強気な芹菜は、それを誰にも話さず元気な娘を装っていたのでは無いか。そんな風に思った。
「芹菜が突然苦しみ出すようなことは、今まで一度も無かったのか?」
 犬丸に聞いてみた。
「そう言えば、一度だけ有ります。畑仕事を一緒にしていた時のことです。近くに姿が見えなくなったので、探すと(いも)の葉の陰で(うずくま)っていたことが有りました。『何しとる?』と声を掛けると『覗くな!』と、今思えば苦しげな声で言いました。
 その時は、何と言うか、息張(いきば)っているのかと思い、まずいところを覗いてしまったと思って、急いでその場を離れました。でも、少し後に顔を合わせた時、顔色は真っ青で、脂汗が(にじ)んでいました。あれは、息張(いきば)っていたのではなく、あれは苦しんでいたのかも知れません」
「そうに違い無い。きっとそうだ。……芹菜(せりな)は己の(やまい)を知って、隠していたのだ」
 千方はそう納得した。
「姉に悪態(あくたい)ばかりついていたことが悔やまれます」
 そう言って犬丸は目頭を押さえ、両の人差し指で涙を拭った。
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