第1話 一、吾妻路九月三日、門出し(いまたち)

文字数 1,036文字

 あづま路の道の果てよりも、なお奥の方に生い出でてきた私、どんなにか田舎者であることを疑問に思い不思議に感じたであろう。どんなふうに思ひ始めていたのだろうか、 世の中に物語という物があるのを、どうやって見つければいいのだろうかと考えながら、つれづれなる昼間や、宵居などの時に、姉・継母などの人々が、その物語、かの物語、光源氏という者がいるなどと、ところどころに語るのを聞くにつけても、とても心引き付けられ、 私の思うままに、暗記してどうやって覚えて語らっていこうか。とても気懸りのまま、等身大の薬師仏を作って、手を洗いなどして、人がいない仏間にひそかに入り、「京に早く上げさせ給い、物語が多く候うらしい、ある限りを見せてくださり給へ」と、身を捨てて額をつき、祈り申しているうちに、十三才になる年、 京都へのぼることになり、九月三日に門出して、「いまたち」といふ所に移る。
長年にわたり遊び馴れた所を、家が空っぽになるくらいに、荒れ放題に散らかして、立ち騒ぎ、日の入り際が、すごく霧渡っており、車に乗ろうと、ちょっと振り返り見たところ、人の居ないとき参り、額をつけて拝んだ薬師仏が立ち給われているのを、見捨ててしまうようで悲しくて、人知れず泣いてしまった。
※先月、東京で家族食事会があったのを機会に、市原市へ行ってきました。上総国の国司として菅原孝標が四年任期で赴任したということですが、娘の書き方に寄れば「生まれ出でつる私は、いかばかり田舎者である・・」と書いているので上総国で生まれたのかと思ったのですが、当時は任期四年で天皇から任命されていたので、四年間だけ父、兄、姉、乳母、継母ほかの従者が市原へ住んでいたのでしょうね。市原市では国府や国司が住んだ跡がどこだか分からないと言うのが現状でした。国分尼寺が発掘され大々的に回廊を復元し、模型も見ました。が国分跡はその近くにあったのでしょうが、まだ謎の中らしい。千年も前の事は、残っている方が珍しい事です。八幡宿駅の近くにある飯香岡八幡宮に行きましたが、国府八幡宮で神功皇后の息子である応任天皇の由緒書きにありました。日本武尊もこの地へ来たという伝説があるらしく、飯を奉られ、この飯が香りがよいし岡のうえあるので、飯香岡八幡宮神社と命名されたと社歴にはありました。等身大の薬師仏は光善寺という市原地区にあるお寺にこの仏像があったと謂われがあります。この前が、国府の所在地でないかという説もあります。古瓦が発掘されたそうです。

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