第89話 石山寺で更級日記の作者が参籠した場所を確認 エッセイ

文字数 2,400文字

 平安京での更級日記の作者は、天皇家に女房として出仕するようになる。女房の宮中における人数はどれくらいいたのだろか。清少納言は少し年代が遡る。中宮定子のお気に入りの女房である。頭も良く、その対応を枕草子に書いているが、見事である。まだ上巻の中程までしか読みおわせていないのであるが。中々古語辞典を引きながらで時間はかかる。もう1年半過ぎてしまった。その間に、更級日記に興味が湧き、これは割と短いので、読了した。宮中に仕える女房でも主力の人物ではなく、貴族の娘として宮に上がるようになり、経験をつむのですが、その内、親に結婚を勧められ
 貴族と結婚する。子供もできたようですが、詳しくは日記に書いてない。しかし、娘が嫁いだことや、ご主人が国司になるとき一緒について行ったと言うことは書いてある。源氏物語のような人生に憧れていたけれど、現実には貴族のありきたりの生活であった。仏教というもに結婚後は信じ、お寺へ参籠することが多かった。二度ほど滋賀県の石山寺に参籠をしていることが書いて在る。結婚しお金も蔵を建てるほど貯まったのでしょう。主人は宮中勤めで作者は女房として宮仕えすると、財産が増える構造なのでしょう。その経済的なことは、面白そうだけれども分からない。石山寺へ牛車に乗り、お供をつれて行くのでしょう。京都から石山寺は逢坂の関を越えなければならない。わたしもその逢坂の関へ行き、蝉丸神社にも行ってきました。多くの旅人がこのみちを通り京へ入り、また京から出ていったのでしょう。
 現代ならば京都駅から膳所駅まで15分くらいで到着ですが、歩いたならば一日ではつかないような気がします。江戸時代の東海道と同じ道を歩いたのでしょう。国道①号線から斜めに入った所に宿場のような町並みがありました。京都からそこを通り逢坂山の関所をぬけていたのでしょう。
 それから瀬田川の傍を通り、瀬田の唐橋を横目で睨みながら、石山寺へ向かうのでしょう。
瀬田の唐橋は川幅が狭いところとは言え、二百二十メートルあるようです。大橋が百七十メートルで小橋が五十メートルあると言います。昔は橋は板張りでしたから、この板橋を何枚か外せば、向こう岸へ渡らなくなる。日記の中に衛士が宮家の姫を抱いて武蔵国へ向かって行くシーンがあります。衛士は宮中の追手を避けるため、唐橋の板を何枚も外して、武蔵へ向かったと書いて在ります。
 石山寺に車の駐車場もあり、安心しました。車を停め、門前の店を見ながら入場口へと。入場料は本殿拝観を含め千円でした。八月後半の暑い日の旅ですが、更級の作者が参籠した寺に何か証拠物件があるのではないかと、期待で胸一杯なのです。静かな参道に蝉が鳴いています。石山の上にお寺は建っていると言うことでした。大岩が正面にでんと控え、その先に赤い五重の塔が望まれます。これを千年も前の平安の貴族はお参りし寺に籠もり、僧侶の話を聴いたり、お経をとなえりしていたのでしょう。現代では泊まってまでの参籠はあまりないようですが、当時は法華経が入り始めの頃で、仏教がもりあがっていたのでしょう。岩の左の方向に石段があり、それを登ると国宝の本殿があります。岩の斜面にたてられており、御堂の周りは回廊のようになっています。清水寺に似た、舞台廊下があり床下を高い柱で支えられているのです。下は広場でその先は木々が高くあるのです。
 本堂内部にお札を並べ年配の巫女さんがいます。券をみせ本殿に上がらせて貰います。大きな仏像があり祭壇の前に僧侶が座りお経を上げています。中を一回りすることも出来、木彫りの仏像が人物大のものが並んで居ます。仏像にそれぞれの名前があるのですが、不信心な私にお名前を覚えきれません。弘法大師がほった仏像もあるようです。
 この寺へ参籠したのが、源氏物語を書いた紫式部だと言うことを、初めて知りました。最初の出足のインスピレーションをこの寺の一室で感じ、物語を書き始めたと言います。その一室が公開され、十二単の紫式部が和机の前に座り、筆を持ち、巻紙の和紙に向かっているという光景を再現しています。私は深々と頭を下げ、賽銭箱にコインをいれました。どうぞ爪の垢でも煎じて飲みますので、文才をかけらをお授けくださいと祈りました。そんな小銭ではと式部さまは、にっとされているようでした。そこをでて山の上にはまだ建物もあり、眺めの良いところもあるようです。
 芭蕉庵もあり、俳句を詠んだのでしょう。その先に、急に視界が開けました。瀬田川があり向こうに山がある。二艘の競艇用のボートに二人乗りが全力で漕いでいる。この場所から光源氏の思いが浮かんだのでしょう。更に登っていくと、赤い建物がありますが、入場できないようです。下って行くと、紫式部の像があると掲示されています。反対方向への下りとなって、中々見つかりません。相方の妻は夏日で疲れたのか本殿の長椅子に座って、どうぞ上でみて下さいという。元の道にもどろうと思い、式部像は諦めました。下って本堂へ行くと、中の奥の部屋が、更級日記の作者が参籠した部屋があると表示されていました。この部屋を使ったと言うだけです。
間違いなく此処へ来て僧侶の話を聴いたり経を読んだり、三日間逗留したのは、絵巻物語りに石山寺に保存されているという。これが見たくてはるばるここまでやって来たのである。
 「紫式部像は見つけられなかった」と妻にいうと、「では私も行きますので、もう一度探しましょう」ということになった。上まで登り、光堂という所を下へ下ったところに式部造があった。紅葉の木に囲まれた外の場所に銅像が据えられている。本殿にあった像と同じようなタイプで実物大の大きさなのだろう。私は銅像にさわりまたも私の願い事を念じた。銅像は目して語らず。はるばる福岡からやって来て、平安時代の天才作家に会えたのは最高の思い出である
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