第69話素麺もチュルチュルっと

文字数 2,136文字

翌日、辰男は早朝5時に目が覚め、近くのコンビニに朝刊を買いに行き、そして病院の談話室で時間をつぶしていた。
すると7時を過ぎた頃に、そこへ看護師さんが現れ
「奥さんのお食事、お部屋に用意しておきましたので」
と親切に声を掛けてくれたのであった。
その後、辰男は個室へと戻り、真知子に食事を与えてみる事にした。
真知子は既に目を覚ましてはいたのだが、まだウツラウツラとした状態であった。
そこで辰男は思い切って、カーテンを全開にしてみた。
すると9月中頃の日差しは、まだ充分に強力で、部屋全体に朝の光線が入り込んできた。
そしてその光に反応したのか、真知子の半開きだった目も徐々にクッキリと全開へとなっていった。
その後、介護ベッドのリモコンスイッチを押して、真知子の上半身を起き上がらせる事から始まった。
そして辰男はスプーンでお粥を掬い、フーフーと息を吹き掛け、冷ましていた。
するとその動作を見ていた真知子が、あどけない表情でフーフーと、その真似を始めたのである。
その真知子の動作に、辰男はキュンとしてしまった。
尚且つ真知子は純粋無垢な瞳で、まじろぎもせずに辰男の顔を見つめだしたのである。
その時、辰男は自分の心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
「お前の顔を、こんなに間近で見るのは何年振りだろうか?
時の流れと共に、マンネリ化した生活を送っていたからな。
真知子の顔もこうして見てみると、肌艶もいいし歳よりも若く見えるな。
それに今でも綺麗だし、さすがに俺が惚れ込んだ女だな。
改めて惚れ直しちゃったよ」
と心の中で呟いていた。
その後、熱いお粥に息を吹き掛け、冷ましながらスプーンで真知子の口の中へと運んでいたのだが、真知子にしてみるとそのスピードでは遅いらしく、感情を表に出してふてくされた顔へとなってきた。
しかしその顔も、辰男からしてみると可愛らしくも見えて、より真知子に対する愛情も深まっていったのであった。
そこで辰男は考えてみた。
「人は常日頃から、自分の感情を圧し殺しながら生活をしている。
しかし皆んな生まれたての頃は、その自分の感情を素直に表に出していたはずだ。
それなのに何故、歳を重ねるにつれて周りの人たちの目を気にして生きて行くようになるのだろうか?
不思議だな。
だけどいつまでも、本能の赴くままに生き続けてしまったら、恐らく世の中の秩序は保たれないだろうな、アハハ」
その後、朝食も食べ終わり、午前中はノンビリとした時間を過ごした。
そして正午前には梓と祥子もやって来て、ドアを開けるなり小走りで真知子の元へと近づいて来て、ふたりして頭を撫でていた。
その光景を辰男はソファーに座りながら眺めていたのだが、その姿は親子の関係というよりも二人の娘たちにとって、新しく産まれてきた妹に接しているかのような愛情表現にも見てとれた。
そして昼食の時間となり、看護師さんが素麺と麺つゆを、トレイの上に一緒に載せて持ってきてくれた。
それを見た祥子が
「今日は私が食べさせてあげたいな」
と言いながらそのトレイを受け取り、真知子のベッドの横へと座った。
そして素麺を2本ほど箸で掬い、麺つゆにくぐらせてから真知子の口元へと近づけてみた。
しかし真知子はポカーンとするだけで、一向に食べようとはしなかった。
それを二度三度と繰り返してみたのだが、同じ結果であった。
それに業を煮やした辰男が
「そんなんじゃ駄目だ、俺にやらせてみろ」
と言って祥子からそのトレイを奪い取った。
そして素麺を掬って麺つゆにくぐらせてから、自分の顔を真知子の顔に近づけていった。
それからであった。
辰男が自分の唇を突き出して、ひょっとこのような顔を作り真知子に見せてみた。
すると真知子もその真似をして、ひょっとこ顔へとなったのである。
そこでその形相を見た3人は大笑いした。
真面目な性格であった真知子の本来の姿を知る人からしてみると、それはとても信じられない姿でもあったのだ。
その後、辰男は唇を突き出している真知子の口元に箸を近づけて行き、自分で啜るような仕草をして見せてみた。
すると真知子は、素麺と箸の先端とを自分の口の中に入れ、器用に素麺だけをチュルチュルと一気に吸い込み、そしてそのまま喉の奥へと流し込んでいった。
真知子はその喉越しが気に入ったのか、首を大きく縦に振り始めた。
するとその動作を見ていた姉妹から拍手が沸き起こり
「マーちゃん凄い、学習能力が高い。
また一つ、吸い込むという事を覚えちゃったね」
と声も挙がっていた。
辰男は嬉しくなり、その後も同じ動作を二度三度と続けていった。
すると真知子も、一度覚えてしまった事は呑み込みが早い。
辰男が、掬った素麺を真知子の顔の前へと差し出すと、条件反射のようにして顔と唇とを前に突き出し、そしてチュルチュルと素麺を胃袋に流し込むのであった。
そこで辰男が、真知子の頭を撫でながらこう言った。
「おい真知子、おいちい?おいちいか?」
その辰男の言葉遣いにも、娘たちの目は点になっていた。
その後もそうなってしまうと、もう止まらなかった。
辰男が素麺を差し出す。
それを真知子が唇をすぼめて吸い込む。
その動作が小気味良く続いていったのであった。
すると、そのふたりの姿を見て梓が言った。
「まるで、お餅つきみたい」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み