第87話 逢坂の関  更級日記の中 エッセイ

文字数 3,073文字

 平安時代の更級日記の作者が、結婚し子供も育て上げたころ、石山寺へ参篭したという。京都の自宅から牛車に乗り供の者とともに、逢坂山ををこえていく。途中の「逢坂の関」は時代の色々な場面に出てくる。「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」、百人一首の蝉丸の歌でも有名な関所である。一度行ってみたい「どんな場所の関所だったのだろうか?」。
 膳所駅の近くで、レンタカーを借りた。駅は京都駅から列車で15分走ったところである。膳所という城もあるという。楽しみにして行ったのに駅は無人駅である。東海道線での高架駅は近代設備だが、駅員はいない。尋ねる人とて居ない味気無さを感じる。タクシーにはせせこましい道を飛ばして走る。不愛想な運転手である。近くの予約したレンタカー店に着いた。車賃借の手続きした後で、「逢坂の関」の場所を係員に聞いた。黒枠の眼鏡をかけた中年の男性は、遠くを見るように話してくれた。「私も行ったことはないのですが、ここから十五分車で走ったところです。車の多い国道一号線の通り道で、駐車する所はありません」という。車を止めれないならば、遠くから歩いていくのだろうか。炎天下だし、長時間歩く気力はない。もしかして行けないのでは、と不安がよぎった。「近くに食堂とか車を留める場所はないですか」と重ねて訊いた。
 初めての行く場所で、事前に大まかな地図や写真を頭には描いていた。石碑に「逢坂の関」と太い文字で書かれ、年代を経過した物が立っているはずだ。近くに蝉丸神社というのもあると画像にはあった。古典の好きな人だと、逢坂の関のすぐ頭に浮かぶのだろうが、興味のない人には、意識の外の存在なのだろう。急に思い出したのか、係員は、詳しい説明をしてくれた。「多分、近くにうなぎ屋さんがあるはずです。あそこには駐車場があり、そこからだと行けるかも知れません。わたしは、そこでウナギを食べた経験はありませんが」と、朧ろげな記憶をたぐり出してくれた。このヒントが、大いに役立つことになる。
 知らない土地を車で走る時は、ナビに場所を登録すると案内してくれる。逢坂の関と登録しようとするが、昔は有名でも現代では無名の所なのだろうか、表示が出てこない。
 とりあえず、国道一号を走り標識を探すことにした。相方の妻に運転を代わってもらい、私は窓外の景色と標識に、瞬きもせず探し見つめ続ける。
 国道一号線は、幹線道路であり、車は数珠つなぎでスピードを上げて走行している。ゆっくり走っていると、警笛を鳴らされる。日本人は親切で温和しい性格であるが、常識を守らないと、おっとりとは待ってくれない。信号青で十秒も止まっていると、「信号変わったのに、テレビでも見ているのじゃないか」と、「ブー」と警告音を鳴らされる。走行する車は早く、景色は飛ぶように流れる。山に入り坂道となった。「逢坂」という文字が電柱に掲示されている。多分、この近くが「逢坂」で逢坂の関はこの近くでに違いない。私は楽しい想像の期待と、場所の見つからない不安が混在しながら、鳥居などないかと、目を凝らした。すると突然、右手に看板があり、「うなぎ」の太文字が見える。あの係員が、思い出したその言葉を使っていた。坂の右下に家が少し並んでいた。が、アッという間に、車は通り過ぎてしまい、山間の坂をなだらかに下っていく。
 ナビは大きな道路の先に交差点を示している。信号で止まった瞬間に、「大津駅」をナビに入力した。駅に行き大津市内の観光案内パンフレットを貰い、それから判断しようと思ったのだ。ネットでだけでは資料として完全な働きは期待できない。現地に行ったら観光案内所でパンフレットを戴くことが最善の手段である。詳細なイラストによる地元案内がされ、貴重な写真もある。車が動き出すとナビは、変更した行先の大津駅を案内し始める。「この先の交差点を、左に鋭角に曲がるよう」指示をだされた。その通りに、左の細い道に進んだ。道は狭く、車がようやくすれ違い出来そうな道である。両側には昔風の民家が建ち並び、白い蔵造りの家もある。「これは街道だ。東海道に違いない」と私は直感した。
 私の住む福岡に長崎街道があり、趣味で宿場巡りをしている。何度も見た古い街道の宿場町の作りである。「東海道の逢坂の関」に通じる街道だと確信した。「近いぞ逢坂の関は」私の心の中は、期待でが風船が破裂しそうに膨らんできた。宿場を過ぎ、やがて細い道路は、大きな国道らしき道に、斜めに交差する。信号はない。おそらく街道を横切り、近世、バイパスが建設されたのだ。多くの車が、上り坂をスピードを上げながら走っている。割り込むのに少し時間がかかった。流れが緩くなった所で手をあげると、親切な車が止まってくれ、割り込ませてくれた。
 さっき通り過ぎた「うなぎ屋」をめざした。「あの場所で車を止め、ウナギを食べ、そこから、石碑や蝉丸神社を歩いて探そう」と運転者と相談。国道から左に鋭角に下る道に進んだ。
曲がった所に車が停車し繋がっている。6台先に警備員がいて車を誘導しているようだ。十分間待っても動かない。電車の踏切待ちにしては、音が聞えない。私は車を降り反対側の歩道に渡った。工事中で網フェンスに囲まれた山際に看板があった。「逢坂の関」の説明版の様だ。これだよ私の探していたのはと、小躍りした。「めぐり逢い」こそが、旅の楽しみである。フェンスから離れた看板は、遠くて詳しく読めない。歩道の先に石碑が見えた。そばに近寄ると、「これこそ逢坂の関の古びた石碑だ」と、発見したことに感激した。探し物をみつけました。東海道を往復する人々は星の数ほどいたのではないだろうか。この関を越えると京の都に入って行く。更級日記では、作者の父が市原国司の四年任期が開けて京へ戻る。十四歳の作者は、「逢坂の関」を越え、憧れの都へ入る。「三条の宮の西なる所へ着いた」と記している。また、二十年後の石山寺詣で逢坂の関を越えていく「雪うち降りつつ、道のほどさえおかしきに、逢坂の関を見るにも、昔越えしも冬ぞかしと思いいでらるる」と描写している。
石碑は、誰にも気付かれぬよう、草木に埋もれて建っていた。
並んだ車はなかなか動かない。私もこのまま待ち続けることにした。
逢坂の関を探してここまで来たのだ、一時間でも待つつもりだ。炎天下ではあるが
、車の中は冷房が効き、テレビも見れるしと心を決めた。
二十分も車で待っていると、警備員が旗を振り、駐車場へ行くように指示してくれた。車の置き場所は神社の裏手の広場で臨時駐車場となっていた。ここが蝉丸神社だった表に回ると石碑の由緒がきがあった。百人一首にでてくる蝉丸は盲目で琵琶の名手でもあった。芝居や演芸をするときの許可の興行権をもっていたという。多くの歌劇人が、この神社に参拝するらしい。名前は知っていたが、音楽の神様とは知らなかった。私は南米音楽のケーナという吹奏楽器を演奏する。腕はまだ未熟であるが、是非上手くなるように御願いし、また出合えたことに、細い赤い糸が繋がったような気がした。
 江戸時代からうなぎの上手い店で知られた場所だという。うなぎの蒲焼きは人気ある食べ物である。我々も北九州の「田舎庵」という所で、年一回くらい食べる。値段も三千円以上する贅沢品である。逢坂の関に止まってる車のナンバーを見ると、滋賀県、京都、大坂、名古屋、三重など県外車も多い。今日は八月の最終日曜日である。夏休み最後の贅沢ということで、多くの観光客も来ている。

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