第61話ついにその時がやって来た

文字数 3,043文字

その後、三澤さんから
「それでは時間も有りませんので、早速始めましょうか?」
との提案があったのだが、そこで辰男は考えてみた。
「これから行う治療によって、その副作用でもある脳の記憶障害が起きてしまった場合、真知子が長年に渡り、持ち続けてきた記憶や感情や振る舞いとは、永遠の別れとなってしまう事だろう。
そこで娘たちとは是非とも、最後の思い出の場面を作ってあげたいな」とも思った。
そこで5分間だけでいいので、家族水入らずでの時間を持たせて欲しいと頼み込んでみたのである。
すると他の4人は、リビングの方へと席を外してくれることになった。
そして真知子が横たわっている布団を、取り囲むようにして父娘3人は、真知子の顔を上から覗き込んでみたのであるが、その距離が余りにも近づき過ぎたために、お互いの息遣いまでもが感じ取れるほどであった。
そして梓が真知子の耳元に向かって話しだした。
「お母さん、聞こえてる?
これからね、お父さんの会社の人たちが治療をしてくれるからね。
もう大丈夫だよ、安心してね。
これで元気になれるよ」
すると真知子は、うつらうつらとした状態では有ったのだが一瞬、頷いたかのように3人には見えた。
続けて今度は、祥子が話し掛けてみた。
「お母さん、新しい薬が間に合って良かったね。
これでもう、痛さからも解放されるよ。
元気になったら、また一緒にお出掛けしようね」
次いで、辰男も話し掛けた。
「真知子、もうすぐ治療が始まるからな。
俺が探し求めて、やっと見つけ出すことの出来た不思議なマリモだよ。
お前にも話したことがあったよな。
これでお前の命を救うことが出来て、俺も本当に嬉しいよ。
これからも宜しくな」
と言いながら真知子の右手を強く握ったのであった。
しかし3人には、まだどこか、心の中にモヤモヤするものが残っていた。
それは真知子に対して、お別れの挨拶を交わした方が良いのかという事であった。
そこで梓が小さな声で辰男に聞いてきた。
「お母さんにサヨナラをした方がいいの?」
するとその横にいた祥子も
「そうそう」
と続いた。
その質問に辰男は驚いた。
「やはり娘たちも、俺と同じことを考えていたんだ」
しかしジメジメとした別れ方は嫌だと思った。
そこで娘たちに、こんな提案をしてみたのである。
「お母さんは、そんな淋しい言葉は、聞きたくは無いと思うよ。
たとえお母さんが別人格になってしまったとしても、お母さんはお母さんだ。
とにかく今は、お母さんの命が助かって元気で長生きしてくれれば、それだけでいいじゃないか。
ここは、有り難うの言葉で見送ってあげよう」
すると娘たちも大きく頷いていた。
そして3人が、それぞれの感謝の気持ちを込めながら、その言葉を連呼したのであった。
「お母さん、ありがとう」
「ありがとう」
「真知子、ありがとう」
「ありがとう」
「お母さん、ありがとうね」
「ありがとう」
「お母さん、本当にありがとう」
と徐々にその声は大きくなってゆき、その魂の込もった感謝の言葉は、眠りについていた真知子の目を一瞬だけ覚めさせた。
そしてその真知子の微睡むような目は、覗き込む3人の顔を順に追ってゆき、終いには微笑みながら、また眠りについていった。
その時の真知子の瞳を目に焼き付けて、3人は各々で別れの言葉を心の中で告げていた。
その後3人してリビングへと向かい、7名揃っての打ち合わせを行うことになった。
そして最初に三澤さんから、今日のスケジュールについて説明があった。
「ただいまの時刻は10時20分であります。
本日は時間も限られておりますので、このあと直ぐに麻酔注射を打ちます。
そしてその麻酔の効き具合を確認してから、不思議なマリモと孔雀の羽との混合液を、11時頃から注入して行きたいと思っております。
その間の約30分の間に、緊急時に備えての準備をする事とします。
そして注入終了後2時間は、容態の変化を見守ります。
その後、容態の安定を見極めた上で、病院への搬送を行うことと致します。
それでは皆さん、どうぞ宜しくお願い致します」
その掛け声と共に7名全員で、真知子の居る和室の方へと移動していった。
そして早速、看護師さんに麻酔注射の準備を始めてもらう事にした。
麻酔液を注射器で吸引し、エア抜きをした所で態勢は整ったのである。
そしてその針先を、真知子の左腕の静脈に宛てた時であった。
思わず辰男と二人の娘たちから声が上がった。
「真知子~」
「お母さ~ん」
これが、今まで生きてきた真知子という人格に対しての、最後の呼び掛けとなってしまった。
その後、麻酔液の注入は終了し、看護師さんたちだけをその部屋へと残し、その他の5名で車に積んである荷物を取りに向かった。
そこには三澤さんと雨宮元リーダーとで、もしもの事態を想定して、色々な機材を準備してくれていた。
心臓に異変が起きてしまった時に使用するAED。
そしてボンベ型の酸素吸入器。
それから一部の血管が破裂して、出血が多量になってしまった時に使用する輸血用の器具。
それと、真知子と同じ型であるB型の血液3000cc分も、クーラーボックスに入れて用意してくれていた。
それらの荷物を皆んなで手分けをして、和室へと運んでいった。
そして今回の治療でいちばん大事なものである、不思議なマリモと孔雀の羽から抽出して作製した混合液を辰男が、保管してあった冷蔵庫から取り出して来たのであった。
その後、看護師さんが真知子に麻酔が効いていることを確認して、すべての準備が整った。
しかし、その時であった。
三澤さんから次のような提案がされた。
「これから起こるであろう事態について、娘さんたちにはショックが大きすぎる可能性が有ります。
出来れば退室してもらっては如何でしょうか?」
との事であった。
すると娘たち二人はその言葉に素直に従い、部屋を出てリビングへと向かった。
そして辰男は真知子の枕元に正座をし、眠りについている真知子の両頬を、両手で優しく擦りながらこう言った。
「これから治療が始まるからな。
ぜんぜん怖くないから安心しろ。
この注射を打てば、また元気な真知子に戻れるから。
元気になった真知子の姿を楽しみにしているよ。
25年間、今まで本当に有り難う」

そして予定していた時刻となり
「それでは準備を始めましょうか?」
という三澤さんの指示に従い、看護師さんが小さなステンレス製のケースの中に入っている試験管を取り出した。
そして密封栓であるゴム製の蓋を取り外し、中に入っている混合液に注射針を差し入れ、20cc分だけを吸い上げたのである。
そしてついに、その時がやって来た。
三澤さんが看護師さんに目で合図を送ると、その看護師が真知子の右腕の静脈に針を近づけ、そして刺し込んでいった。
その後ユックリと混合液を注入してゆき、針を引き抜いた。
その間も辰男は、真知子の両頬をずっと擦り続けていたのであった。
そして心の中で、その混合液に対し、こう呟いていた。
「お願いだ、頼む。妻である真知子の命を救えるのは、鳳凰の分身でもある貴方の他には、もう誰もいないんだ。
もし貴方でも真知子の命を救うことが出来ないのであれば、俺のことも真知子と一緒に、貴方の暮らす世界へと連れて行ってくれ」
その言葉を、注入が終了してからも、何度も何度も繰り返していた。
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