第83話  父と娘の思い エッセイ

文字数 5,062文字

「東路の道のはてよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、・・・」とは余りにも有名な更級日記の書き出しである。随筆がすきな私は、清少納言が千年前、中宮定子の女房として仕え、宮中の出来事や、自分の思いつくまま書いた枕草子を読み、平安時代の雅な世界、「どんな世界だったのだろうか」と、興味を引かれ、次に更級日記を手にした。中流貴族であった菅原孝標(たかすえ)の娘によって書かれたもので、生涯の主な個人的な出来事を日記に記し、文のあとに和歌を入れたものである。孝標の娘が生きているうちは発表されず、百七十年後に、百人一首の編集者である藤原定家により発見され、その後、現代まで多くの人々に読まれている。
この更級日記のなかで、私の興味をひいたのは、作者の少女時代の旅の部分と、父と娘のお互いの心情をつづった個所で、私の子供の頃の思い出と、私の娘とのある時期の出来事を、唐突ではあるが重ねあわせてみた。
千年前に生まれ、現在の千葉県市原市で十三年間を過ごした。父が上総国府の国司として任命され過ごした時、田舎ながら、幸せで恵まれた境遇だった。ロマンチックな高貴な方の恋物語に憧がれ、自身もそういう世界に溶け込み、大人になっていくに違いないと夢見ていた。
父親が任を解かれ、京へ戻る事になる。娘が十三歳の九月三日に、市原を出発し、九十日間掛けて、京都市内までを一族と共に移動する。高速道路のある今なら、車で一日もあれば、行き着いてしまう。千年前は徒歩と、荷物は牛車に積んでの移動であり、日数がかかった。旅館などもなかったに違いない。仮設の小屋や野宿や他人の家に泊めて貰いながらの引っ越しだった。苦しいことの多かったに違いない。風景や人情を楽しみながら移動していく。
苦労談が鮮やかに描写されている。特に印象に残ったのは「常陸と下総の国境で宿泊した仮設家は雨で浮き上がりそうだった。大井川近くで仮の家は隙間風がすさまじく吹き込み、藁で編んだ筵が屋根替わりで、月が煌々と射し込む。少女だった作者は兄に抱かれて大井川を渡る。武蔵と相模の野や山、葦や荻の中をかき分けながら進む。足柄山は、恐ろしい程暗く木が茂り、麓にて宿をとる。早朝、足柄越えは、雲が足下に見え、やっとのおもいで越えた。沼尻では、病気で苦しみ、天ちう川のほとりで仮屋を作り、数日間を過ごす。少し回復したが、冬の川風が吹き上げ、絶え難く寒い」(更級日記・原岡文子訳注)というくだりである。防寒着もなく風邪をこじらせ、筵のうえに病み伏せ、数日間、苦しむ厳しい体験だった。そのような辛酸な旅を続け、十二月二日に京に入る。
さて、私はといえば、十三歳の頃は中学一年で、世の中のことはあまり知らず、ただただ、父への反抗を繰り返していた。
私は、昭和十七年、朝鮮京城で生まれたと戸籍に載っている。当時、朝鮮は日本の領土で、父が商売で一儲けできるというので、母と一緒に船で渡った。私が生まれる一年前、太平洋戦争が始まり、父も赤紙が来て徴兵となり、軍隊に入った、敗戦間近の昭和二十年に、母と私たち子供は日本に引き揚げることになった。私は二歳、姉五歳、母は二十五才と若く、混乱する釜山港から満員の船で博多港に着いた。記憶はないが母親は、命がけの思いで子供を抱きしめ、満員の恐ろしい船中を過ごしたのだろう。
父は軍隊と共に、数ヶ月後に、本土に帰国した。伯母の夫は戦死し、母の実家の人も戦死していた。多くの人が戦争の犠牲者となり、食べるに事欠くほどの貧困生活に直面していた。北九州の小倉の方は、B二十九の爆撃で多くの家は破壊されていた。父も引き揚げてきたが、財産はなくなり、かろうじて借家を借り家族四人で住んだ。雨の日は天井から何か所も雨漏り、冬は外の障子と雨戸を通して、雪が降りこみ、枕元にまで忍び込んだ。風呂は外の鉄製五右衛門風呂を薪で焚いて、入った。寒かった。食べる物は、麦飯に味噌汁と大根と南瓜の煮付けを、不味いけれど腹のたしに、毎日食べた。勿論、お菓子などない。昔を知らない子供心には、この状態が当り前のことだと信じていた。筑豊炭鉱が近くにあったが、小柄で体力のない父が働くのは無理だった。有り難いことに、父は農協で働くことが出来るようになり、家族の生きる道筋がついた。
更級日記の九十日間の少女の苦労の旅を、時代は異なるが、私なりに理解できるような気がした。
父孝標は、上総国府の国司という、今でいう県知事のような任務に就いていた。国府というと、私が思い付くのは、福岡にある太宰府国府跡と太宰府天満宮である。梅の花咲く頃には、何度となく訪れ、学問の神様として、菅原道真公が祭られている。その道真公の子孫が、菅原孝標と、その娘である。菅原道真は天皇にご講義する文章博士から太政大臣まで昇進した。陰謀にあい、左遷され、太宰府に島流しとなった。貧困の中に二年後に死去した。後に、学問の神、天満宮の氏神様となった。その菅原道真の優れた血筋を、菅原孝標の娘は引き継いでいることになる。
孝標の娘は、京に戻って、裕福な貴族生活のなか、宮家の女房として仕えた。高貴な社会での女性の一生を、時々の心情を和歌にも託し、送り手と返歌のコミュニケーションが、雅で不思議な、平安朝の世界へと導いてくれるようだ。
日記には、父と娘のお互いを思う、愛情あふれる部分がある。「七月十三日に父は任国の吾妻に下る。出発の日は、父娘は今やお別れであると、顔を見合わせて涙を、ほろほろと落として、出て行った。下男が、父を見送り帰ってくると、懐紙に、
 思うこと心にかなふ身なりせば秋の別れを深く知らまし
娘は何も言うべきことも思いつかぬまま、返事に
 かけてこそ思わざりしかこの世にてしばしも君に別るべしとは
父出立後は、父を恋しく思い、心ぼそきこと限りなし。明くるより暮れるまで、父の旅だった東の山際を眺めて過ごす」(更級日記)と表現している。
父が娘を思う心、良い婿に大切にしてもらいたい、しかし自分の力で尊いところへ嫁がせることも出来ずに吾妻の国司として単身赴任する。娘は、父の事を思い、寺院に参篭し、早く父が戻ることを祈願する。美人で気立ての良い娘に対する父の愛情はどんなものだったのだろうか。更級の作者を、父は目に入れても痛くないくらい可愛かったのだろう。
それにくらべ私は、自分の娘に対して、父として十分な愛情を注いだだろうかと反省もする。私は、結婚すると、子供の養育や家事はすべてを妻にまかせ、自分は外で懸命に働き生活費を稼ぎ、全額を妻に渡す。それが当時の風潮であったような気がする。
更級の父のごとく、愛情豊かに娘に接しただろうか、どう娘に思われ、娘の身の振り方を心配しただろうか。
娘が二十八才の頃、私たち家族四人は東京の東久留米市に住んでいた。私は六十歳定年が近づくと、父母の住む福岡に戻り、少し離れた所に家を建て、親孝行をする予定にしていた。娘は、すでに「ファーストフード」に就職しており、我々が東京を離れると、彼女は一人暮らしとなる。結婚してくれれば、安心と思い、娘に確認すると、彼女は「働いて居る職場に好きな男性がいる」という。娘が好きであれば、どんな男でも反対しないつもりだった。所帯を持てれば、子供が出来、幸せな人生を送れるのではないかと想像した。娘の紹介で、彼に会ってみると、年下だが、若くてハンサムであった。まだ大学四年だという。
卒業後は、システムエンジニアになるという。好青年であり、私も妻も気に入った。結婚の話を勧めると、彼は「娘さんと結婚してもよいです」と返ってきた。先方の親にも連絡し、池袋のレストランで会い、二人の結婚を承諾し、祝福した。
娘は自ら、結婚式と披露宴を計画し、幕張で、五十人程のアットホームな祝宴だった。私は新婦の腕を組み、教会のバージンロードを歩いた。娘の笑顔は家ではみせない可愛く、人生最大の幸せ一杯な様子の表情だったが、私もおそらく同じだったろう。
結婚してからも、時には、福岡の我家へ泊まり込みでやって来た。そんな時は、近くの割烹やレストランで四人して食事し、会話も弾んだ。
五年近くたったころ、娘から連絡があった。夫が家に帰って来ないという。他に女の人と住んでいるようだ。二ヵ月も続くことがある。子供はいなかった。一人前の女性として、結婚後、お互いに解決策を話し合ったのだろう。娘の腹は決まっていたようだ。会社に勤め、店では責任ある仕事をし、自立生活できる給料も貰っている。それまで住んでいた家を引っ越し、身の回り品を運び、東京中野区のアパートに引っ越すという。
父親として「相手の男性と会って、話し合ってみようか」と娘に訊いた。「自分の事だから。もう大人だし、自分の考えで処理していく」という。昔から彼女は責任感を持って行動し、親から見てもしっかりした性格であった。我々は彼女の判断に任せた。辛い話だろうが、乗り越えて行くに違いないと信じた。仕事も接客販売業が好きで、会社からも信頼され、店長を任されるようになった。
過去に何回か、店に訪ねて行ったこともある。新規開店の店で責任者として、テキパキ対応している娘の姿を見て、「立派に成長し、頑張っている」と確信でき、嬉しかった。
中野の新しいアパートにも行ってみた。裏通りになるが、静かな二階建てのアパーの一室だった。家賃も高いが、東京での一人生活をやっていくという心意気が感じられた。自分の娘だ、真面目で一生懸命頑張るだろう。「なにか相談があれば親として全力で応援していきたい」と話した。
福岡に引っ越して十年経った頃、娘から連絡があった。「結婚四十年周年おめでとう。記念に両親にプレゼントしたい」という。有り難く、好意を受けることにした。弟と連絡し、海外旅行を四人で行くことになった。場所はドバイで、「ブルジュ・アル・アラブ」のスイートルームに一泊し、砂漠のオアシスにも泊まるという。夢のような、貴族まがいの旅行が、あっという間に終わった。費用もかさんだことだろう。それより、心のこもったプレゼントが嬉しかった。色々な苦難もあったろうが、乗り越えてきた娘を誇らしく思った。
それから更に九年が経った。彼女は中野のアパートに住み続け、店長も続けている。百人以上のパート・アルバイトを抱え、店を運営し、「いらっしゃいませ」と明るく大きな声でお客様に対応している。「笑顔はタダなんだから、精いっぱい、心込めて笑顔を心掛けてちょうだい」と従業員には話しているという。
もう結婚はしないと思う。それでもいい、自分の人生である。自分の好きなことをやり、生きていくのがいい。最近は、結婚しない、または離婚する女性も多い。男女同権の今の世の中、真面目に努力すれば、女性であれ男性であれ生涯、自分の気に入った人生を過ごせると思う。年を重ね、寂しいときもあるだろう。我々も高齢になり、いずれはいなくなる。人類はその繰り返しなのだろう。
それに、日本はいい国になった。いろいろ問題はあるが、生涯にわたる年金はあるし、介護制度も整い、ちゃんと働いて居れば、応分の待遇を人々に約束してくれる。責任感ある娘は、日本が、神様がきっと見守ってくださるにちがいない。
孝標の娘は三十三歳で結婚し夫も貴族で、恵まれた生活のうえ、男の子ができ、立派に育て上げようと家事を切り盛りした。若いときは、源氏物語のような甘い恋と優雅な生活を夢見たが、現実の世界は地味であった。夫が地方の信濃守となり、任地へ出発の時、成長した息子も見事な装束に身を包み、父に同行して行った。
その後まもなく、五十八歳で夫が病死した。孤独と寂しさのなか、思い起こし日記をしたためたのである。年老いて誰も来なくなった家で、
「月も出でて闇にくれたる姥捨になにとて今宵たづね来つらむ」と詠み、長野県更級の地を連想し、日記の題名にしたという。
わが娘は東京から毎年一度、福岡にいる我々に会いに来てくれる。「逢い」に来る、という気分ですらある。でも、お互い心の内を吐露することはない。メールや電話もあるが、滅多に連絡はない。お互い元気であれば、それでよしと思っている。一人の人間として、生きているのだから。
父孝標と娘の相互の興趣ある思いと、私と娘との互いの思いは口には出さないけれど、愛情あるものだと思っている。いつの時代でも、誰であろうと、親子の間には、変わらない、いとしむ心情が、そこにはあるような気がしている。
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