第六章 第7話 憎悪
文字数 3,693文字
五年が経 った貞元 二年(九百七拾七年)四月の或る日、千方 は侑菜 から子が出来た旨、告げられた。
祖真紀 から芹菜 の腹に子が居たことを聞いて以来、もし、子が出来ても自分は変わらずに居られるのだろうかと、己に問い続けた。しかし、一年が経 ち二年が経つと、その考えも薄れて行った。最早、自分には子は出来ぬと思うようになっていた。
そんな矢先の侑菜 の告白だった。年齢 が行ってから始めて出来た子だ。侑菜にすれば、千方がどんなに喜ぶだろうかと思っているに違い無い。その期待を裏切る訳には行かない。千方は跳び上がって喜んで見せた。実際、嬉しかったことは嘘では無かったが、一抹の不安が有ったことも確かだ。
そんな折、千方は関白・兼通 に呼び出された。
「関白様から直々 のお呼び出しですか?」
千方が修理大夫 ・源惟正 に問い返す。惟正は正四位下 ・参議でもある。修理職 は格が高いのだ。今まで何度も『関白様に一度ご挨拶に行ってはどうか。例えお目に掛かれなくとも、必ず意は伝わると思うぞ』と言われていた。要は貢物を持って行けと言うことだと思った。千方は曖昧な返事をして、事実上無視して来た。しかし、今度ばかりはそうは行かない。修理大夫を通じてそれと無く誘いを掛けて来たが、一向に応じる気配が無いので、業 を煮やして、兼通 は直接呼び付けて来たのだ。
「悪い話では無いと思うぞ。関白様はご機嫌麗 しきご様子であった。お舘に参れとのことじゃ。五位の者をお召しになるなど異例の事。有り難く思うのじゃな」
惟正 は、今までの千方の対応に腹を立てている様子は全く無い。
指定された時刻に千方は兼通 の舘を訪ねた。一応貴族であるから中に通される。孫庇 に控える。庇 を挟んで奥に御簾 が下げられている。暫く待たされて、家司 が現れて庇 に席を取る。
「お成りである」
家司から声が掛かる。千方が頭を下げる。
「良う参った」
兼通 からのその声を待って、千方は頭を上げた。
「修理亮 、お召しにより御前 に、参上仕 りました」
挨拶すると、
「日頃の精勤振り、惟正 より聞いておる」
との言葉が帰って来た。
「恐れ入ります」
再び千方が頭を下げる。
「御簾 を上げよ」
兼通 が家司 にそう命じた。一応貴族とは言え、軽輩者の面前に関白が間近に姿を晒 すなど、驚きの余り家司 は言葉が出ない。
「良い。下がっておれ」
兼通が、家司に命じる。
「は? あ、はい」
そう返事して、家司 は下がって行った。
「千方と申したな。面 を上げよ」
「はっ」
千方が顔を上げると、兼通 は笑みを漏らした。
「信濃以来じゃのう」
親しげにそう言う。
「あの折は、手前は控えていただけで御座います」
信濃での交渉の折、兼通は自分を気にしていたのかと千方は思う。
「麿は覚えておるぞ。中々の面構 えと見ておった。下野藤原 も安泰で何よりじゃ」
兼家の物の言いように何か意図を感じたが、
「関白様のお陰をもちまして」
と千方が言葉を返す。
「そう思うておるか?」
と、兼通 は念を押して来た。
「はい」
と千方は答える。
「千常 にも、そのほうにも配慮しておる。高明 殿も千晴 も解き放った。千晴に付いては行方 知れずとのことじゃが、麿の与 り知らぬことじゃ。都まで連れて来て解き放つべきであったと思うておる。未だ手掛かりは無いのか」
兼通がそう尋ねて来た。
「はい。手の者を出雲 に送って探させましたが、何の手掛かりも得られませんでした」
そう言って、千方が眉根に皺 を寄せる。
「良からぬ企 みをする者もおるでのう」
兼家 と満仲 の仕業 ではないかと暗に匂わせているのだ。
「そのほうと千常の出世を図り、高明 殿と千晴も解き放った。信濃 での約束、麿は全て果たした。そうであろう」
兼通 が何を言いたいのか察しが付いたが、
「はい。真 に有難き仕合わせと存じております」
と礼を言ってまずは惚 ける。
「ならば、あの折渡した約定書、返して貰っても良いな」
矢張りそう来た。
「はい。早速に美濃 に使いを送り、取り寄せます」
と約束する。
「そうしてくれ。千常にも異存は有るまい」
「仰せの通り」
「あんな物は無くとも、麿はそなたを買っておる。いずれ、修理大夫 、更に参議への道も考えておる。参議ともなれば、父・秀郷 をも超え、下野藤原 も更なる繁栄を迎えることになろう」
「お心遣い有り難う御座います」
そう答えたが、兼通 の意図が読めた。
「身内の恥ではあるが、弟・兼家は心根 の良からぬ者じゃ。その兼家が使っているのが、これ又不穏の輩 ・満仲と言う者。そなたに取っても仇 であろう。高明 殿追い落としも、千晴を嵌 めたのも兼家が、兄・伊尹 らをけしかけてやったことじゃ。麿も高明殿と親しかったゆえ、随分と嫌がらせを受けた。だが、麿は勝ったのじゃ、あ奴に。以後、あのような者達をのさばらせてはならぬ。そなたらが主 と仰ぐ高明殿は体調も悪く、政 に関わるお気持ちも無い。どうじゃ千方。この際、麿に仕えよ。兼家や満仲から下野藤原を守る為にも、それが一番とは思わぬか」
兼通 は身を乗り出すように畳み掛けて来た。満仲の武力を恐れる兼通が、千方を取り込もうとしているのだ。さすが兼通。がんじがらめの理詰めで逃れられぬようにして攻めて来る。だが、千方には、満仲と対抗する為に兼通に着こうと言う考えは無い。兼通は、安和 の変には無関係であったことを強調するが、千方から見れば、摂関家の一員であることに変わりは無いのだ。
しかし、断れば報復が待っているだろう。侑菜 に子か出来たと聞かされたばかりだ。官人 として生きて行くなら、ここは一も二も無く長いものに巻かれるべきであろうと千方は思う。それで、下野藤原も守れ、侑菜や子にも安寧な日々を与えられる。そう迷う気持ちも有った。
「有難きお言葉では御座いますが、当主である兄を差し置いて、手前の一存でお答え出来ることでは御座いません」
千方の返事を聞いた兼通 は、乗り出していた身を元に戻し、静かに息を吐いた。
「千常に相談すると申すか。兄を立てると言うこと、尤もじゃ。どこかの出来の悪い弟に聞かせてやりたいものじゃな」
兼通としてはそう言うしか無かった。
千常が同意するようなことでは無い。所詮は時間稼ぎでしか無いのだ。千方はそうは思ったが、さすがに即座に断ることは出来なかった。この先、無難に暮らして行く為には、保身第一の官人 と成って行くしか無いのかも知れない。そんな迷いが心に渦巻いていた。
兼通 と兼家の不仲は尋常では無い。兼通が権力を握って以来、兼家の昇進は完全に止まってしまっている。右大臣を目前にしていた兼家は、未だに大納言のままなのだ。
それだけでは無い。異母弟の為光 を筆頭大納言として兼家の上位に就けてしまった。露骨な嫌がらせである。兼家の舘は東三条に有り、兼通の舘は堀川第 に有る。
二人の舘は互いに隣接しているのだが、東三条第 (兼家邸)に客が来ると兼通はこれを罵 り、人々はそれを恐れて夜に忍んで東三条第を訪ねるようになっていた。
敗者である兼家にそんなに来客が有るのかと思われるかも知れない。しかし、政界は一寸先は闇。いつ逆転が有るかも知れないのだ。そして、大方 の公家 は、日和見 であり、風見鶏 なのだ。表では兼通 に媚 びを売り、夜、兼家を訪ねては『いずれ貴方様の時代が来ると信じております』などと追従 を述べる。
そんな連中を兼家が不快に思うかと言えば、そんなことは無い。なぜなら、兼家自身も含め、人間とは凡 そ、そんなものだと思っているからである。
許せないのは、兼通 べったりで、兼家を無視し続けている連中の方だ。権力を奪還した時には思い知らせてやると心に誓う。真っ先に裏切ると思っていた満仲が裏切らなかったのは、兼家に取って大きな驚きであった。
『あれだけ利に敏 い男がなぜ』
と今でも思う。一時は疑って、満仲が、陰で兼通と繋がっているのではないかと思い、ひとを使って調べさせてみた。だが、それは無かった。
『"その時" には満仲が使える』と兼家は思う。兼通が健在な限り、自分の将来は無い。ずっと大納言のまま飼い殺しにされるに違いない。四歳違いの兄弟である。もし兼通が實頼 のように長生きしたら、下手をすると自分の方が先に死んでしまうかも知れない。そう思うと居ても立っても居られなくなる。
方策は色々と考えた。娘を帝 や皇子 に嫁がせようとしたが、ことごとく兼通 に邪魔された。そればかりでは無い。帝 に近付くことさえも出来なくなってしまった。
味方に付けようと思っていた左大臣・源兼明 も、兼通が皇族に戻してしまい、左大臣の職を奪った。後任の左大臣には兼通の盟友である頼忠 を就け、右大臣には兼家と同じ大納言であった源雅信 を任じた。おまけに、十三歳も年下の異母弟・為光 を筆頭大納言として、兼家の上に持って来たのである。
我慢も限界。あらゆる工作が上手く行かなければ、いっそ殺してやろうかとも思う。もちろん、しくじれば謀反人となってしまう。完全な段取りを考え付くまでは、誰にも相談出来ない。信用出来る者など居ない。兼家はそう思っている。そして、間違い無くこれで行けるだろうと言う自信が付いたら、満仲 を使おう。そう決めた。
そんな矢先の
そんな折、千方は関白・
「関白様から
千方が
「悪い話では無いと思うぞ。関白様はご機嫌
指定された時刻に千方は
「お成りである」
家司から声が掛かる。千方が頭を下げる。
「良う参った」
「
挨拶すると、
「日頃の精勤振り、
との言葉が帰って来た。
「恐れ入ります」
再び千方が頭を下げる。
「
「良い。下がっておれ」
兼通が、家司に命じる。
「は? あ、はい」
そう返事して、
「千方と申したな。
「はっ」
千方が顔を上げると、
「信濃以来じゃのう」
親しげにそう言う。
「あの折は、手前は控えていただけで御座います」
信濃での交渉の折、兼通は自分を気にしていたのかと千方は思う。
「麿は覚えておるぞ。中々の
兼家の物の言いように何か意図を感じたが、
「関白様のお陰をもちまして」
と千方が言葉を返す。
「そう思うておるか?」
と、
「はい」
と千方は答える。
「
兼通がそう尋ねて来た。
「はい。手の者を
そう言って、千方が眉根に
「良からぬ
「そのほうと千常の出世を図り、
「はい。
と礼を言ってまずは
「ならば、あの折渡した約定書、返して貰っても良いな」
矢張りそう来た。
「はい。早速に
と約束する。
「そうしてくれ。千常にも異存は有るまい」
「仰せの通り」
「あんな物は無くとも、麿はそなたを買っておる。いずれ、
「お心遣い有り難う御座います」
そう答えたが、
「身内の恥ではあるが、弟・兼家は
しかし、断れば報復が待っているだろう。
「有難きお言葉では御座いますが、当主である兄を差し置いて、手前の一存でお答え出来ることでは御座いません」
千方の返事を聞いた
「千常に相談すると申すか。兄を立てると言うこと、尤もじゃ。どこかの出来の悪い弟に聞かせてやりたいものじゃな」
兼通としてはそう言うしか無かった。
千常が同意するようなことでは無い。所詮は時間稼ぎでしか無いのだ。千方はそうは思ったが、さすがに即座に断ることは出来なかった。この先、無難に暮らして行く為には、保身第一の
それだけでは無い。異母弟の
二人の舘は互いに隣接しているのだが、
敗者である兼家にそんなに来客が有るのかと思われるかも知れない。しかし、政界は一寸先は闇。いつ逆転が有るかも知れないのだ。そして、
そんな連中を兼家が不快に思うかと言えば、そんなことは無い。なぜなら、兼家自身も含め、人間とは
許せないのは、
『あれだけ利に
と今でも思う。一時は疑って、満仲が、陰で兼通と繋がっているのではないかと思い、ひとを使って調べさせてみた。だが、それは無かった。
『"その時" には満仲が使える』と兼家は思う。兼通が健在な限り、自分の将来は無い。ずっと大納言のまま飼い殺しにされるに違いない。四歳違いの兄弟である。もし兼通が
方策は色々と考えた。娘を
味方に付けようと思っていた左大臣・
我慢も限界。あらゆる工作が上手く行かなければ、いっそ殺してやろうかとも思う。もちろん、しくじれば謀反人となってしまう。完全な段取りを考え付くまでは、誰にも相談出来ない。信用出来る者など居ない。兼家はそう思っている。そして、間違い無くこれで行けるだろうと言う自信が付いたら、