第50話真知子の癌が転移してしまったのか

文字数 3,016文字

そして翌日、急遽メンバー7名でミーティングを開催する事になった。
この日の議題は、今回の実験の結果を我が社の重役会議に諮るかという内容であった。
しかし当然のっけから、それは無理だという意見が大半を占めていた。
脳の重篤な記憶障害という副作用が動物実験で判明してしまい、重役会議どころでは無くなってしまったのである。
勿論、その先に続く臨床試験なども問題外となってしまった。
そこでこのままの状態では、研究を先に進めることが出来ないので、副作用の解決が喫急の課題になるとして意見がまとまった。
そしてその時、俺はこうなってしまった事に対して酷く落ち込んでいた。
「今回の実験で、マウスの末期癌がCT画像によって完治が確認された時には歓喜した。
しかしその後に判明した副作用により、脳の障害が発見されてしまった時には、逆にガックリと肩を落とすことになってしまった。
このまま副作用の解決策が見つけられなければ、癌の完治は糠喜びに終わってしまう。
そんな事にされてたまるもんか」
しかし現実問題として、その副作用の解決には、誰が考えても長引きそうな雰囲気が漂っていた。

それから3週間が経ち、俺は夏休みを東京の自宅で過ごしていた。
その休みも明日で終わるとなった日に、妻真知子から気になる言葉を聞いたのであった。
「最近、喉の調子が悪くて、喋るときに違和感があるし、ものを呑み込む時にも痛みを感じるの。
最初は夏風邪をひいたのかと思っていたんだけれども熱は無いし、もうこういう状態が2週間も続いているのよ」
その言葉を聞いて、俺は嫌な予感がした。
「真知子も肺腺癌の手術をしてから、もう1年が過ぎている。
その手術を受ける前に医者からは、こう言われていた。
『幸い、初期の段階で見つかったので、手術して患部を摘出してしまえば大丈夫ですから』
とお墨付きは貰っていた。
しかし病気に絶対は無い。
真知子にも癌の転移が起こり得るという事を、考えておかなくては」
と、神妙な面持ちをしていた。
すると真知子は、その俺の様子を察したのか
「大丈夫よ、きっと夏風邪だわ。
そのうちに治るわよ。
こんどの火曜日が通院の日だから、その時に先生に診てもらうから。
それに貴方は、これから先も大事な研究が控えているのですから、そちらに集中して下さい。
もしか何かあったら、直ぐに連絡をしますから」
と言ってきた。
しかし俺には、真知子が不安な気持ちを隠して、気丈に振る舞っているようにも見えていた。
翌日、俺は後ろ髪を引かれる思いで、つくば市にある研究所へと戻って行ったのだが、その足取りは重かった。

それから二日後、俺は研究所での勤務を終え、ワンルームの賃貸マンションで寛いでいる時であった。
妻からスマホに着信があった。
俺は当然、真知子が今日、病院へ行く日であることは覚えていた。
良い知らせであるようにと、祈る思いでその画面にタッチした。
すると、いきなり妻の啜り泣く声が聞こえてきたのである。
そして数秒の沈黙のあと、真知子が掠れた声で喋りだした。
「今日、病院に行ってきました。
そして最近の体調のことを先生に話してみました。
すると先生が驚いた表情をして、私の喉を触りながら、こう言ったの。
『ウーン、もしかしたらだけど、ウーン、今日のところは血液検査をしておきましょう。
そして来週になったらCT検査をしましょう、予約を取っておきますので』
ですって。
ねえわたし、大丈夫かしら」
その声も、最後の頃には嗚咽を含んでいて、言葉にはなっていなかった。
しかし俺は
「大丈夫だよ、心配いらないよ」
と繰り返し言うだけで、それ以外の慰めの言葉は見つからなかった。
そして来週の通院の日には、俺も一緒に行くからと約束をして電話を切った。
しかし俺は、その後の真知子の様子が気になっていたので、娘たち二人にメールで
「お母さんのことを頼むぞ」
と連絡をしておいた。
それから週末の土曜日になり、つくばから電車を乗り継ぎ、京浜急行線の最寄り駅に到着した。
そして俺は真知子の大好物であるドーナツを、商店街の中にあるお店で購入し、正午前には自宅へと戻ってきた。
そして玄関を開け、
「ただいま」
と言いながら入って行くと、娘たち二人が出迎えてくれた。
その後、リビングへと向かってみると、真知子が虚ろな目をしてテレビを見ていたのだが、その姿は心ここに在らずといった状態にもみえた。
そして暫くしてからの事であった。
俺のことに気づいた真知子が
「あら貴方、お帰りなさい」
と声を発したのだが、その声は先週と比べると一層掠れてきていた。
そして俺がテーブルの上に、買ってきたドーナツを置くと、真知子はニコリと笑い
「有り難う、これなら千切って食べられるわ」
と喜んでみせた。
するとその横にいた長女の梓が
「ここ2、3日お母さんは喉が痛くて、まともにご飯が食べられないの。
ちょうど良かったわ、冷蔵庫から牛乳を持って来るから、ちょっと待っててね」
と言いながらキッチンへと向かった。
そして4つのグラスと紙パックに入った牛乳とを持ってきて、それぞれのグラスに注ぎ始めたのである。
その時俺は、正面に向かい合って座っている真知子の顔を見て驚いた。
ここ一週間のうちに、真知子の顔がすっかりとやつれてしまい、頬がこけてしまっていたのだ。
その姿を見ながら俺は考えてた。
「これはまずい事になって来たぞ。
最悪の場合、癌の転移が起きてしまっている可能性もあるな。
来週の火曜日に予定されている診察と血液検査の結果にも、心の準備が必要かもな」
それともう一つ、その時、俺の脳裏に浮かんで来ていたのが、不思議なマリモと孔雀の羽から抽出して作られた混合液の事であった。
それは、真知子の病状がとんでもない事態に陥っていた時の事も、考えておかなくてはならないと思ったからであった。
しかし研究途中でもあるあの混合液は、副作用の出現により、その後の研究が頓挫してしまっている。
憎き癌細胞は、完全に叩きのめすことが出来たのに、厄介な脳障害という副作用が起きてしまっているのだ。
早くその副作用を解決しなくては、前に進むことも出来ない。
しかしその道のりは、困難を極めることが予想されている。
俺はすっかりとジレンマに陥っていた。
そこで俺は正面に座り、ドーナツを千切りながら食べている真知子に、今現在の症状を聞いてみた。
すると喉の痛み以外には熱も無いし、体もだるくは無いという話であった。
そして俺がいま、真知子にしてあげられる事と言えば、不安な気持ちを和らげてあげる事ぐらいしか無いのだと思い、娘たちと他愛もない話をしたりして、よく喋り、そしてよく笑ったのであった。
すると真知子にも時折、笑顔が見られるようにもなって来た。
そして次女の祥子が、こんな話をしてきた。
「お母さんが元気になったら、私が運転してあげるからドライブにでも行こうよ」
すると他の3人からは、悲痛な声が飛び出した。
「ヒエーッ、それだけは勘弁して。
貴女はまだ免許証を取ったばかりじゃないの」
と大笑いとなった。
しかしその言葉にも祥子はめげなかった。
「そんなこと無いわよ。
私は生まれつき運動神経もいいし、ペーパードライバーのお姉ちゃんとは一緒にしないでよ。
頭では負けるけどね。
それに初心者マークもちゃんと付けるし、助手席にはナビもしてくれる、優秀なお父さんも乗せてあげるから」
するとまた全員で大爆笑になった。
そんな感じで、一家団欒を思わせる1日が過ぎていった。


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