第4話いよいよ研究生活の始まりだ

文字数 2,465文字

「おはよう」
「おはようございます」
元気な挨拶が飛び交う寮にある食堂の入り口。
順番に並んでトレイを手に取り、自分でご飯と味噌汁をよそった。
そして焼き鮭と納豆と大好きな玉子焼きも、トレイの上に載せて席についた。
しかし周りを見回すと皆、まだ眠たそうな目を擦りながら黙々と朝食をとっていた。
俺は大自然の中の空気が旨いせいか食が進んでしまい、ついついお代わりまでしてしまった。
会社の始業時間は8時からではあったのだが、今日は初日という事もあり隣にある研究所に、張り切って7時半に出社してみた。
しかしまだ総務課の部屋の鍵は開いていなかったので、守衛室で鍵を借りてから入っていった。
そこは俺を入れても4人だけの職員の部屋としては、充分に余裕のある広さであった。
2つどうしの机が向き合い、4つの机で長方形を形造っていた。
俺の机の上には早くもパソコンと、肩書きを記した名前札とが置かれており、そこには総務課長補佐、小林辰男と書かれてあった。
俺は不意に、窓越しに見える雄大な八ヶ岳の姿に見いってしまった。
すると今から20年ほど前に、会社の仲間たちと登った時のことを思い出した。
「あの時は美濃戸口から最高峰の赤岳まで、随分と長い距離を歩いて行ったなあ。それに登山ブームであった事もあり、北アルプスの山々や南アルプスにも何度も足を運んだっけ。それと富士山にも登ったよなあ。いま思うと懐かしい思い出だな。だけど最近は仕事が忙しかったり、家族サービスを優先したりして、なかなか行けなかったからな。折角こうして大自然の中にある研究所へと来たのだから、また始めてみるかな」
そう想いを馳せていると若い男女二人と、恰幅のよい紳士が部屋へと入ってきた。
「おはようございます」
と若い男性が最初に声を掛けてきてくれた。
俺も
「おはようございます、小林辰男と申します。これからお世話になりますが、どうぞ宜しくお願い致します」
と挨拶をしたのであった。
するとそれに応えるようにして恰幅のよい紳士と若い女性の二人も、挨拶を交わしてくれた。
その後、それぞれが自己紹介をし終わり和やかなムードの中、この研究所での仕事内容や研究所内の見取り図をホワイトボードに書いてもらい説明を受けた。
その話の中でその総務課長は、なんと俺と同じ52歳であることが分かった。
その他の二人の社員は、背が高く30歳でジャニーズ系の雰囲気を持った男性と、25歳でスラーッとしていて切れ長の目をした女性であった。
若い二人は地元採用であり、自宅から車で通っているとの事だった。
その後、総務課での仕事の手解きを受ける事になった。
総務での仕事は、もう30年にもなる経験が有るので心配は無かったのだが、午後からの研究室勤務での事がずっと気になっていた。
それは書類に書く文字が震えているのを自分でも分かるほどであった。
「これほどの緊張感は、いつ以来であろうか?あ、そうだ思い出した。22年前、婚姻届けにサインをした時以来だ」

午前中の勤務は、あっという間に終了し、昼食を総務課員4人揃って食堂でとる事になった。
俺はこのあと待ち受けている研究室での勤務の緊張感もあり、うどんを啜るのが精一杯であった。
食事後俺は、ロッカー室へ歩いて行き、白衣に着替えてから研究室へと向かった。
そしてキンコンカンコンと始業のベルが鳴るのと同時に、ノックをしてからその部屋へと入っていった。
すると入った瞬間、ムッとする薬品の匂いが喉の奥まで届き、思わず咳き込みそうになってしまった。
「これはきついなあ」
その匂いに、この先堪えていけるのだろうかと早くも不安になってしまった。
そこの研究室には8名の研究員がおり、上司から与えられた課題に対して、それぞれが生薬、鉱物などの成分を分析、分離、合成させて、その結果を報告書にまとめているという。
研究室長に号令を掛けてもらい、皆の前で自己紹介をさせてもらう事となった。
「初めまして、東京の本社から異動して参りました小林辰男と申します。この度、自分勝手な希望を会社に認めて頂き、こちらの研究所へと移って参りました。元々、文系の勉強と仕事しかしてこなかった私でもあり、こちらの職場が場違いであるという事は重々承知しております。皆さま方には、この素人同然でもある私が御迷惑をお掛けする事が有るかも知れません。しかし、これから精一杯勉強して行きたいと思いますので、是非とも温かい目で見守って頂きたいと思っております。どうぞ宜しくお願い致します」
すると全員が温かい拍手で迎え入れてくれた。
その後、それぞれが自分の研究机に戻り作業を始める事になった。
そして俺の作業場は皆とは違い、3m×8mほどある大きな作業台の角際に決まった。
椅子は背もたれの無い丸椅子である。
そして誰が用意してくれたのかは分からないが、化学式一覧表や漢方薬入門編なる書物が俺の作業台の上に置かれていた。
そこで俺は早速、その化学式一覧表を開いてみた。
しかし俺にしてみると苦手な記号が羅列されており、咄嗟に脳の苦手センサーが働き、直ぐに閉じてしまった。
「やはり文系の俺には薬品の研究職は向いていないのであろうか?しかし本社の上司にはこう言われてたな。他の研究員たちとは全く別の発想でやってくれと。今さら、基礎も出来ていない君に研究員としての成果は求めていない。しかしその素人の君だからこそ、ベテランの研究員たちが思いもつかないような感覚を現場に持ち込んで欲しい。そしてその研究員の凝り固まってしまっている脳ミソに、風穴を開けてくれと。ようし、心機一転頑張るぞ」
と意気込みも新たに始めてみようと思い、目の前にフラスコ、ビーカー、試験管と用意してみたのだが何の発想も出てきやしなかった。
そして暫くの間、俺は途方に暮れていたのだが、それではいけないと思い
「よし、それでは気分転換として医薬専門書庫にでも行ってみるか」と行動に移してみた。

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