第5話

文字数 1,845文字

その部屋は10畳ほどの広さがあり、社員であれば誰でもが自由に利用出来るようになっている。
長時間利用しても疲れないようにと大きなソファーと、それに平行して天然木で作られた長い机も低めに設計され、中央に設置してあった。
しかも我が社で作られている数種類の漢方薬入りのお茶も自由に飲めるようにと、電気ポットと紙コップも用意されていた。
「何かいいヒントとなるような物が載っていないかな?リラックスしながら考えるとするか」
俺は紙コップに杜仲茶を注ぎ、それを右手で持ちながら書棚に目をやり歩いて行った。
そこにはバイオ技術入門編、抗生物質を理解しよう、キノコの効能、細菌とウイルスの違いが分かる本など、色々とあったのだが、そこで俺の目に留まったのは南方熊楠の生涯という名の本であった。
南方熊楠という名前くらいは知っていたのだが、詳しい事は今まで知らなかった。
早速、その本を取り出しソファーに腰掛けて読むことにした。
先ずは巻末に書いてある年表から見てみた。
するとそこには今の地名でいう和歌山県の田辺市で慶応3年に生まれたとあった。
「その翌年が明治元年である事からして、幕末の大変な時期に生まれてきたんだ。
え、なになに、19歳から33歳までを単身でアメリカやイギリス等に渡り、何と18カ国語の言葉を操ったと書いてある。
フーン凄い。
そして海外で生物学、民俗学、天文学、菌類学、考古学、宗教学などを学んだとある。
本当に好奇心が旺盛でバイタリティーのある人だったんだな。
植物採集が好きであり、昆虫も好きだったと書いてある。
特にキノコ、苔、藻、シダ類が大好きで、その中でも粘菌の魅力に惹かれていたのか。
長い間、熊野の森に留まり、自然保護を訴え、原生林の深い森を愛したとある。
本当に何から何までスケールの大きな人だったんだな。
熊楠さんも熊野の森で、人類の為になる何かを探し求めていたのかも知れないな。
現代医学に於いても自然界に存在する植物や菌類、カビ等を利用して漢方薬や新種の薬を開発しているみたいだし。
まだまだ日本の森の中にも、未だに発見されていない多くの有効物質が眠っているのかもな?
多くの人たちの命を救った抗生物質であるペニシリンも青カビから作り出されたみたいだし、やはり俺の想像している以上に自然の力は偉大なんだな。
世の中に存在している物質は全て何かしらの役にたっていて、無駄になる物は何一つとして無いのかもな。
そして人間も同じように、それぞれが生きている価値を見いだす為に、生まれて来たのかも知れないな。
あれ、もう1時間も経っちゃったのか?
まだ巻末の年表しか見てないや。
また今度にしよう、職場に戻るとするか」
そう自分に言い聞かせ、辰男は作業台へと戻っていった。
そして「ようし頑張るぞ」
と思ってはみたもののフラスコ、ビーカー、試験管を目の前にしても所詮素人の辰男には、何の実験をすれば良いのかも思いつかないのである。
周りを見回すと皆、一心不乱に何十本という試験管の中に多くの種類の薬品や、生薬または鉱物などを混ぜ合わせてデータをとっている。
研究員たちに聞いてみると、複数の物質同士の組み合わせから何千、何万通りという実験を繰り返し、やっと一つだけが製品化されるそうである。
人間にとって有用な物質を造り出す為に研究員たちが、地道で長い努力をどれだけ続けているのか。
本当に頭が下がる思いである。
そして一つの薬品や製品を完成させるのには5年から10年も掛かるのがザラだとも話していた。
また別の面で俺の知る限りでは、世界中の薬品メーカーや研究者たちは莫大な利益を生み出す、癌に効果のある新薬を血眼になり研究開発しているのである。
それはうちの会社も例外では無く、つくば市にある第一研究所では癌の特定遺伝子に効果のある分子標的薬を生産している。
しかし残念ながらその分子標的薬も、高額な薬価で話題となったオプジーボ等の免疫チェックポイント阻害剤も、今のところ全ての癌を完治させるといったレベルには、まだ達していないというのが現状である。
俺が定年を迎えるまでに残された年月は、もうそんなに長くはない。
なにか他の研究者たちが思いもつかないような、意外性のある薬品を作り出すことが出来ないものか。

それから月日がたち、自分なりに専門書を読んでみたり、医学系のシンポジウムにも参加したりはしてみたものの、そのヒントとなるような物は見つけられないでいた。
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