第26話また今年も1年が過ぎていった

文字数 961文字

そして数日後、俺はつくばから電車を乗り継いで東京の自宅へと戻ってきた。
「ただいま」
ドアを開け玄関へと入って行くと、妻と二人の娘たちが温かく迎え入れてくれた。
その後、年末は慌ただしい生活をおくり、そして大晦日の夕方の恒例にもなっている、家族全員揃っての年越し蕎麦を食べに行くことになった。
4人して歩いて行き、近くの商店街の中ほどにある馴染みの店へと向かってみたのだが、例年の如く20名以上の行列が出来ていた。
そして待つこと30分ほどしてから店内へと通された。
俺と長女の梓は天ぷら蕎麦を、そして真知子と次女の祥子は掛け蕎麦を注文した。
その後、店内に置いてあるテレビを見ていると程なくして、テーブルの上にそれぞれのお蕎麦が運ばれてきた。
すると待ってましたとばかりに4人は割り箸を手に取り、一斉にその蕎麦を勢いよく啜り始めた。
そして暫くしてからの事であった。
真知子が小さな声でこう呟いた。
「このお蕎麦、美味しいね。
もう今年は食べられないのかと思った」
その予想だにしていなかった真知子の一言に、勢いよく往復させていた俺の箸は一瞬止まってしまった。
その後、涙腺が緩んできてしまい、自然と涙が溢れ出てきた。
そしてそれは蕎麦から立ち上ってくる湯気と相まって、視界が完全に遮られてしまい、その後、蕎麦を啜ることさえも出来なくなっていた。
「やはり真知子にとって癌発覚という事態は、当然のことながら相当にショックであったに違いない。
その時、自分に残された命は、そう長くは無いのかも知れないという事を覚悟していたのかもな?」
そう想いを巡らせていると正面に座る真知子から
「貴方、どうしたの?
お蕎麦が伸びちゃうわよ」
と言う声が聞こえてきた。
俺はその言葉にハッと我に返り、食べ掛けであった天ぷら蕎麦を勢いよく掻き込み、つゆまで飲み干し完食をした。
その後、店を出てから北風が吹き出した商店街の道を、4人で寄り添いながら家路についた。
そして例年通り、紅白歌合戦を見ながら一人ずつが順番に風呂場へと向かい、歌合戦の紅白の勝者を全員で見極めてから、それぞれが自分の部屋へと消えていった。
その後、多摩川の対岸から微かに聞こえてくる川崎大師の除夜の鐘の音を、夢へのプロローグにして、今年もまた一年が過ぎていった。
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