第1話          姉ちゃん死なないでくれ

文字数 1,777文字

俺は小林辰男52歳、大手製薬会社に勤めるサラリーマン。
その日、今までの人生の中でも最悪の日が来てしまった。
そこは都内大学病院内にある医療相談支援センター。
姉の4度めの診察日だった。
その日は診察後に医師からの病状説明が有るとのことで、家族に呼び出しが掛かっていた。
「高橋さーん、どうぞお入り下さい」
看護師さんの抑え気味の澄んだ声が、夕暮れの廊下に響いた。
窓際に設置してある長椅子に母と姉を残し、私と父それと姉の長女、長男の4人で部屋へと入っていった。
そこには私と同年代ほどの医師がおり、私たちに対して背もたれの無い丸椅子に座るようにと促した。
そしてその医師は机に向かいさっそく、パソコンのモニターに取り入れられたCT画像を指さした。
「ここが膵臓の上部でありまして、これから下部に向けて断層写真を移動させていきます」と言いながらマウスを使いスクロールさせていった。
「ここに血管を取り囲むような形で白く写っている腫瘍が見られます。前回の血液検査の結果と合わせて鑑みてみますと、悪性の可能性が高いでしょう。今の状態ですと血管を傷つけてしまう確率が高いですので手術は出来ません。暫くは抗癌剤を使用して様子を見ていきたいと思います」
ガーン
ある程度の予想はしていたのだが、その中でも最悪の事態になってしまった。
医師からの説明がひと通り終わり4人で部屋を出てドアノブを閉める時、止めどなく涙が溢れてきた。
暫くの間、俺は顔を上げることが出来なかった。
俺は大学を卒業してから既に30年が経ち、総務部ではあるが大手製薬会社に勤めている。
それなりに医学の知識は得ているつもりだ。
姉の症状と医師の説明とから総合的に判断しても、そうは長くない命であろうという事は想像できた。

姉は小さい頃から母に似て、近所でも評判になるほど美人だった。
それに引き換え俺は親父に似て、残念なことに強面に生まれてきた。
しかも小心者なのである。
人との比較は出来ないのだが、少なくとも平均点以下であろうという事は自負している。
今でも虫は嫌いだし、高い所も暗い所も駄目だ。
お酒はいける口だが甘いものも大好き。
小さい頃は乗り物酔いも酷く、引っ込み思案であり、いつも2つ上の姉の背中に隠れている事が多かった。
姉は離婚をしており25歳になる長女と、22歳になる長男がいて、もう2人とも社会人となった。
これからやっと自由な時間が持てるようになった事から、大好きな町のパン屋さんでパートをしたいとも話していた。
そんな矢先での病気発覚であった。
「姉ちゃん、俺の残された寿命の半分でも分けてあげたいよう。もっと長く生き続けて欲しいよう」
しかし、その願いは虚しくも届かず、それからふた月も待たずして姉は逝ってしまった。
それからひと月が経った今でも、俺には空虚感だけが残っていた。
どうも仕事に集中することが出来ずに姉のことを思い出してしまう。
何故、姉の命を救うことが出来なかったのか?
癌が憎い。
俺は兼がね思っている事なのだが、予防接種のようにして癌を未然に防ぐことは出来ないのであろうか?
ノーベル賞級の頭脳の持ち主たちが研究に研究を重ねても、未だに特効薬は開発されていない。
やはり癌という奴は相当に手強い病気だ。
しかし俺は姉の無念さを晴らしたい。
そしてあらゆる癌に苦しむ人たちを助けたい。
俺は定年を迎えるまでの残された7年間、未経験ではあるのだが、癌の新薬開発に携わることが出来ないものかと考える時間が多くなっていた。
人生は一度きりなのだから俺はあとで後悔するような生き方はしたくない。
姉の命を奪った癌が本当に憎い。
癌の新薬開発に少しでもいいから携わりたい。
ところが俺には専門知識が無い。
それと、果たして家族の賛同は得られるのであろうか?
それにうちの会社では、一般職から研究職への異動は前例が無いとも聞いている。
どう考えても無理な話だ。
それらの事が頭の中でグルグル、グルグルと何百回も渦を巻いていた。
そうこうしているうちに、一ヶ月が過ぎてしまった。
そして今日も朝から研究所に行きたい、無理だ、行きたい、無理だ、行きたいとばかり考えていた。
そこで俺は、もうこれは駄目元でいいから上司に気持ちを打ち明けてみようと決心をした。
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