- 4 - 出航
文字数 1,758文字
試用期間は、あっというまに過ぎた。
毎日檣楼に登って基本的な指笛をひと通り教わり、そのあいだには乗組員たちとも顔見知りになった。そんな日々を過ごしたあと、なんとか見習いとしての正式採用が決まったときには、シルフィはほっと胸をなでおろした。
神殿での認可も、今度は風の神殿も含めて済ませた。前回と同じように煩わしい手続きをしなけらばならなかったが、先行きに希望があるとなると、なんとか我慢できるというものだった。
すべての申請が終わると、最後にデヒティネに戻って船長に報告しなければならなかった。
船長室に入ると、ケリーソンはテーブルの上に積まれた書類の山に囲まれていた。
「どうにかならんもんかね」
シルフィたちの姿を認めると、手を止め、肩こりをほぐそうと腕を回した。
「出航前となると、書類、書類、書類、だ。早く海に出たいな」
「まったくです」
ゲイルもうなずく。それから、シルフィを自分の前に立たせた。
「正式に見習いに決まりました。乗組員名簿に記載をお願いします」
「わかった」
ケリーソンは頷いたあと、立ち上がる。壁に掛けてあったベルトからなにかを抜き、シルフィに向かって投げた。大慌てで受け取ると、素朴な造りの短剣だった。
「就任祝いだ。やるよ」
「でも……」
あまり他人に物を貰ったことがないシルフィは戸惑った。
「護身用に持ってろ。なにしろ男所帯だ。襲われそうになったらそれを使うんだ。船上裁判に持ち込めば、相手は間違いなく有罪だ、船にとって大切な風呼びだからな。だがそれまでに取り返しのつかないことをされちゃ目も当てられねえ」
「アイ、サー……」
シルフィは目を白黒させながら、鞘から刃を抜いてみた。
ただ、なにしろ武器というものを手にしたのは初めてだ。怪我でもしたらと怖れて、また慌てて刃をしまった。
「使い方はピーティーに教われ。この船じゃ一番のナイフ使いだ」
ピート・ハッチングス通称ピーティーは、二十歳代前半の、操帆手の若者だ。あと二・三年もすれば操帆長になると言われている有望株でもある。いざという時には帆を繋ぐロープを切ることもあるので、常にナイフを持ち歩いているのはシルフィも知っていた。
待たせていたボートで岸壁に戻ると、ゲイルが懐の革袋からコインを三枚出して、渡してくれた。
「試用期間の給料だ。家族にうまいもんでも買ってやれ。とうぶん会えなくなるからな」
「いいの」
これは今までの路上売りの稼ぎからすると、三倍近い。しかもまとめて貰ったことなど初めてだ。
今まで手にしたことのない金額に、シルフィは思わず唾をゴクリと飲み込んだ。
「明日は夜が明ける前に港にちゃんと来いよ。迎えのボートに乗り遅れたら、そのまま置いていくからな」
ゲイルのほうはこんな金額はどうということもないようで、あっさり言うと、コインの入った革袋を元に戻した。
「ありがとう!」
ゲイルに手を振り、家に向かって走り出す。途中でコインを一枚使って、以前仲間だった路上売りの少年から、温かい肉詰めパイを買った。
わざわざ具の多そうな重いものを選んでくれ、景気のいいときにはまた買ってくれよなと言う。シルフィは喜んで約束した。
それを持って帰ると、母親のホリーは喜んで目を細めた。しかし残りのコインも一緒に渡すと、すぐに心配そうな顔つきになる。
「あんたは大丈夫なのかい」
「どうせ船に乗ったら、金使う場所なんてないよ。それに来週になれば、また貰える」
「そうかい。助かるよ」
「父ちゃんには見せちゃダメだよ」
「ああ、そうだね」
ホリーは頷きボロ布で包むと、ティムが覗くことはまずない、裁縫道具を入れたバスケットの底へと隠した。
しばらくすると、酒臭い息のティムが帰ってきた。
パイを見ると目を丸くし、それがシルフィが買ってきたものだとホリーに教えられると、でかしたな、と言って頭を撫でてきた。
そんなことは珍しいので、シルフィはなんだかくすぐったかった。
もしかしたら、ティムなりに娘がいなくなることを寂しがってくれているのかもしれないと思った。
とにかく、感情表現が不器用な父親なのだ。
家族みんなでパイを食べ、ベッドに弟と一緒に入ると、シルフィはその温かさに、すぐに眠りについた。
その晩は、家族全員で檣楼に登ってパイを食べている夢を見た。
毎日檣楼に登って基本的な指笛をひと通り教わり、そのあいだには乗組員たちとも顔見知りになった。そんな日々を過ごしたあと、なんとか見習いとしての正式採用が決まったときには、シルフィはほっと胸をなでおろした。
神殿での認可も、今度は風の神殿も含めて済ませた。前回と同じように煩わしい手続きをしなけらばならなかったが、先行きに希望があるとなると、なんとか我慢できるというものだった。
すべての申請が終わると、最後にデヒティネに戻って船長に報告しなければならなかった。
船長室に入ると、ケリーソンはテーブルの上に積まれた書類の山に囲まれていた。
「どうにかならんもんかね」
シルフィたちの姿を認めると、手を止め、肩こりをほぐそうと腕を回した。
「出航前となると、書類、書類、書類、だ。早く海に出たいな」
「まったくです」
ゲイルもうなずく。それから、シルフィを自分の前に立たせた。
「正式に見習いに決まりました。乗組員名簿に記載をお願いします」
「わかった」
ケリーソンは頷いたあと、立ち上がる。壁に掛けてあったベルトからなにかを抜き、シルフィに向かって投げた。大慌てで受け取ると、素朴な造りの短剣だった。
「就任祝いだ。やるよ」
「でも……」
あまり他人に物を貰ったことがないシルフィは戸惑った。
「護身用に持ってろ。なにしろ男所帯だ。襲われそうになったらそれを使うんだ。船上裁判に持ち込めば、相手は間違いなく有罪だ、船にとって大切な風呼びだからな。だがそれまでに取り返しのつかないことをされちゃ目も当てられねえ」
「アイ、サー……」
シルフィは目を白黒させながら、鞘から刃を抜いてみた。
ただ、なにしろ武器というものを手にしたのは初めてだ。怪我でもしたらと怖れて、また慌てて刃をしまった。
「使い方はピーティーに教われ。この船じゃ一番のナイフ使いだ」
ピート・ハッチングス通称ピーティーは、二十歳代前半の、操帆手の若者だ。あと二・三年もすれば操帆長になると言われている有望株でもある。いざという時には帆を繋ぐロープを切ることもあるので、常にナイフを持ち歩いているのはシルフィも知っていた。
待たせていたボートで岸壁に戻ると、ゲイルが懐の革袋からコインを三枚出して、渡してくれた。
「試用期間の給料だ。家族にうまいもんでも買ってやれ。とうぶん会えなくなるからな」
「いいの」
これは今までの路上売りの稼ぎからすると、三倍近い。しかもまとめて貰ったことなど初めてだ。
今まで手にしたことのない金額に、シルフィは思わず唾をゴクリと飲み込んだ。
「明日は夜が明ける前に港にちゃんと来いよ。迎えのボートに乗り遅れたら、そのまま置いていくからな」
ゲイルのほうはこんな金額はどうということもないようで、あっさり言うと、コインの入った革袋を元に戻した。
「ありがとう!」
ゲイルに手を振り、家に向かって走り出す。途中でコインを一枚使って、以前仲間だった路上売りの少年から、温かい肉詰めパイを買った。
わざわざ具の多そうな重いものを選んでくれ、景気のいいときにはまた買ってくれよなと言う。シルフィは喜んで約束した。
それを持って帰ると、母親のホリーは喜んで目を細めた。しかし残りのコインも一緒に渡すと、すぐに心配そうな顔つきになる。
「あんたは大丈夫なのかい」
「どうせ船に乗ったら、金使う場所なんてないよ。それに来週になれば、また貰える」
「そうかい。助かるよ」
「父ちゃんには見せちゃダメだよ」
「ああ、そうだね」
ホリーは頷きボロ布で包むと、ティムが覗くことはまずない、裁縫道具を入れたバスケットの底へと隠した。
しばらくすると、酒臭い息のティムが帰ってきた。
パイを見ると目を丸くし、それがシルフィが買ってきたものだとホリーに教えられると、でかしたな、と言って頭を撫でてきた。
そんなことは珍しいので、シルフィはなんだかくすぐったかった。
もしかしたら、ティムなりに娘がいなくなることを寂しがってくれているのかもしれないと思った。
とにかく、感情表現が不器用な父親なのだ。
家族みんなでパイを食べ、ベッドに弟と一緒に入ると、シルフィはその温かさに、すぐに眠りについた。
その晩は、家族全員で檣楼に登ってパイを食べている夢を見た。