第85話 更級日記の娘の市原在住の頃 エッセイ

文字数 1,550文字

 菅原孝標の娘は10歳から13歳まで上総国府(今の市原市)にいた。上総国府の父のもと、乳母に育てられ継母と生活をしたと、更級日記には書いてある。今でいえば小学生の高学年の年代である。自分の当時を振り返ってみると、僅かな出来事しか思い出せない。孝標の娘のように、九十日間にわたる、刺激的な移動経験をしたからこそ、鮮明に記憶しているのであろう。その上、才女で賢い頭脳を持っていた。
 市原市に住んでいるときは、家の近くを歩いて、見て回るか、遠くに行くのは父に連れられ
牛車に乗せてもらったことが、記憶に残るくらいだろう。現在でも変わらず存在するものは、富士見塚から西の方に富士山が見えていたと更級日記には書いてある。旅の途中、足柄山のふもとの出来事、富士山の近くに宿泊し、夜は冨士の頂の台地から噴火口の火が赤々と見えた。9月から12月の旅であり富士山頂は冠雪しており、濃紺の山に白い雪が印象的だったという。千年を経ても富士山は変らない、ただ活火山であった。
 彼女が長年住んだ市原では、乳母や継母に育てられ、毎日色々なことを教えて貰い懐いていた。京都に残った実母とは、父が国司の任を解かれた京都に戻り、大人になるまで一緒に住み、影響も受けたが、むしろ冷めた見方をしている。
 お世話になった乳母との懐かしい思い出が多くあり、夫も亡くなった乳母は、移動の際に出産し、別れて京に上ることになる。別離が寂しく切ない思いで、隅田川を兄が抱いて渡ってくれた乳母の泊まる筵の仮の家までいく。紅の衣をかけ、すきま風のふくなか、赤子と寝ている。京都へ戻った翌年三月乳母が亡くなった。「散る花も又くるはるも見もやせむやがて別れし人ぞ恋しき」と短歌に記している。
 継母との別れでも、色々優しく教えて貰ったことが多く、実の母より慕い別れが辛かったようだ。短歌で別れの辛さを「頼めしをなほや待つべし梅をも春は忘れざりけり」と継母に送り、継母は「なほ頼め梅のたち枝は契りおかぬ思いのほかの人も訪ふなり」と返した。継母は京都で別の人と結婚したが、時には連絡もあったようだ。
 継母が父に未練があるのか、父と同居していたころの昔の名前を使っているのを、父が嫌い、父が抗議の文を送った話も日記にはある。娘は短歌にも秀でた継母をいつまでも慕っていたのだろう。
 孝標の娘の市原における、住居跡はいまだに分からない。父が勤めていた国府の近くだろうが、その痕跡がなく、いまだに場所は謎だという。市原市に下総国府の候補地は四か所あるらしい。
 日記には継母や姉から聞いた源氏物語、光源氏の話に憧れ娘は「自分もそのような恋愛をしてみたい」と熱望する少女であった。当時は紙は貴重なもので貴族にしか手に入らず。紫式部の書いた本にお目にかかることが、なかなかできなかった。「京都へ早く上らせ給え、源氏物語など見せて下さい」と祈るため等身大の薬師仏を作ってもらい、仏間で密かに頭をつけ拝んでいた。当時は国分尼寺も近くにあったのだろう。仏教に対する信仰がつよく。国分寺や国文尼寺も娘は行った事もあったのだろう。
 娘家族が市原を去った後、上総国府の建物は、平忠興の乱などで、戦火に合い、燃えつくしてしまったのだろう。その後、平将門などにより国分尼寺などは再建されたこともあるようだが、その後焼失し不明である。
 娘が市原を去るとき、車に乗ろうとして、振り返りみたとき、家のなかは空っぽであるが、薬師仏像が、ぽつんと立ち給えるのを、見捨ててしまったようで悲しく、人知れず泣いてしまった」と記述している。その仏像が、どこかの寺に残っているという話もあるようだ。光善寺という現存の寺に、昔仏像がありそれが、その時のものでがないかと推測され、国府所在地の重要なてがかりとされている。
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