第56話あの薬を使うしかない

文字数 1,893文字

その後3人は、主治医に深々とお辞儀をしてから、項垂れたまま医療相談室を後にした。
そして電車に乗って最寄りの駅へと到着し、途中にあったコンビニで、お弁当を購入してから自宅へ帰ってきた。
そのままリビングへと上がり、無言のまま祥子が冷蔵庫から麦茶を取り出してきたのである。
そしてそれを3つのグラスに注いでから、それぞれがお弁当の蓋を外した。
そして割り箸をさきながら、梓が辰男に対して問い質してきたのだ。
「お父さん、つくばの研究所で作っている新しい薬は、まだ出来ないの?
早くしないとお母さん、死んじゃうよ」
その言葉に辰男は内心グサッと来ていた。
そして考えてみた。
「俺だって、あの混合液を使用して、真知子の命を救いたいとは思っている。
だけど、あの副作用のことを考えると、どうしても二の足を踏んでしまうんだ」
そこで辰男は仕方なく、常識的な返答をするしか無かった。
「でもな、お父さんも一所懸命になって、研究を進めているのだけれども、まだ完成までには何年も掛かりそうなんだ、ゴメン」
すると梓が語気を強めて言ってきた。
「お父さんは、何でそんな呑気なことが言えるの?
このあいだの実験で、癌が消えたって言ってたじゃない。
どうしてその薬を、早く使えないの?」
その質問に辰男は、またしても在り来たりな返答しか出来なかったのである。
「新薬が承認されるまでには、長い道のりが有るんだよ。
その薬の効果が確認されたとしても、その後、何年も掛けて安全性を確かめなくてはならないんだ。
病気は治っても、重い副作用が残ってしまったら元も子も無いだろ」
すると今度は、妹の祥子がその話に割り込んできた。
「そんなに待ってる時間なんて無いわよ。
そんな事をしている間に、お母さん死んじゃうよ。
私は絶対に嫌だからね。
お母さんが、この世から居なくなるなんて、存在自体が無くなるなんて信じられないのよ。
お父さんは、お母さんと結婚するまでは他人同士だったから、そんな風に割り切れるのよ。
だけど私の体の半分は、お母さんからの遺伝子で出来てるの。
たとえ、お母さんが寝たきりの生活になっても構わない。
生きていてくれるだけでいいの。
私が一生、お母さんの面倒をみるから。
だからお願い」
辰男は、娘たちがそこまで覚悟を決めていたとは思ってもいなかった。
そこで自分がいま、考えている事を正直に、娘たちに話してみようと心に決めたのであった。
「お前たちの気持ちは良く分かった。
済まなかった。
ここからは、お弁当を食べながらでいいので、俺の本音を聞いてくれ」
と言い、娘たちの緊張を少しでも和らげようとして、自分で御飯を一口分だけ口の中に入れてみた。
しかし娘たちは涙に咽んでいて、お弁当を食べるどころでは無かったのである。
「実を言うと、さっきからお父さんが考えていた事は、いま研究中である薬を、お母さんに使用してみたいと思っていたんだ。
お前たちにも、以前に話したことが有るのだけれども、その薬は高い確率で癌細胞を完全に取り除くことが出来る。
しかし重大な副作用が発生してしまう可能性も高いんだ」
そこから先は、娘たちも初めて聞く話であった。
そして今までは涙目であったのが、急にキリッとした表情へと変わり、一言も漏らさずに聞き取ろうとする態勢に変化していた。
「その副作用というのは、記憶がすべて消え去ってしまうんだ。
そうなると当然、自分の名前も分からなくなってしまうし、お前たちの顔も忘れてしまう。
言ってみれば、産まれたての赤ん坊の頃の状態へと、戻ってしまうという事なんだ。
しかしそれもまだ、動物実験での結果であり、人間に試してみた場合、必ずしもそうなるとは限らない。
だけど高い確率で起こるであろうという事は推測できる。
そこでだ、お前たちの意見も聞かせて欲しい」
すると、つい先ほどまで泣きじゃくりながら暗い表情を浮かべていた娘たちが、一筋の光明が差し込んできたかのようになり、目の輝きまで変化していた。
「お父さん、その話ほんと?
私はお母さんの命が助かるのであれば、その薬に懸けてみたいわ」
と梓が言うと、祥子も続いた 。
「私も同じよ。
私もお母さんには長く生き続けて欲しいの。
たとえお母さんの記憶が無くなってしまったとしても、生きていてくれるだけで嬉しいんだから。
私が一生、面倒を見るよ」
その娘たちの言葉を聞いて、辰男は決心した。
「真知子の命は一刻を争う状態なんだ。
明日の朝、つくばの研究所に戻り、あの研究中の薬を使わせてもらえるようにと直訴してみよう」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み