第57話なんとか部長からの許可をもらえた

文字数 2,732文字

日が変わり、辰男は一番電車に乗り、つくば市にある研究所へと戻ってきた。
しかし当然の事ながらプロジェクトチームは解散しており、6名の研究員たちはそれぞれが元の職場へと戻ってしまっていて、そのミーティングルームには辰男がただ一人、ポツンと居るだけであった。
「やはり俺の今の気持ちを打ち明けられるのは、元リーダーの雨宮君しかいないな」
そこで辰男は、昼休みに食堂の入り口で雨宮君を待ち伏せする事にした。
キンコンカンコン
暫くの間、そこで待ち続けていると、その雨宮君が現れた。
そしてその場で軽く挨拶を交わし、食事に同席させてもらう事にした。
しかしその場では、周りの視線も気になり、大事な話は出来ずに雑談に終始したのであった。
その後、日陰になっている花壇の所へと誘い出し、縁に座りながら話を聞いてもらう事にした。
「実を言いますと、私の妻が末期の癌に侵されておりまして、明日をも知れない命なんです。
そこで相談なんですけれども、無理を承知で言わせてもらいます。
研究の途中でもある、不思議なマリモと孔雀の羽との混合液を使わせてもらう事は出来ないでしょうか?」
すると雨宮君は少し考えてから、こう返してきた。
「ああ、そうなんですか。
うーん、小林さんの気持ちは痛いほど良く分かります。
しかしあの混合液は、厚生労働省からの承認を、まだ得ていませんし、尚且つ、あのような前代未聞の副作用も、動物実験では確認されてしまっています。
当然、会社からは、良い返事が来るとは到底思えません。
もしそれを投与後に、会社が関与していたという事態が発覚してしまった場合、会社としての責任が問われてきてしまう事にもなってくるでしょう。
それと同時に会社としての信用も失い、莫大な損失を被ることも避けられなくなってきてしまいます。
しかしこれは、あくまでも私個人の考えです。
今の小林さんの話を、私の所属している応用研究部の部長に話しておきますので、後日直接、話を聞いてみてもらって下さい。
私に出来る事としては、このくらいの事しか有りません。
本当に申し訳ありません」
辰男は、その雨宮君の言葉に恐縮し、こう言葉を返したのであった。
「いやいや、こちらこそ無理な相談を持ち掛けて済みませんでした。
では部長さんからの連絡を待っております。
雨宮君には本当に感謝します」
そして立ち上がってから最後に
「有り難うございました」
と言いながら、握手をして雨宮君とは別れた。

それから二日後の10時を過ぎた頃である。
応用研究部の佐藤部長から内線の電話が入り、今日の午後2時からであれば、時間が取れるとの事であった。
その後、昼食を済ませ、約束の時間に部長の部屋を訪ねて行くことにした。
そこで辰男は、自分の心の思いの全てを、打ち明けてみようと思っていた。
そしてドアをノックし部屋の中へと入って行くと、部長が椅子から立ち上がり、自ら握手を求めてきてくれたのである。
そして驚いたことに、その横にはヒトゲノム、DNA解析グループに所属する三澤さんの姿もあった。
その後、ソファーに座るようにと勧められてから、部長が優しい口調で話し掛けてきてくれた。
「雨宮君からの話は聞いているよ。
奥さんが深刻な病状のようで、それは心配だろう。
それでだなあ、不思議なマリモの件なんだけれども、もう一度あの時の実験データを読み直させてもらったんだ。
するとあの時の感動を、また思い出したよ。
マウスの悪性腫瘍が一日にして、完全に消え去ってしまった事にね。
その時には社内中で話題になっていたし、私も個人的に大変喜んだよ。
しかしその後に判明した、あの副作用がね。
当然、君も分かっている事だとは思うけれど、あの副作用からしてみると、とてもじゃ無いが厚生労働省に提出する治験計画書の段階で、却下されてしまうのは明らかだな」
その部長の話を聞いていて辰男は考えてた。
「やはり思っていた通りの展開になってきたな。
しかし娘たちの心情を思うと、こんな事ぐらいで引き下がってはいられるもんか。
何とかして、あの混合液を使わせてもらうぞ」
と自分を鼓舞して、粘り強く部長に交渉してみることにした。
「どうかお願いします。
副作用が起こってしまった場合の責任は、すべて私が背負います。
とにかく妻を、末期の癌から救い出してあげたいのです。
そこで部長、無理を承知の上でお聞きするのですが、どうにかしてあの混合液を、使用する方法は無いのでしょうか?」
すると部長は困った顔をしながら暫くの間、考え込んでいた。
そして微笑みながら、このような提案をしてきたのであった。
「実はなあ小林君、あの不思議なマリモと孔雀の羽から抽出した混合液は、まだ研究の途中という事もあり、我が研究所からしてみると今の段階としては薬品とは呼べずに、ただの液体という分類になるんだよ。
しかしだ、あの記憶障害という重篤な副作用が確認されてしまった以上、それは考え方にもよるのだが、毒物や劇物と同等に捉えられても仕方がないとも思うんだ。
だから会社としては、あの混合液の使用を正式に認める訳にはいかない。
だけどな、俺も血の通った人の子だ。
一刻を争う事態である君の立場は理解できるし、また人道的にも放ってはおけやしない。
そこで私の個人的な提案なのだが、リスクを承知した上で極秘のうちに進めてくれるので有れば、私は黙認しよう。
そして、不思議なマリモと孔雀の羽から抽出した混合液も、君個人の判断という事で持ち出してくれ。
それから奥様に、その混合液を注入する注射器も自前で用意してくれ。
しかしだなあ、あとは場所の問題だな。
いま入院している病院では当然行うことは出来ないので、自宅を使用してもらう事になるのだが大丈夫かな?」
「はい、大丈夫です」
「あ、そうか、それならそれが一番いい。
その方が他の人にもバレないで済むからな。
そして、もしも奥さんの体調が急変した時のことに備え念のために、口の堅い、知り合いの看護師を紹介してあげよう。
まあ、こんなところかな」
辰男は思ってもみなかった展開となり、嬉しさの余り、涙が止まらなくなっていた。
そして何度も何度もお辞儀をして
「本当にご迷惑をお掛けして申し訳ありません」と謝っていた。
すると部長は
「ごめん、悪いけど俺はこのあと会議が待ってるんだ。
これからの詰めの話は、私の秘蔵っ子でもある三澤君と、前回の実験データを参考にして進めていってくれ、じゃあな」
と言って部屋を出て行ったのであった。
その後ろ姿を辰男は、深々とお辞儀をしたままの状態で暫くの間、見送っていた。

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