第54話いちるの望みも絶たれてしまった

文字数 2,235文字

そして夕方になり、梓と祥子も帰宅して夕食の準備に取り掛かった。
姉妹は真知子の為にと重湯を作り、ニンジン、ほうれん草、ブロッコリーをトロトロになるまで煮込んで作ったコンソメスープも用意してくれた。
「いただきます」
真知子も一所懸命になり食べようとはしていたのだが、呑み込むこと自体が辛そうで、いくらも食べることは出来なかった。
しかしこれが真知子という人格を持った中で、家族4人揃っての最後の食卓となってしまったのである。
そして翌日の早朝、俺は梓を起こして2人で祥子の部屋へと入っていった。
そこで3人での話し合いの時間を持つことにした。
俺は梓の目を見つめてこう言った。
「お母さんの病状からして、このままだとそう長くは無いのかも知れない。
俺は今日からつくばの研究所に戻り、奇跡を起こす新薬を一日でも早く完成出来るように頑張るから。
悪いけどお母さんのことを頼むな。
大学まで休学させてしまい、本当に申し訳なく思っている、済まない。
来週から始まる検査や治療もお母さんにとっては、とても辛いことが続くのだと思う。
しかし今は、先生たちに全てをお任せするしか無いんだ。
お母さんの事をしっかりとサポートしてやってくれ」
「それから祥子、お前にも本当に迷惑を掛けるな。
出来る範囲で構わないので、お母さんの面倒と梓のバックアップとを頼んだぞ」
すると娘たちは涙を流しながらこう言った。
「分かったよ、私たちも頑張るからお父さんも研究の方、頑張ってよね。
だけど無理はしないでよ。
これでお父さんも倒れちゃったら、もう全てがおしまいだよ」
その言葉に俺は
「有り難う、分かってるよ。
とにかく皆んなでお母さんの命を救おう。
今はそれだけだ」
と言って娘たちと固く握手をして、誓い合ったのであった。
その後、寝室へと戻り、中を覗いてみると真知子はまだ眠っていた。
そして俺は、玄関先で梓と祥子に
「あとは頼んだぞ」
と声を掛け、つくばにある研究所へと戻って行ったのである。
その日は午後から出社して、早速プロジェクトリーダーである雨宮君の元を訪ねて行き、先日行った動物実験での副作用に関しての研究の進捗状況を聞いてみたのであった。
すると意外な回答が返ってきた。
今回の実験に於いて、重篤な記憶障害という副作用が起きてしまった事に関して、研究部長会議が二日前に開催されたのだという。
そこでの実験経過説明後に、このような内容の副作用は前代未聞だという、大変に危惧する声が多く上がってきてしまったのだそうだ。
その為に残念な結果では有るのだが、このプロジェクトは今週いっぱいで解散することが、決まってしまったのだという事であった。
それを聞いた俺は唖然として、声も出てこなかった。
「まさか、この研究が打ち切りになってしまうとは」
その時、俺の頭の中では色々な想いが駆け巡っていた。
「もうこれで、おしまいだ。
俺はこの研究に、いちるの望みを持っていた。
これで真知子の命を、助けてあげる事も出来なくなってしまった。
そしてまた、多くの研究仲間たちと今まで一緒に苦労してきた月日も、すべて水の泡となってしまった。
本当に残念でしょうがない」
そしてもう一つ重要なことも、咄嗟に浮かんで来たのであった。
「そうだ、俺はもうこのプロジェクトが無くなってしまう以上、研究所には居られなくなる。
いや居る必要も無い、居る場所も無い。
そしていまさら、総務部での仕事に戻してくれとも言えるはずも無い。
ということは退職願いの提出?」
一気にそこまで考えが飛んでいた。
しかし雨宮リーダーからの話には、まだその続きがあったのである。
それと言うのも人事部からの指示で、俺以外の6名は元の所属部署へと戻ることになったのだが、俺だけは不思議なマリモの発見者でもあり、また長年に渡る会社への貢献度も踏まえ、このまま一人で研究を続けていって欲しいとの事であった。
その雨宮君からの話を聞いて、俺はホッとしたと言うのが正直な感想であった。
そして次第に寂しさと共に、これから先は一人きりになってしまうという不安感とが、入り交じって来ていた。
その後俺は、自分のデスクへと戻り、パソコンを開いて社内メールを確認してみた。
すると数通のメールが届いていたのだが、そのうちの1通の発信元を見て驚いた。
人事部長、遠藤隆とあったのだ。
「あいつが、いつの間にか部長にまで出世していたとは」
遠藤とは同期入社であり、新人時代から良き飲み仲間でもあった。
最近はお互いに忙しくて、なかなか会う機会も減ってきてはいたのだが、とにかく古くからの良き友人が、部長にまで出世していた事には驚かされたのであった。
そして早速、そのメールの内容を見てみた。
すると
「お久し振りです。
社内での風の噂には、貴殿のご活躍ぶりは聞いておりました。
定年を迎えるまでの残された6年間、この先も自分のペースで不思議なマリモに関しての研究を続けていって下さい。
会社側としては、過度な期待はしておりませんので。
定年後に一杯飲みながら、その苦労話を聞かせて下さい。
健闘を祈っております。
人事部長 遠藤隆」
とあった。
俺はその文面を見て、嬉しく思った。
その思いやりの感じられる内容に、思わず目頭が熱くなって来たのだが、逆にその言葉をパワーに変えて、その頃までには新薬を完成させてやるぞとも、心の中で誓ったのであった。
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