第63話やはり脳障害が

文字数 2,433文字

その後5人で真知子の眠る和室へと戻って行き、午後1時になるまで看護師さんたちと一緒に、容態の変化を見守ることにした。
暫くの間、皆んなで真知子の顔を眺めていたのだが、祥子がチラッと不安を漏らした。
「本当にお母さん、記憶が無くなっちゃうのかしら?
目が覚めても、私たちの顔を憶えていないのかなあ?
どうしよう、淋しくなっちゃう」
すると辰男がこう言った。
「今回の治療は、あくまでも癌の完治が一番の目的だったんだ。
これをしなければ、お母さんは間違いなく亡くなっていただろう。
それが今回の治療のお陰で、お母さんはもっともっと長生き出来るようにもなったし、今までと同じように一緒に暮らすことも出来るんだ。
そしてまた月日が経てば、お出掛けも出来るようにもなる。
明日以降の検査結果にもよるのだが、もしお母さんの記憶がすべて無くなっていたとしても、大きな赤ちゃんが生まれて来たと思えばいいじゃないか。
そしてこれから一つ一つの事を教えてあげられるのを楽しみだと、前向きに考えてみてはどうだろう?」
すると
「それもいいね、楽しいかもね」
と祥子は元気を取り戻していた。
その後、真知子の容態にも変化が無く、予定していた午後1時を迎えた。
そして深い眠りについている真知子を大学病院へと送り届ける事になり、皆で協力して真知子を車椅子へ乗せてから、玄関の所まで来たときである。
三澤さんからもう一度、確認する言葉があった。
「今日の治療のことは、一切ひとには喋らないで下さい。
宜しくお願い致します」
その言葉を、そこに居る全員が肝に銘じていた。
その後、待たせてあった福祉タクシーに車椅子ごと乗せて、入院先である大学病院へと戻っていった。
そして到着後、タクシーから真知子を降ろし、車椅子をロビーの端の方へと移動させた時であった。
辰男と三澤さんとが、二人で示し合わせていたかのようにして、他の皆はそこで待つようにと伝えてから、急に消えていったのである。
そして約10分後、今までの4人部屋から個室への部屋変更の手続きを済ませ、戻って来た。
しかし今まで使用してきたベッドから、5階にある個室への移動には、片付けや準備のために1時間ほどは要するとの事であった。
その間に、本日お世話になった二人の看護師さんたちに、お礼を言ってから帰ってもらう事にした。
辰男は玄関先まで付いて行き、寸志と書かれた封筒を差し出しながら、今回の治療のことは誰にも漏らさないで欲しいという事を 、懇願してから見送った。
そして娘たちには、空腹を満たすための菓子パンを購入して来るようにと、千円札を2枚差し出して買いに行かせたのである。
そうしてその大学病院のロビーの隅で、佇んで待っていた時のことであった。
「ウーウー」
という声が近くから聞こえてきた。
そこでその発生元の方を見てみると、なんと真知子が目を覚ましていたのである。
しかし、目は見開いてはいたのだが、焦点は合っていない様子であった。
そこで辰男が、軽く声を掛けてみた。
「真知子、俺だ、分かるか?
お前の旦那だよ」
しかし真知子は、その言葉には反応もせずに、ただ「ウーウー」
と繰り返すだけであった。
その真知子の様子を見て、3人は確信せざるを得なかった。
やはり副作用である記憶障害が起きてしまったのだと。
その後も辰男は、何度も真知子に話し掛けてはみたものの応答は無く、そのうちにまた真知子は眠りについていったのであった。
それから娘たちも合流し、人目につかぬようにして、立ちながら菓子パンをかじった。
その後、個室の方の準備が整ったとの連絡が入り、エレベーターで移動することにした。
そうして5階へと到着し、車椅子を押して個室の扉を開けた時だった。
そこには今まで真知子のことを担当してくれていた、二人の看護師さんたちの姿があった。
その顔を見た瞬間に辰男は、マズイと思った。
それは出来ることならば、真知子のことを良く知る人たちには、なるべく会わせないようにして、二日後には別の病院へと転院させようと思っていたからである。
特にこの二人の看護師さんたちは今朝、真知子の一時帰宅時にベッドから車椅子へと、移動させる時にも手伝ってもらった人たちでもあったからだ。
「この6時間での急激な変化に、驚かれることだろう」
そう不安がよぎった。
しかし、その予想通りに看護師さんたちが話し掛けてきた。
「あら小林さん、どうしたの?
顔色もすっかりと良くなってビックリしちゃった。
何か美味しい物でも食べてきたの?」
その大きな声に真知子は反応し、パッと目を見開いた。
すると、そのうちの一人の看護師さんが真知子の正面に寄ってきて腰を下ろし、また話し始めたのである。
「小林さん、外出中は気分が悪くならなかった?
大丈夫だった?」
しかし真知子は、その質問に答えることも無く、視線さえも合わせることが出来ないでいた。
その反応に当然のことながら、看護師さんたちも真知子の異変に気付いていた。
しかしその後は、その看護師さんたちも詳しい事は聞かずに普通に振る舞ってくれ、真知子のベッドメイキングを終わらせると部屋を出ていった。
するとその直後に、三澤さんからの一言があった。
「まずい事になって来ましたね。
明後日に転院する予定の病院には、既に予約を入れておきましたので、必ず転院させて下さい。
それまでに、こちらの病院でCT検査や、脳のMRI検査をしたいと言ってきても、絶対に脳のMRI検査だけは拒否して下さい。
脳の画像を見られてしまうとマズイのです。
それと先ほども話しましたけれども、本日の治療の件はシークレットにしておいて下さい、お願い致します」
その言葉に辰男と娘たちは大きく頷いていた。
その後、忙しい時間を割いて来てくれていた三澤さんと雨宮元リーダーとを駐車場まで見送りに行き、厚くお礼の言葉を述べてから別れた。


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