第31話温泉地に弁財天がいた

文字数 2,019文字

翌日の朝、俺が目を覚ますと既に真知子の姿は無かった。
俺はトイレを済ませ、またウトウトとしながら布団の中にいた。
すると7時半を過ぎた頃に真知子が部屋へと戻って来たのだが、どこか寂しそうな表情をしていたので、その理由を聞いてみた。
するとその答えはこうであった。
「昨日から仲良くなっていた4人のうち、3人が今日で湯治を終えて宿を離れる事になったの。
なんだかとても仲の良かった3人の姉たちが、急に居なくなってしまうようで淋しくなっちゃった」
そこで俺が
「なんだよ、お前には俺が居るだろう」
と冗談ぽく言うと真知子は苦笑いを浮かべていた。
「やはり男の俺には到底理解が出来ないような女同士の本音の語らいが、とても楽しかったんだろう」と感じた。
「だけどね、4人全員とメールアドレスの交換をして来ちゃったんだ。
4人のお姉様たちとね。
私は年齢的に言っても末っ子だから」
と真知子はおどけて見せていた。
そうこうしている内に時刻も8時近くになり、朝食をとる為に食堂へと向かったのである。
そして自分たちの部屋番号が記してある席へと座り、食事をいただく事にした。
朝食は和食になっており、アジの開き、卵焼き、納豆、焼き海苔、それに大根、豆腐、ワカメが沢山入っている具だくさんの味噌汁。
それに何と言っても、てんこ盛りのサラダが特徴的であった。
その量たるや全部完食するのには、俺でさえベルトを弛めたくなるほどなのに、なんと真知子はペロリと平らげてしまった。
物凄い食欲である。
人間という生き物は環境が変わっただけで、こんなにも変化するものだという事を、俺は再認識させられた。
そして食事を済ませ食堂を出た時、真知子に
「チョット待って」
と呼び止められたのである。
俺は振り返り、そして真知子の方に視線を向けてみた。
すると食堂の出入り口の扉の所から首だけを出し、内部を覗き込んでいる真知子の姿があった。
そして暫くしてから二組の夫婦と一人の年配の女性とが相次いで、食事を終えて食堂から出てきたのである。
すると真知子はその人たちに近づいて行き、軽くハグをしてから名残惜しそうに二言三言の会話を交わしていた。
俺はその姿を少し離れた位置から眺めていたのだが、その親密ぶりさからして、それほど皆さんが真知子の心の支えになっていたんだと、改めて感心させられる事となった。
その後二人で部屋へと戻りコタツに入りながら、持参してきた本や雑誌などを読み漁る一日が始まった。
それは正に俺が思い描いていた湯治の姿、そのものであった。

そして正午を過ぎ、お昼に食べる物の買い出しに二人して出掛けてみることにした。
本谷川に架かる小さな橋を渡り、バスの折り返し地点の所にあるお土産物屋さんへと向かった。
今日は天気も良く、気温も昼時となり、いくらかは上がって来てはいたのだが、それでも東京とは比べ物にはならぬほど寒く感じられた。
そのため歩くスピードは自然と速くなっていた。
扉を開け、店内へと入って行くと、奥にあるレジの前でお婆さんが一人で店番をしていた。
二人でウロウロと店内を物色していると、瓶詰めになっている蜂の子とイナゴの佃煮が目に入ってきた。
物珍しさもあり二人して買うか買わないかとで迷っていると、レジの所からそのお婆さんが近づいて来てこう言った。
「あなた方みたいな新婚さんには滋養強壮もありピッタリだよ」
その言葉に俺と真知子はお互いの顔を見合わせてから、お婆さんの方を振り向いてみた。
すると、こちらを見てニコリと微笑んでいた。
「やはり俺たち夫婦に向かって言っているんだ。
どう見たって俺たち夫婦は新婚になんか見られるはずが無いのにな?」
その時ピンときた。
「そうだ、いまの言葉は、このお婆さんが品物を売るときの決め台詞なんだ。
これは一本取られたかも知れないな」
そこで俺は聞いてみた。
「これはそんなに栄養があるの?」
するとそのお婆さんが、すかさずにこう返してきた。
「この地域では蜂の子やイナゴの佃煮は、貴重な蛋白源として昔から食べられていたんだ。
今ほど食料事情も良く無かったからね。
これのお陰で私も7人の子宝に恵まれたよ。
あなた達もまだ若いんだから、これを食べて頑張ってみな」
このお婆さんのセールストークに俺は負けたと思った。
今では貴重品となってしまった少々高価な蜂の子の瓶詰めを一つ手に取り、お婆さんの後を付いて行き、他に花豆の煮豆とカップラーメン2つもレジ台の上に置いた。
するとお婆さんはレジスターは使わずに、器用に算盤を弾き、会計をしてくれたのである。
そして返り際に
「有り難うございました」
と言いながらクシャクシャになった笑顔を見せて見送ってくれたのであった。
その姿は、まるで俺たち夫婦に幸福をもたらしてくれる、七福神の中にいる弁財天のようにも見えた。
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