文字数 1,021文字

 今日のデヒティネは、三本マストの一番前、フォアマストの帆だけを展げていた。
 マストにかかった横木のような帆桁(ほげた)には水夫たちが掴まり、声をかけあいながら、帆やそれを操るロープをひとつひとつ点検していた。
 それはまるで、古い巨木に登ったサルの群れのようにも見えた。
 すぐに乗り込むのかと思ったら、ゲイルはボートを舳先へと向かわせる。
 停まったところで見上げると、そこには船首像(フィギュアヘッド)が取りつけられていた。チュニックを着た若い女性の姿で、両腕を前方に差し伸べ、注がれる水を受けているような形に手のひらを広げている。

「レイディ・デヒティネだ。頭を下げろ」

 ゲイルと一緒に揺れるボートに立ち上がり、言われた通りにすると、女性像は横目でシルフィを見た。どうやらそこだけ動くらしい。

「ずいぶんな小娘を連れてきたじゃないか、ゲイル」

 そんなことを言われて、気がついたときには言葉が出ていた。

「あたしが小娘なら、あんたは大娘だ」

「おやおや。世界一速いと(ほまれ)高い船に、ずいぶんな口をきくね」

「だってあんた、いいとこの娘さんみたいに綺麗だ」

「は」

 女性像は虚を突かれた声を上げたあと、笑いだした。軽やかさと豪快さが入り混じった、不思議な笑い声だった。

「気に入ったよ。よく仕込むんだよ、ゲイル」

「ありがとうございます、レイディ」

 ゲイルは貴婦人にするような丁寧なお辞儀をする。シルフィも今度はそれを精いっぱい真似した。
 ボートが離れるにつれ、ゲイルが安堵のため息をついた。

「よかったな。第一試験は合格だ」

「えっ、試験だったの」

「そうだ。船に嫌われたら、どんなに優秀な風呼びでも終わりだ。乗り込むことができないんだからな」

「先に言ってよ。もっとお上品に振る舞ったのに」

「それじゃ駄目だな。取り繕ったってなんの得にもならん」

「へえ」

 そういうものなのか。
 だがどっちにしろ、自分の育ちで上品なお行儀など、教えてもらったこともない。
 それでいいなら、余計なことに気を遣う必要なさそうだ。それで、シルフィも安堵のため息をついた。
 ボートはデヒティネの左舷側面に回り、停まった。ゲイルが指笛ではなく口笛を吹くと、甲板から男が一人、ひょいと顔を覗かせた。
 ゲイルを認めるとすぐに引っ込み、代わりに縄ばしごがするすると降りてきた。

「さあ、登れ。俺は後につく。おまえが落っこちたらすぐわかるようにな」

「うへ」

 シルフィは安定の悪いそれになんとかしがみつくようにして、おっかなびっくり登った。
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