第74話 七四、用があり和泉へ下る

文字数 762文字

 しかるべき用があって、秋頃に和泉の国に下ったが、淀という辺りより、道中の景色がおもしろくて興趣があり、言葉に言いつくせそうにもない。
 高浜という所に泊まった夜、とても暗く、夜がすっかり更けてから、舟の楫の音が聞こえる。誰かが尋ねているようだが、遊女がやって来たのである。人々は面白がって、こちらの舟に遊女の舟を着けさせている。遠い火の光に照らされ、単衣の袖を長くたらし、扇をかざして顔を隠し、歌っている姿が、実に情感のある光景である。
 翌日、山の端に夕日がかかる頃、住吉の浦を過ぎる。海も空も一つになったようで霧がたちこめ、松の梢も、海の面も、浪の寄せ来る渚の辺りも、絵に描いても描ききれない程の迫力があり情緒がある。
 どのように言い表し、何にたとえて語ったらいいのだろう、秋の夕べの住吉の浦を見つつ、舟を漕いで過ぎるとき、振り返り見ても、飽きないおもしろさがある。
 冬になって和泉から上京すると、大津といふ浦で、舟に乗ったところ、その夜、雨風が岩も動くかとばかり降りふぶいて、雷さへ鳴り轟くうえに、 浪が立ち来たる音や、風の吹きあれるさまが、恐ろしげなこと、もはや命もこれまでかと思うほど驚嘆させられた。丘の上に舟を引き上げて、夜を明かす。雨はやんだけれど、風が猶、吹いて舟は出せない。行く方法もなく丘の上で、五六日を過ごす。
 かろうじて風が少し止んだ頃に、舟の簾を巻き上げて見わたせば、夕潮がただ満ちに満ちて来る様子は、おそろしく急で、とりあへず、入江の鶴の声が驚いて飛び立つのもおかしく見える。国府の役人が集まって来て、「あの夜この浦から出発され、石津に着こうとなさったら、やがてこの御舟は跡形も無くなってしまったでしょう」などと言ふ。心細く聞こえる。
   「荒れる海に風よりさきに舟出して石津の浪と消えなましかば」
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