第29話これが名湯か

文字数 2,276文字

今回お世話になる宿は、増富温泉の中でも老舗中の老舗であった。
趣のある玄関を通り、フロントへと向かい宿帳に記入した。
そして仲居さんに2階にある部屋へと案内してもらった。
中に入ってみるとそこは8畳ほどの和室と、窓際の板張りの上に2脚の椅子と小さなテーブルとが置かれているだけの、小ぢんまりとした部屋であった。
そしてその和室の中央には年代物と思われる小さなコタツが、俺たちのことを迎え入れてくれていた。
まさに俺の頭の中で描いていた湯治場の宿の元風景そのものであり、広さてきにもそれで充分であった。
早速、そのコタツのスイッチを入れ、二人で足を潜り込ませてみた。
標高が1000メートル近くあるこの温泉街の真冬の寒さにとって、この有り難い暖かさと昔を思い出させる懐かしさとが相まり、感慨深くなった。
そして暫くしてから真知子が話し掛けてきた。
「こうしてコタツに入るのは何年振りかしら?
この部屋の雰囲気からして本当に湯治をしに来た感じがするね。
私もここの温泉に何度も浸かり、元気になって東京に帰るからね。
本当に連れて来てくれて有り難う」
俺はその言葉に照れ臭さを感じながらも
「よし、さっそく風呂に行ってみよう」
と言い、手拭いを片手に真知子の手を引いて浴場へと向かうことにした。
階段で1階へと降りて行き、細長い通路を抜けていった所に浴場の看板が掛けられていた。
入り口が隣同士にある男女別の湯は、泉質もいくらか違っているようで、一日おきに男湯と女湯とが入れ替わるという話であった。
俺はそこで真知子と別れ、殿方と書かれている暖簾を掻き分け脱衣所へと入ってみた。
すると脱衣篭が使われている数を見て、3名の先客がいる事が分かった。
俺は衣服を脱いでから浴室へと入って行き、そしてその3人に軽く会釈をした。
そこには二つの小さめな湯船があり、向かって右側にある湯気の出ていない湯船の方に、その3人が浸かっていた。
そこで俺は宿の案内に載っていた、風呂場の見取り図を思い返してみた。
「ああそういう事だったのか、3人が浸かっている岩風呂の方が源泉かけ流しで、ラジウムが豊富に含まれているという名湯なんだな。
そして左手側にある湯気の出ている木製の湯船の方が、天然の水を沸かした上がり湯という事なんだ」
俺はシャワーで軽く全身を洗い流してから、誰もいない上がり湯の方に入ってみた。
温度的には42度くらいであろうか、俺にとっては丁度よい感じであった。
そして5分ほど浸かってから洗い場に上がり、体と頭髪を洗いだした。
するとその間に、先客として源泉に浸かっていた40代と見受けられる男性と、その父親らしき年配の男性とが脱衣所へと出ていったのであった。
俺はシャワーで全身を洗い流したあとに、その源泉へと入ってみる事にした。
すると先ほど入った42度の上がり湯とは違い、ヒンヤリと感じられるほどであった。
「これが噂に聞いていた、万病に効くと言われているラジウム泉なんだな。
ガイドには32度の源泉と書いてあったのだが、なんだかもっとぬるく感じるな」
しかし暫くの間、浸かっていると徐々に体も慣れてきた。
そして周りの様子を見回してみると、源泉の湯口のそばに金属製のコップが置いてあるのが目に入ってきた。
俺はそのコップに湯口から涌き出てきている茶褐色の源泉を注ぎ入れ、そして飲んでみた。
すると炭酸を含んだ塩気のある鉄臭い匂いが鼻に刺激を与え、決して旨いとは言えるものでは無かった。
俺がそこで渋い顔をしていると、先ほどからずっと、そのぬるい源泉に浸かっていた70代とも見受けられる方が、話し掛けてきたのである。
「こちらは初めてですか?」
すると俺はこう言葉を返した。
「はい、そうなんです。
妻が昨年に体調を崩しまして、こちらの温泉がとても良いとお聞きして、二人で東京から湯治にやって参りました」
それを聞いた年配の方はこう言ってきた。
「ハハァそうですが。
それはそれはどうもご苦労様です。
私は県内からなんですけれども毎月、女房の付き添いで泊まりと日帰り温泉とを使い分けて、もう20年もこちらに通って来ているんですわ、アハハ。
お陰さまで女房も乳癌を患っていたんですけれども、今でも再発はなく二人でノンビリと年金暮らしですわ。
まあ私は、ここの温泉のお陰だと思っているんです、アハハ」
「はあ、そうですか。
そんなにここの温泉には効き目が有るんですか?」
と俺が聞くと、その方はこう続けた。
「まあ個人差は有るでしょうけれど、私は効果が有ると信じて毎月女房を連れて、この温泉へと浸かりに来ているんですわ。
ここで一緒になる人たちは、みんな病気自慢ですわ、アハハ。
やれ自分が大病を患っているだとか、家族の付き添いでやって来ただとか。
でも大概は病気が回復してきて安定しているという話が多いですわ。
もっともその後、病状が急速に悪化して2度と来られなくなってしまった人だとか、亡くなってしまった方の話は、直に聞くことは出来ませんけどな、アハハ。
だけど、あなたの所も続けてみるといいですよ」
「それは確かにそうですね。
色々な話をお聞き出来て、とても励みになりました。
これからも女房を連れて通い続けてみたいと思います」
と俺は言葉を返した。
その後も趣味の話やお互いの家族の話など、1時間以上もそのラジウムの源泉に浸かっていた。
そして最後に上がり湯で体を温めてから部屋へと戻ってきた。
しかし真知子はまだ戻って来てはいなかった。
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