第48話脳に障害が

文字数 2,517文字

そして昼休みが終了し、我々が席に着いて待っていると、その場所へと現れたのは三澤さんという名の技師であった。
俺はその顔を見た途端にピンときた。
「あ、この人は孔雀の羽を持ち込んで、DNA鑑定をしてもらった時のヒトゲノム、DNA解析グループに所属している三澤さんだ。
俺はあの時のことを良く覚えている。
物腰も柔らかく、素人みたいな俺に対しても 、優しく対応してくれた。
そうか、この人は脳に関してもスペシャリストだったんだ」
俺は前回にお会いした時の印象がとても良かったので、名札に書いてあった名前を覚えておき自分の席へと戻ってから、社内のファイルサーバーでしか見ることの出来ない社員の略歴として、三澤さんの情報を見た事があったのだ。
その内容はよく覚えている。
三澤さんはまだ32歳と若く、国立大学の医学部を卒業してから医者の道へとは進まずに、そのまま大学院でも勉強を続け博士号を取得した。

後にアメリカへと渡り、ニューヨークの大学でも最新医療の研究をしていたそうである。
その時、直に我が社の社長の目に留まり、引き抜かれて来たという逸材でもあった。
しかも今では入社3年目で有りながらもヒトゲノム、DNA解析グループのリーダーを務めるほどになっている。
因みにそのプロフィールに載っていた趣味と好物は、温泉巡りと激辛カレーという風に書いてあった。
その三澤さんの同席のもと、マウスの脳を撮影したMRI画像を見てみる事になった。
8名でそのモニター画面を見つめる中、プロジェクトリーダーである雨宮君が、MRI検査画像Aと書かれた画面をクリックした。
するとそこには一匹めのマウスの脳の画像が写し出された。
俺を含めた研究員7名はボンヤリとそれを眺めていただけなのだが、その時、三澤さんの顔色が明らかに変わったのだ。
そして雨宮リーダーに代わり自らの手で、マウスの脳の断面図が写し出されている画像を上下に、何度も何度も往復させ始めた。
そして自分なりの解答が得られたのか、顔を曇らせながらこう言った。
「不思議なんです。
有るべきものが無いんです」
そのまま暫くの間、沈黙が続いた。
そこで雨宮リーダーが聞いてみた。
「私には分からないのですが、いったい何が無いのですか?」
すると三澤さんは眉間にシワを寄せて、こう説明してくれた。
「昆虫も含めて生物の脳内には必ず、多くの毛細血管が通っているのです。
その毛細血管を通して脳細胞の主な栄養源でもあるブドウ糖が、血流に乗り、各細胞へと運ばれて行く訳です。
生物は産まれて来てから成長するにつれて、その毛細血管の数も徐々に増えてゆき、それに伴い記憶力や運動能力も備わってゆくのです。
しかしこの画像を見るかぎり、大脳と小脳に有るべき毛細血管が、僅かしか見当たらないのです。
ここからは、この画像を見た私個人としての推測を述べさせてもらいます。
今回の実験に用いられた不思議なマリモと孔雀の羽から抽出して作られた混合液の注入によって、マウスが今までに蓄積してきた記憶力や運動能力がリセットされてしまい、すべて白紙の状態へと戻ってしまったのでは無いのでしょうか?
言い換えれば、脳内が産まれたての赤ちゃんの状態になってしまったのです。
それ故に、自力で食事を摂ったり、立ち上がることも出来なくなってしまった可能性が有ります。
しかしそれらの能力は、これから時が経つにつれ毛細血管の数も増えてゆき、それに伴い復活していく事になるでしょう。
しかしそれを人間に置き換え、考えてみた場合、一度失われてしまった運動能力や学習能力が元に戻るまでには、相当な年月が必要になって来るものと思われます。
それとですが、幸いなことに、マウスの状態を見てもらっても分かるように、生物が生きていく中で最も必要だとされる自律神経にはダメージを受けておりません。
その自律神経とは、無意識のうちに呼吸をしたり、心臓を動かしたり、または体温を調整したりしている生命維持機能のことです」
そう言ってから三澤さんは左肘を机の上に乗せ、そして手のひらを額にあてて、暫くの間、考えながらノートにメモをとっていた。
そしてその後、また説明を始めた。
「あくまでも私見として言わせてもらいます。
今回の実験で最も大きな影響を受けたのは、癌細胞と脳細胞という事になります。
そこでその両方の共通点は何なのかを考えてみました。
するとその両方の細胞とも、他の細胞と比較して、より多くのブドウ糖を消費するという点で繋がりました。
今回マウスに注入した混合液が、血液内にある糖質に何らかの影響を与えて、癌細胞と大脳、そして小脳とを壊滅的な状態に貶めたのでは無いのでしょうか。
しかしこの場合、一つだけ腑に落ちない点が有るのです。
それと言いますのも、実は動物の身体の中で糖質であるブドウ糖を最も多く消費する場所とは、全身にある筋肉なのです。
なのに何故、癌細胞や脳細胞に対しては大きな影響を与えたのに、それ以上に糖質を消費する筋肉には影響が出なかったのか?
少し待って下さい。
調べさせて下さい」
そう言ってから自らが持参してきたパソコンを起動させ、調べ始めたのであった。
そして皆んなの注目を集める中、5分ほどそのパソコンのキーボードを叩いていた。
その後、三澤さんは頷きながら自分自身でも納得したようで、そのことを我々にも説明してくれた。
「動物の筋肉は、当然の事ながら筋繊維で出来ています。
その1本1本の筋繊維を電子顕微鏡で見てみますと、実は直径で1ミクロンしかない円筒状の形をしているのです。
今回実験で使用した混合液の中に含まれていた物質が、マウスの血液成分と化学反応を起こし、緑色の光線と共に、身体中を高速で駆け巡ったという事が考えられます。
しかし動物の筋肉は、1本1本が円筒状の細長い筋繊維で出来ている為に、今回のそれは余りにもスピードが速すぎて、1つ1つの細胞には滞らずに、通り抜けて行ってしまったのです。
それ故に、糖質であるブドウ糖を大量に消費するはずの筋肉は、壊滅的なダメージからは免れたのです。
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