第七章 第9話 平穏

文字数 3,992文字

 春の農繁期が終わり、梅雨が開けると、千方は自ら先頭に立って治水工事に取り掛かった。
 朝早く現場に向かう千方と郎等(ろうとう)達。粗末な直垂(ひたたれ)を身に付け、裾と袖を高い位置で絞って、折れ烏帽子(えぼし)を被り、汗拭きの布と水の入った竹筒を腰からぶら下げている。(すき)(もっこ)を担いで歩く千方の姿は郎等達と見分けが付かない。
 満政(みつまさ)は、千方の要求を渋々ながらほぼ飲んでくれた。無役とは言え、従五位上(じゅごいのじょう)(さきの)鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)の要求を無視する訳にも行かなかったのだ。満仲(みつなか)満季(みつすえ)が抱いている千方への怨念を満政が共有していなかったのは、千方に取って幸いだった。

 川底の掘削は意外と大事(おおごと)で、工法を工夫する余地が有る。まず手を付けたのは、湾曲がきつく、度々決壊している部分の改良である。湾曲部分を避けてほぼ真っ直ぐな水路を掘り、最後に従前の流れに接する両端を崩して流れを変える。その後、新しい水路を掘った土を使って、湾曲部分を埋める。そんな手順で工事は進められている。今は、真っ直ぐな水路を掘り進めており、もう少しで繋げられる段階である。
「今日も暑くなりそうですな」
 広表智通(ひろおもてともみち)が千方に話し掛けた。
()が昇る前に少しでも先に進めておこう」
 千方の言葉に
「はっ」と、皆答える。

 現場に着くと、もう五十人ほどの人々が作業を始めている。
「皆早いのう。暗いうちから始めていたのか?」
と千方が聞く。
「将軍様より遅く来る分けには行きませんでの」
 四十がらみの男がそう答えた。
「『将軍様』はよせと申したであろう。六郎で良い五郎左(ごろうざ)。昔からそう呼んでいたであろうが」
 従五位上(じゅごいのじょう)と言う、普通、土豪では有り得ない位階を持つ自分、皆、近寄り難さを感じているだろうと千方は思った。
 五位の位階を持つのは都から派遣される国守(くにのかみ)のみで、千方の父・秀郷(ひでさと)は在地で従四位下(じゅしいのげ)と言う位階を持っていたが、武蔵守(むさしのかみ)下野守(しもつけのかみ)並びに、遙任(ようにん)ながら鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)と言う複数の官職を有していた。従五位上(じゅごいのじょう)の身分を有しながら、無役且つ在地などと言うのは、異例中の異例なのである。
「昔は昔。今は呼び難いですわ」
 六郎と呼んでくれと言う千方に、五郎左はそう答えた。
「六郎で良い。そう呼んでくれ」
と千方が繰り返す。
「でも、郎等衆が『殿』とお呼びしているのに、我等が『六郎様』とは呼び難う御座いますよ」
 そう言う五郎左に、
「我等は主従の関係に有るが、皆はそうでは無い」
 |小山武規《こやまたけのり)が口を挟んだ。
「やっぱり、将軍様と呼ばせて下さいまし」
 どうしても拘りが除けないらしい。
「仕方無い。好きなようにせよ」
と千方は諦めた。
「この分で行けば、今日は抜く処まで行けるだろう。だが、余り流れの近くまで掘ってはいかん。一挙に崩れて流される危険が有る。堤幅ほどまで近付いたら、一旦作業をやめ、一人残らず上に上がって指示を待て。良いな」
 大事な事なので、千方は、声を張り皆の顔を見回しながら、そう強調した。
「へい。分かりました。お~い、みんな聞こえたか?」 
 五郎左(ごろうざ)が皆に向かって確認する。
「へい。分かりました」
 皆が揃って答え、千方を始めとして、郎等達も次々と空堀の中へ飛び降りて行く。

 午刻(うまのこく)近くになって予定の位置まで掘削が進んだ。()は高く昇り誰も()も汗まみれ、体力の消耗も激しい。
「よし、みんな上がれ! 木陰に入って休んでくれ。水をたっぷりと飲めよ」
 梯子(はしご)状の木組みを伝って皆上がって来る。そして、木陰を探して、三人、五人と言う塊となって散って行く。千方は汗を拭き、喉を鳴らして水を飲む。
「皆、相当疲れておるな。抜くのは明日にするか」
「左様で御座いますな」
 傍に居た豊地が同意する。そこへ、
「将軍様。今日抜いちまいましょうよ。夕立でも来たら心配です」
 横を通り掛かった五人のうちの一人が、声を掛けて来た。
「与一か。しかし、こう暑くては、皆の体力が持つまい」
と千方は安じる。
「なあに、一休みすれば大丈夫でさあ。駆り出されて、国府に使われてる訳じゃねえ。皆の田んぼが水被らねえ為にやってることだ。皆やる気でさあ。なあ、みんな」
 与一が声を掛ける。
「そうだ。そうだ」
と他の四人が応じた。
「そうか。では一旦帰ってゆっくり休み、申刻(さるのこく)にもう一度集まって貰おうか。そのように皆に伝えて参れ」
「はっ」
と返事をし、郎等達が伝言する為に散って行く。

「豊地」
 また汗を拭いながら、千方が声を掛けた。
「はっ」
「北に松林を作ってはどうかのう。今でも松は有るが、もっと増やして松林にしよう。松は砂地でもしっかりと根を張れる。林をつくれば、冬の赤城降ろしを和らげられるし、田や畑に砂が入るのも防げる」
「なるほど」
「それだけでは無いぞ。松脂(まつやに)は良く燃えるから、松明(たいまつ)ばかりで無く、枝は燃料にも使える。幹は高床の柱に使える。腐り難いからな。まだ有るぞ、松には(きのこ)も着くし、飢饉の際には実も食えるだろう」
 千方の頭の中には、草原(かやはら)の有るべき姿が描き出されているようだ。
「良いことばかりで御座いますな」
 豊地が笑顔で答える。
「かどうか、やってみぬことには分からんが、沢山植えて、ある程度育ったら間引きする。田畑の方が一段落したら、徐々にやろう。それまでに、松原の有る地をいくつか見て回って、不都合なことは無いか学んで置くつもりだ」
「お願い致します」
 豊地が頭を下げる。

 申刻(さるのこく)には郷人(さとびと)達は一人残らず戻って来た。暑さの盛りは過ぎたとは言え、まだ気温は高い。幸い入道雲は湧き出していないようだ。
「きついとは思うが、皆、もうひと頑張りしてくれ」
 千方の声に、
「おう!」
と一斉に皆が応じる。

 下流に繋ぐ部分は、水圧は有るが流れの圧は少ない。下流に流れ込む土砂を出来るだけ少なくする為には残す壁を薄くしたい。見張りを立て、様子を見ながら削って行く。崩れた時に備えて、中に入る者達の腰には縄を巻き、その先を上にいる二人の者が掴んで、万一の時には直ぐに引き上げる態勢を取っているのだ。絶対に犠牲者だけは出すまいと言う千方の覚悟が有った。
 上流に繋ぐ部分は、同じようにして下流より厚く掘削し、その後は人を全部上に上げ、腰縄を付けた者達が高さを削って行く。水面と平行になる辺りまで掘り下げると、更に慎重に土手から両脇を掘り下げる。
 両脇に出来た溝から水が流れ込み始めると流れは見る見る激しくなり、真ん中の土砂が溝の深さまで崩落する。そうなると、幅いっぱいに流れる水の水圧が僅かに残された壁を全面崩落させる迄に時は掛からなかった。

「うお~」
と言う声が上がり、皆、手を叩いたり飛び上がったりして、喜びを表している。冬の渇水期に作事を行えばもっと簡単に出来るのだが、嵐の季節を迎える前にやって置きたかったのだ。  
「皆、良くやってくれた」
 千方も満面の笑みを湛えている。
「明日からは、古い流れを塞き止め。埋め戻す作業だ。頼むぞ」
 そう皆に声を掛ける千方の声が楽しげである。   

 千方は農地の改良を次々と実施して行った。その結果、幸い嵐の季節にも大した被害を受けずに済んだ。秋の取り入れの季節を迎え、作事は休止となる。

 千方は小山武規(こやまたけのり)広表智通(ひろおもてともみち)を連れて取り入れの様子を徒歩で満足げに見て回る。
「将軍様。ご苦労様で御座います」
 農夫達が声を掛けて来る。
「おう。稔りは良さそうだな」
「へえ。お陰さんで」
 農夫達は交代で作事に出て千方と共に汗を流しているから、皆、千方を身近に感じるようになっている。だから、馬鹿丁寧に頭を下げることも無く、その辺の知り合いとでも話すように、仕事の手を休めず、軽く頭を下げるだけで、気軽に話し掛けて来るのだ。それは、千方の望むことでもあった。

 秋も深まった頃、珍しい客が有った。千晴(ちはる)の孫・千清(ちきよ)である。この度、下総掾(しもうさのじょう)に任じられ、一足早く単身赴任する途上だと言う。
「良かった。そなたも苦労したからな」
 千方が懐かしげに声を掛ける。
「大叔父上には大変お世話になりました。あの折、陸奥(むつ)に逃して頂いたお陰で縄目を受けずに済みました」
 千清は改めてそう礼を述べた。
「いや、大したことも出来ず済まぬと思っておる。義姉上(あねうえ)久頼(ひさより)殿はご壮健か」
「婆様は、正直、大分弱っておられます」
 少し暗い表情を見せて千清は言った。
「そうか。兄上の行方、未だに分からぬのだから無理も無い」 
 千方は義姉の心労を思った。
「安倍晴明様の占いで、祖父が生きているとお報せ頂いた時には大分元気が出たのですが……」
「時が経って、それならなぜ戻らぬのかと思い悩むことも有るのであろう」
と言う千方の言葉に
「確かに」
と千清が答える。
「久頼殿は?」
「父は、体は何とも無いのですが、全てを(あきら)めてしまつているような処が御座いまして。ただ、こたびの麿の任官に付いては喜んでくれました」
「それは良かった」
「あ、それから、子が出来ぬので、末の弟を養子に致しました」
と千清が思わぬ報告をした。
頼遠(よりとお)と申したな」
「はい。陸奥(むつ)の話が好きで、繰り返し聞いて参ります」
「それは、そなたが楽しげに話すからであろう」
「はい。追われる身で陸奥に行って、ほっとしましたし、良くして頂き楽しゅう御座いましたので」
 それほど陸奥(むつ)に興味が有るなら、機会があれば実際に見せてやりたいものだと千方は思った。
下総(しもうさ)で困ったこと有れば言って参れ。どれほど役に立てるかは分からぬが、出来るだけのことはする」
「有り難う御座います。近くに大叔父上がおいでになると思うと、心強う御座います」
「大叔父上はよせ。酷く年を取った気分になる。いくつも変わらぬのに。昔のように六郎と呼んでくれ」
「分かりました。では、六郎様」
 陸奥(むつ)の話が盛り上がり、薄暗くなるまで、二人は語り合っていた。

 この藤原千清(ふじわらのちきよ)が養子とした弟・頼遠(よりとお)の子・経清(つねきよ)は、後に陸奥国(むつのくに)亘理(わたり)権大夫(ごんのだいぶ)と成り、安倍忠頼(あべのただより)の孫・安倍頼時(あべよりとき)の娘・有加一乃末陪(ありかいちのまえ)を妻とする。
 そして生まれたのが、後の奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の祖・藤原清衡(ふじわらのきよひら)である。
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