第71話しかし脳幹は無事だった

文字数 2,319文字

しかし不安と思う部分も残されていた。
それはこれから先、時間の経過と共に真知子は、元の日常生活を取り戻していけるのだろうか?という点であった。
そこでそのことを、三澤さんに質問してみたのである。
すると三澤さんは、その画像をマウスでスクロールさせて行き、脳幹の部分を写し出しながら説明してくれた。
「幸いにも、ここに写っている脳幹の部分には異常が見られません。
この脳幹には人間が生きていくに於いて、最も重要な心拍、呼吸、血圧などの基礎的反射中枢を担う機能が備わっています。
そこが無事だったという事は、本当に幸いでした。
しかし脳の中でも、特にブドウ糖を大量に消費する大脳と小脳に、影響が集中してしまったのだと思われます。
そしてその大脳や小脳が司っている、記憶能力や運動能力がすべてリセットされてしまったのでしょう。
しかしこのMRI画像を見てみますと、毛細血管は一時的にすべて失われてしまったのですが、その元となる血管細胞茎が新たに出芽してきている事が確認できました。
その細胞茎が、これから時間を掛けて成長そして増殖してゆき、それに伴い失われてしまった記憶能力や運動能力も、徐々に経験と共に新たに備わっていく事になるでしょう」
その言葉を聞いて、辰男と娘たちは安堵の表情を浮かべた。
そしてその後も、三澤さんの話は続いた。
「今回、小林さんの治療に使用した混合液は、まだ厚生労働省からの認可を受けていません。
ですので、まだ薬品とは呼べないのです。
しかし動物実験をして分かった事なのですが、特に癌に対しての効果が抜群なのです。
ところがその反面、副作用として脳障害が起きてしまうというリスクも分かってはいました。
しかし今回は小林さんの方から、奥さまが末期の癌に冒されていて、もう現代医学では治療法が無いのだという相談を受けました。
そこで小林さんと話し合ってみたところ、副作用のリスクを承知した上で、今回の不思議なマリモと孔雀の羽から抽出した混合液を治療に使用した次第であります。
そしてその混合液も未承認の液体ですし、治療を行った場所も病院ではなく小林さんの自宅でしたので、完全に自己治療という形をとらせていただきました。
しかしその副作用によって起きてしまった、脳障害でもある真知子さんの記憶の消失が、考え方にもよるのですが、刑法の傷害罪に問われてしまう可能性が有るのです。
そこでお願いです。
これから私たちももっと研究を進めてゆき、副作用の無い、癌の特効薬を開発してみせます。
まだ道半ばでは有りますが、必ず皆さまの御期待に応えます。
そこで是非とも今回の副作用の件につきましては、ここだけの機密事項にしておいて下さい。
どうぞ宜しくお願い致します」
するとその診察室にいた院長先生、そして看護師さんも含めた全員が頷いていた。
その後、三澤さんから
「何か質問はございますか?」
と言葉を投げ掛けられた。
すると梓が手を上げて、こう質問をした。
「今はお粥や素麺など、消化に良いものを母に食べさせているのですが、これから先は、どのようにしていけば良いのでしょうか?
それと歩けるようになるまでには、どのくらい掛かりますか?」
すると三澤さんは優しい口調で説明してくれた。
「真知子さんの場合、内臓や骨格は今まで通りなので、明日あたりからでも普通食に切り替えても大丈夫ですよ。
しかし箸やスプーン等の使い方は忘れてしまっているはずですから、暫くの間は介助が必要になってきます。
それでも一週間ほどで覚えるでしょう。
それと行動面ですが、最初はハイハイの仕方から覚えさせ、次に伝え歩き、そして自力歩行へと移行していくのが良いと思います。
しかしお母さんの場合は赤ちゃんと違って、充分に筋力が発達していますので、3、4日で歩けるようになると思いますよ。
あくまでも学習能力の問題ですから、いちど体の使い方を覚えてしまえば、直ぐに習得できますから」
それを聞いた辰男がこう言った。
「だけど、そういった基本的な事から教えていかないと駄目なんですね?」
するとその言葉に、横にいた梓が噛みついた。
「お父さん、そんな言い方しないでよ、面倒くさがらないでよね。
たとえ普通の生活に戻るまでに、長く掛かってもいいじゃない。
皆んなでお母さんのことを育てていこうよ。
私はお母さんの命が助かったことだけでも、充分に嬉しいんだから」
そして祥子も追随した。
「そうよ、私も出来る限りお母さんの面倒を見るから。
これからの生活が楽しみなんだ。
まるで私に、歳の離れた妹が出来たみたい、ウフフ」
すると周りにいた人たちにも笑みがこぼれた。
そして最後に、三澤さんからの励ましの言葉があった。
「今回の治療に於いて、真知子さんの癌は完治致しました。
しかしこれからの生活を考えてみますと、御家族に掛かってくる負担も大きくなってくる事でしょう。
この先、言葉の問題も含めて、知能が大人のレベルに達し普通の生活に戻れるまでには、恐らく4、5年は掛かってくるものと思われます。
これから先も、私に出来ることが有るのであれば相談していただき、お力添えをしていきたいと思っております。
どうぞ、お気軽に声を掛けてみて下さい。
それでは私、このあと丸の内の本社で会議が有りますので、ここで失礼させていただきます」
その有り難いお言葉に、辰男と娘たちは立ち上がり、お礼を言いながら深々と頭を下げたのであった。
そして病院の玄関まで見送りに行き、それぞれが三澤さんと握手を交わしてから別れ、その後、真知子の車椅子を押して2階にある個室へと戻っていった。
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