第70話やはり脳がリセットされてしまっていた

文字数 1,857文字

それは餅つきをする時の、杵を振り下ろす役目の人と、臼の中で餅を返す役目の人との息の合った、阿吽の呼吸の中での動きのようにも梓には見えていたのである。
そして更にその横で、祥子も小さな声で呟いた。
「流石だね、だてに長い間、夫婦をやってないわ」
すると地獄耳の辰男には、それが聞こえていたのであった。
そして動かしていた手を止めて、娘たちに向かってこう言った。
「当たり前だろ、お前たちとの歴史よりも俺とお母さんとの歴史の方が、よっぽど長いんだからな。
それに俺たち夫婦は、固い絆と深い愛情とで繋がっているんだ。
また来世でも一緒になれたらいいなとは思っていたのだが、まさかこんな形になるとは思ってもみなかった。
真知子の姿は今までと変わりは無いのだが、果たして脳の方も、これから成長していくにつれて過去の感情を取り戻してくれるのだろうか、それだけが心配なんだ。
もしかすると全く好みが変わってしまい、俺のことなんかプイと、振り向いてくれなくなるんじゃないかとも思ったりして」
その言葉を聞いていた娘たちは、不適な笑みを浮かべながらこう言った。
「そうかもね、最近のお母さんは私たちと一緒に、ジャニーズの人たちにお熱を上げていたからね。
厳つい顔をしたお父さんとは大違いだわ、アハハ」
その娘たちからの言葉に辰男は、すっかりとテンションが下がってしまった。
その後も辰男は真知子に素麺を食べさせ続け、それが終わるとデザートとして一緒に用意してくれていた、果物のシロップ漬けも食べさせ終わった。
そして辰男がそれらの器をトレイの上に戻し、立ち上がろうとした時であった。
真知子が
「ウーウー」
と淋しそうな声を上げた。
その姿は、まるで子供が駄々をこねているかのようにも見え、そして祥子がこう言ったのだ。
「マーちゃん、そんなこと言ったってダメよ。素麺も沢山食べたんだから、お昼はもうおしまいよ」
とまるで母親気取りであった。
その姿が辰男からしてみると、正に親子関係がひっくり返ったかのようにも見え、面白さ半分、そしてこれから先のことを思うと、怖さ半分の心境でもあった。
その後、前日に行ったMRI検査での、結果報告の時刻が近づいて来ていたので、真知子を車椅子に乗せてから1階にある診察室へと向かった。
そして家族4人でその待合室で待っていると
「小林さん、小林真知子さん」
と看護師さんの呼び出す声が聞こえてきたので、ドアを開け、中へと入っていったのである。
するとそこには既に三澤さんも到着しており、院長と一緒になって机上のモニター画面を見つめている姿があった。
そしてそこには、脳の断面図らしきものが写し出されていた。
そのふたりは、こちらの4人が入室して来たことを確認すると、簡単な挨拶を済ませてから丸椅子に座るようにと勧めてきた。
その後、そのモニター画面を見ながらの三澤さんによる解説が始まったのである。
「この画像は昨日撮影した、真知子さんの頭部のMRI画像です。
この画像を頭頂部から顎にかけて、スクロールさせていきますので見ていて下さい」
そう言いながらマウスを操作して、その画像を移動させていった。
そしてひと通り、顎の部分までを見終わってから、またスクロールをさせて大脳を写し出している場所にまで画像を戻してきた。
その後、その部分をズームアップして見せてくれた。
しかしそれは辰男からしてみると、ただの白い画像が写し出されているだけにしか見えなかったのである。
そこで三澤さんが説明をしてくれた。
「この画像は、真知子さんの大脳を写し出したものですが、一般の大人のひとの画像と比較してみますと、毛細血管の数が極端に少なくなっていますし、またその太さも細くなっています」
そう言われて辰男は、その画像を目を凝らして見てはみたのだが、その判別が出来ずに首を傾げた。
すると三澤さんが、説明を続けた。
「一般の方が、この画像を見極めるという事は非常に難しいと思います。
しかし我々、脳の研究家たちは今までに何千、何万というMRI画像を見てきています。
それ故に少しの画像の違いにも、瞬時に判別が出来るのです。
誠に残念では有りますが、動物実験での結果と同じように、真知子さんの脳もリセットされてしまった可能性が高いでしょう」
しかしその言葉を聞いた辰男は、意外と平常心でいられたのであった。
それは治療後の真知子の様子を見ていると、記憶障害が起きているという事は明白だったからである。

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