第76話もう辞表を書くしかないか

文字数 1,614文字

そしてその場を和ませようとして、買ってきたお弁当をテーブルの上に置いてから、こう言ったのである。
「お母さん、お稲荷さんと海苔巻きが好きだったよね。
今回の治療の前に、またお稲荷さんを一緒に食べようねって話したこと覚えているかな?」
すると一瞬にして、その場の空気が変わり
「お、久し振りだなあ、助六寿司か」
と辰男が言い、
そして
「本当に久し振りねえ、よくお母さんが私たちの運動会の時に作ってくれてたわ。
美味しかったなあ、思い出しちゃった」
と梓も当時のことを振り返っていた。
そして
「いただきまあす」
と4人で食べ始めることにした。
「これって確か、手掴みで食べていたよねえ」
と言いながら祥子が、稲荷寿司を手に取り、口にしてみた。
するとそれを、正面で見ていた真知子もその真似をして、稲荷寿司を手に取り、一気にパクついたのであった。
次の瞬間、その味がよほど気に入ったのであろうか、満面の笑みを浮かべたのである。
するとその笑顔を見て梓が言った。
「やっぱり、好みというのは変わってないのかもね。
もしかするとDNAが関係していて、一生変わらないのかな?
そう考えると、お母さんの男性の好みも変わらないという事になるのかもよ。
良かったねお父さん、またお母さんに愛してもらえるよ」
そう言われた辰男は、頭を掻きながら照れ笑いを浮かべていたのだが、満更でもない様子であった。
そしてその後も4人で助六寿司を美味しく頂き、食べ終わってからノンビリとした時間を過ごしていた時のことであった。
辰男のスマホに着信の音が響いた。
その発信元を見てみると、雨宮元リーダーからであった。
辰男はスマホを握り締めながら別室へと向かい、そして雨宮元リーダーからの話を聞いてみた。
するとその内容とは、こうであった。
今日の午前中から我が社の丸の内にある本社の方に、マスコミからひっきりなしに、今回の件についての問い合わせが届いているのだという。
その数は日常の業務にも支障が出るほどになっている。
その為にマスコミからの窓口でもある広報課が、善後策を検討し始めたという内容であった。
その後、電話を切ってから辰男は、自分の身の振り方について考えてみた。
「マスコミにも知られてしまい、ここまで話が大きくなってしまっては、もう逃げ通すことは無理だな。
これ以上は会社にも迷惑を掛けたくはない。
早く辞表を提出して、俺個人の責任問題にしてしまった方が良さそうだな。
うん、そうしよう」
と辰男は腹を括ったのであった。
そして3人のいるリビングへと戻り梓に、こう話した。
「梓、悪いけれど近くのコンビニに行って、便箋と封筒を買って来てくれないか?」
すると梓はその言葉に驚き、こう返してきた。
「なに言ってるのよお父さん、まさか会社に辞表を書こうとでも思っているの?
ふざけないでよね。
そんなに私たち、悪いことをしたの?
あの薬のお陰でお母さんの命が助かったのよ。
あの薬を使わなかったら、今ごろお母さんは死んでいたのよ。
誰に迷惑を掛けたって言うのよ。
そんな物、出す必要なんて無いじゃない。
もう信じられない」
と凄い勢いで捲し立ててきた。
それを聴き終わってから辰男は、落ち着いた表情で諭すようにして梓に話し掛けたのであった。
「梓、お前の言っていることは確かに正論だ。
しかしな、世の中にはそんな正論が通じない不条理や理不尽なことが、たくさん蔓延っているんだよ。
お前もな、社会人となって世間の荒波に揉まれるようになれば、それが痛いほど分かる日が何れやって来るから。
まあ俺は、今の会社を辞めても、お前たちの3人ぐらいは食わしていけるから。
必死になって働けば大丈夫だから安心しろ。
俺はな、お前たちと一緒で、母さんの命が助かったという事だけでも、本当に感謝しているんだから」
その言葉を聞いた姉妹は、何も言い返せなかった。

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