第86話 あづま路の道の果てよりも、なお奥つ方はどんな所 エッセイ

文字数 5,125文字

更級日記を読んだ後、千年前の上總国の状況を知りたくなった。作者である菅原孝標娘が過ごしたのが、現在の千葉県市原市である。「あづま路の道の果てよりも、なお奥つ方」とはどんな所なのだろうか。
孝標は天皇から、いまの県知事のような地位である上總国の国司に任命された。孝標の娘は京都生まれで、八歳頃まで乳母に育てられた。父の上總国赴任にあたり、貴族生まれの実母は上総行きを拒み京に残った。兄や姉と乳母や継母と共に、牛車で引越をした。
私の想像では、父は二十五歳で結婚したとすると、市原に着任した時は父三十九歳。娘は九歳。姉十二歳。兄十五歳。乳母二十九歳。継母は三十一歳だった。市原在住した四年の後、娘十三歳の年、京へのぼることになる。
継母は京へ戻り、思いのままにならぬこともあって、父と別れて他の人と結婚する。娘は継母の知性と教養と自分を愛してくれたことを生涯忘れなかった。その後の人生において、素晴らしい和歌や返歌を日記の中に残している。父はその後も、他国の国司として単身赴任したが、市原の時が一番幸せだったと思う。思い出を残していないか興味があった。
そんな思いもある私は、東京で食事会の折りに、市原を訪ねた。東京駅発の京葉線を使い、蘇我駅で内房線乗り換え、八幡宿駅で下車した。ここ降りたのは、何か繋がりがありそうな閃きを感じたからだ。生憎の雨。改札を出たご婦人に、神社の場所を聞くと、「私もそちらの方角なので一緒に参りましょう」と親切におっしゃる。積極的に話しかけ、地元の人々との出会いが、情報を聞くだけでなく、この土地の私の思い出も創ってくれる。
婦人は「飯香岡八幡宮では大昔から祭りがありました」と言う。富士見塚の看板を指し「今は干拓され遠くまで建物が立ちはだかっていますが、宮の傍まで海だったので、富士山が見えたのです」と説明し去って行った。日記にも「富士の山は駿河の国である。わたしが育った上総の国にては西の方に見えし山である」と語っている。私は、かつて東久留米市に住み、早朝に愛犬と散歩。建物の間から雪を被った富士山を見て「なんて幸せな気持ちを与えるのだろう」と感動した。孝標の娘も、同じ気持ちだろう。時が経ち、全ての建物は崩れ去り、時代と共に新しい物に建替わるが、山や海は今に残る。
社殿は立派で、看板には、「日本武尊が東征の時、この岡で飯を奉られ、その香りが良かったので、飯香岡と名付けられた」とある。ここまで日本武尊が来たのか、「八幡宮と何か関係があるのだろうか」と不思議に思った。横額には国府八幡宮とある。上総国府が近くにあったのだろうか。
社務所内に明かりが見えた。ベルを鳴らすと、狐のような目付きの中年男性が現れた。「更級日記を読んで来てみました」と言うと、意外に親切に地図を調べ、「更級という地名がある」とコピーし、歴史本の中から更級日記や万葉集の東歌の箇所も写してくれた。
後で気づいたが、悪い目付きは、歴史を研究し過ぎ眼を痛めたのだろう。彼から貰った資料が、多くの謎を解くカギとなった。見知らぬ旅人への、的確な心遣いがとても嬉しい。
「神輿が室町から江戸、現代と残っており、「柳楯」という名の神幸もあります」という。柳の枝で作った柳楯は神輿の原型といわれ、それを担ぎ「阿須波神社」を経由して飯香岡神社まで九月に神幸するそうだ。
その阿須波神社は、少し離れた市原地区にあり、万葉集の防人の歌が有名である。「葺垣の隈処に立ちて我妹子が袖もしほほに泣きしぞ思はゆ」。その意味は「葺垣の隅に立って、いとしい妻が袖もしぼるばかりに泣いていたのが思い出される」。なんという夫婦愛か、素晴らしい賛歌が聞える。ここへも孝標の娘が遊びに来て、防人の歌に心を躍らしただろう。
阿須波神社の北に「光善寺」という寺があり薬師仏があったらしい。源氏物語に憧れた娘が拝んだ薬師仏では、という説もある。「私も行ってみたい」との思いはあった。だが、阿須波神社は離れた所にあるようだし、ここで時間を使うと目的地まで行き着かないかもしれない。夜には東京へもどらなければならない。八幡宿駅から次の五井駅へ急いだ。
日記では、近くの古代東海道を通り、父の任期開けで京へ戻る旅となる。幼い日に過ごした上總国での千年前の描写は、現在も有名であり貴重な歴史的事実の証明でもある。
市原市の中心に五井駅がある。新しい駅舎には、更級に関する掲示が見当たらない。もっと大々的に宣伝があると信じていた。五井の地名は「行基という僧侶が、当地に五つの井戸を掘った」という古事に由来する。駅の「東口」を出て暫く、道路中央分離帯に「菅原孝標の娘のモニュメント」が待っていた。雨の中、編笠を被った旅姿は、なぜか寂しそうだ。しかし会いたいと思っていた私の夢が叶った瞬間だった。
それにしても像の前には説明板もない。知らない人は「この娘は何もの?」と思うだろう。「もっと愛情を注ぎ、連綿と掲示されていいはず」と疑問に思った。
四年間に貴族である上総国司の娘として、「長年にわたり遊び馴れた所」と日記にある。継母は貴族出で、宮中で女房も経験し、和歌にも堪能な才女であった。平安時代の一条天皇と中宮定子の知的でサロン文学を思わせる雅な生活は、枕草子のなかに清少納言が詳しく描いている。源氏物語も、当時紫式部が執筆し貴族の間で公表され読まれていた。
乳母も市原では、まめまめしく娘の世話をした。京都へ帰る頃、国境で出産した。夫も亡くなり赤子を連れ別行動だった。恋しくて乳母に会いに行きたく、兄に連れて行ってもらった。風吹き抜ける仮の家に赤子と寝ている乳母を見舞ったが、とても哀れであった。
市原で一緒に働いた地元の人達も、国境まで見送ってくれ、行く人も帰る人も皆泣いて別れを惜しんだ。情愛ある市原の末裔の方々も市原に今なお在住されているだろう。
駅前の不動産屋を尋ねた。若い事務員は日記の事を知らない素振りである。客の若者がスマホの地図でポイントを教えてくれた。「市役所通り」というのもある。歩ける距離と思ったのが、土地勘のない浅はかな考えだった。遠近感や雰囲気は現地に来ないと分からない。一度経験すれば、記憶に残るものではあるが。
駅に戻った。雨でタクシーもない。バスは三十分後に市役所方面へ出発するという。人口二十万にしては交通便の悪い所だ。ゴルフ場が多く、大きな田舎町という印象である。
市役所に着き、受付女性に尋ねると、困惑したように「更級日記の場所は分かりません」と返ってきた。観光課に訊いても「上総国府は何処だか分かりません」という。市原イクオール更級日記と私は信じきっていたが、どうも歯車がかみ合わない。何故だ。観光課の職員も「役所の北後方に国分尼寺跡があり、手掛かりがあるのでは」と言う。「目指す場所ではないが、更級の糸口を捜しに行くか」と独りごとをもらす。
信号待の人に尼寺跡を訊ねると「後ろの道をまっすぐ行って、多分右手の方角にあったはずです」と曖昧な言い方だ。スマホの位置情報など年寄りは疎い。タクシーで回れば良いのだが、雨の日は少ない。さんざん遠回りし、赤い回廊のある尼寺跡に着いた。
「上総国分尼寺跡」は広い敷地であり、復元された赤い回廊、芝生のなかに昔の礎石が見える。展示館は小さいが、天平の甍の展示や発掘状況のパネル、出土品の展示がある。係員は「市役所を建設の際、発掘調査をした所、芋畑から古瓦や土器などがざくざく出てきて、日本一広大な上総国分尼寺跡の大発見でした。国の補助もあり赤い回廊が十五億円かけ建設されたのです」と説明。展示館が開設された三十年前は、見物客で大賑わいだっただろう。いまは寂しく私と他に夫婦つれだけ。別の場所に市原自然博物館が二年前建築され、詳しく歴史を、出土品を展示しているらしい。「そこに学芸員もおり、更級の事を知っているかもしれません」と話してくれた。戻る道は遠かったが、市役所でようやくタクシーをつかまえ市原歴史博物館へいった。尼寺跡の発掘品が多く並べられ、江戸時代の舟の木製のカジが三メートルの大きさで展示。上総国府の情報もなく、印象は薄かった。学芸員が外出中で、国府のことは分からない。「そろそろ駅に戻らなくては」とあせった。歴史博物館前から五井駅行のバスに飛び乗り、五井駅に戻った。
駅の「西口」前の看板に「ようこそ更級の里、市原へ」という立て看板があった。「このお知らせと、娘の立像がメーンなのだろうか」。日記に期待し市原まで来たのに、どこに更級の里があるのだ。来て見て、想像が萎んでいくのは辛い話しではないか。しかし最後まで諦めないことも肝要である。
土産話はないかと、望みを託し、派出所を尋ねた。警官は「そこに観光案内があります」と、教えてくれた。建物の一角に小さな案内所があった。ドアを開けると、ビニールカーテンの向こうに、やる気満々の中年女性がいた。最後に会ったこの女性が、更級日記の研究家ではないかと思う程、滔々と市原の町と孝標の娘に係わる情報やパンフレットをくれた。最初に会っていれば、市原と更級日記のイメージが繋がる夢の世界になっていたのに。「まぼろしの上總国府を探して」という本を勧められ、買った。
国府の場所は、四か所に推定場所がある。車で行っても駐車場がない、貸自転車があるので、天気の日に、各所を回り体験できます」という。千年前の県庁が未だ解明されてない。菅原孝標は分からなくても、国司の役所跡は発掘してもいいはず。だが権力の衰退と、新勢力台頭で、歴史は変わる。構築物も根こそぎ消える運命のようだ。更級日記に詳しい人に、会って話を聞いただけでも、私の市原探訪の満足度半分以上が達成された気がした。
買った本を読んだ。古家を建て直す時、地主に許可をもらい、発掘調査した「光善寺」の前の住宅から、千年前の石の基礎や瓦や遺品がでた。国府の庁舎住宅跡に違いない、と推定している。孝標の娘が上総国に住んだ間、毎日拝んだ薬師仏を残したこと。近所の懇意にした人が、国境まで見送ってくれたこと。その末裔の方々も、市原のどこかに居られるのは間違いない。
福岡へ戻った私は、国府というものに興味があった。買った本の中に、「全国に六十ある国府跡の中で、最初に史跡として認められたのは、山口県防府市にある周防国府。その全域は八七〇メートル四方」という。防府市は、自宅から二時間あれば行ける所である。
私は、関門橋を渡り、山口県周防市まで高速道路で車を飛ばした。市役所を尋ねると、「近くに防府文化財郷土資料館があり、そこに国府関連の展示もあります」と紹介された。資料館で作業着の女性に会った。尋ねると、誠に歴史に詳しい人で、国府については勿論、私の拙い歴史の疑問に対して、専門的なことを噛み砕いて、穏やかに説明してくれた。周防市の歴史のエキスパートなのだろう。市の主幹の名札を下げておられた。尼寺跡はまだ発掘されてないが、周防国府は発掘跡が、今は公園となっている。
芝生のある木陰で若いママたちが子どもと遊んでいた。国府紹介の看板は随所に有る。国府の庁舎の250メートル先に、国司の役人が住んでいた所も特定されている。
資料館の展示物を見ていくと、平安時代の区画に、「周防国府の長官として、清原元輔が幼い娘の清少納言とこの地で過ごしていた」とある。かの日本三大随筆の枕草子の清少納言が子どもの頃、父と一緒に住んでいたのだ。枕草子の中にも、その幼い頃の話しが描写されている。更級日記では孝標が上総国府の長官として娘と市原で過ごしていた。同じような境遇にあったのだ。共に平安時代の貴族の人達である。なにか自分の中で、千年前の二つの国司家族の出来事を、偶然見つけたような歓喜を感じた。
市原市役所の受付の女性は、更級日記の事を訊ねると当惑したような対応をした。理由が分かったような気がした。日記には市原で四年間過ごしたと、明白な事実が書いてある。しかし、生活拠点の上総国府は発掘されていない。日記以外に事実の裏付けがない。だから、市としても、この国府跡で仕事をしていたということを掲示出来ないのだろう。
市原市も、是非、周防歴史館を参考にして、同じ程度の「孝標と娘の市原との関わり」を創作展示出来るのではないかと思う。更級日記を愛する人は市原だけでなく、日本に大勢いることだろう。国府跡の発見はかなり進んでいるようだし、孝標と娘の在りし日の姿を、推測の形ででも再現してほしい。防府国分寺にあった薬師仏の前で、私は額を畳に付け、ファンの一人として切に、そう願ったのである。   
  令和五年七月一日   

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