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その頃、ケリーソンはとある商会の建物から出てきて、ため息をついていた。
染料の仕入れのあてが、またはずれたのだ。採算度外視なら、なくもない。しかしできれば避けたい。
目前の利益の問題もさることながら、一度そんな取引を受け入れたと評判になれば、未来永劫、舐めた扱いを受けかねないからだ。
それを考えると、まだまだあちこちの商会を回らなければならなそうだ。となると、下手すれば停泊の日数も伸ばさなくてはならない。
ふと気がつくと、大通りのほうで、誰かが騒いでいた。
目をやると、ずいぶん多くの人々が、通りを練り歩いて斜面へと向かっていた。
なにか地元の祭でもあるのだろうか。そうでなくても、この地の人々は野次馬根性というか、良くも悪くもおせっかいというか、なにか事が起こるとすぐに集まって騒ぐのが常で、特に珍しい光景でもなかった。
「船長、こうなったら、染料以外にも手を出すしかないんじゃないですか」
後から出てきたトバイアスが、やはり通りの騒ぎに目をやりながら言った。
「そうだな……」
ついつい疲れた声で相づちをうっていると、トライゴズ式スーツを上からしたまで着こんだ、身なりの妙に整った男がふいに横道から出てきて、声をかけてきた。
洒落た格好ではあるのだが、動きのせいか表情のせいか、どこか軽薄そうな雰囲気がある。
だいたい、この暑さのなかで、トライゴズ式という寒さ前提のデザインのものを着ているというのも、あまり実用的とは思えない。革靴に至っては、ピカピカに磨いてあるというのに、
「にいさんたち、積み荷の算段がつかなくて困ってるみたいだな。そのあいだに、近場でちょっと小遣い稼ぎしないか」
ケリーソンもトバイアスも、ただ黙って視線だけを返した。男は肩を竦めると、言葉を続けた。
「かっこつけてたって、商売ができなきゃどうしようもないだろ。たいして場所も取らない、いい積み荷があるんだ。必要なことは、中味について詮索しないことだけ。悪い話じゃないと思うけどね」
ケリーソンは一応しばらく考えるふりをしたあと、答えた。
「やめておくよ」
「おいおい。断るのは、もうちょっと話を聞いてからでも遅くはないぜ」
「そうだなあ。じゃあ、こう言えばわかるか。出処の怪しい品物を積むほど、落ちぶれたくはないんだ」
棘のある言葉に、相手はチッと舌打ちする。
「気取ってたってしかたねぇだろうが。空っぽの船倉にプライドだけ詰めてりゃいい」
そう捨て台詞を吐くと、気取った服もどこへやら、怒りにまかせた大股で去っていった。
その背を呆れて見ていたトバイアス、ぶつぶつと呟く。
「ああいうのがここでは洒落てるんですかね」
「ん?」
「上着の後ろ。裾のあたりに、蝶の模様がついてる」
言われてみると、小さな赤い蝶の印がひとつだけついている。
「俺に訊くなよ。流行やらなんやら、疎すぎるっていつも女房に叱られてんだぜ」
「そうでしたね」
トバイアスはかすかに笑った。たとえ海軍ほど厳しくないにしても、乗組員にとってはやはり絶対権力の船長が、妻に頭があがらない話はいつ聞いても愉快だ。
「さてと」
ケリーソンはまたため息をついた。
「やっかいな仕事を受けるしかなくなるなんて、ごめんだからな。商会めぐりを続けるぞ。つきあってくれるか、トバイアス」
「しかたないですね」
トバイアスは肩を竦めながらも頷いた。
「今日はもうじき、どこの事務所も閉まる時間です。明日に期待するしかありません。デヒティネの様子でも見に行きますか。氷もおろし終わったころでしょう」
「ああ……。そうだな」
ここでごちゃごちゃ言っていてもしかたがないのはたしかだ。
二人は港へと向かった。
デヒティネは、すでにもう静かに眠っていた。
港じたいも、昼に比べればずいぶん静かだ。暗くなってからの出入港はどんな船だってできれば避けたいところなのが本音だからだ。
二人に気づくと、荷下ろしに艦長代理として立ち会っていた航海士のニックとジェリーが寄ってきた。
「船長」
「ああ。無事終わったか」
「ええ。さすがここの荷役人たちは慣れてて手際がいいですね」
「ふむ。終わったのなら、おまえたちも船を離れていいぞ。今日は祭かなにかでもあるようだ。街が騒がしかった」
「祭ですか?聞いてませんね」
「じゃあ、違ったかな。ただの騒ぎか」
「ケンカでもありゃあ、俺たちにとっちゃ祭と一緒でさ。楽しみです」
「ははは。まあ、船に乗れなくなるような怪我だけはするなよ」
「アイアイ、サー」
二人はおどけた敬礼をすると、軽い足取りで街へと向かっていった。
「さて、俺はちょっと、デヒティネの艦長室に寄っていく。書類仕事が溜まってるしな。こっちでやるほうが落ち着く」
「わかりました。では私は宿に戻っています」
「ああ、お疲れさん」
艦へと上がり込むと、ケリーソンは長く息を吸った。
どうにも、商売ごとはめんどくさい。本音を言えば値段などどうでもいいから、さっさと荷を積んで、海へと出てしまいたかった。
しかし頭のなかでは、船主のグリーンヒルの渋い顔がこちらを睨みつけている。「利益を上げられなければ、君はクビだ。今後は他の雇い主を探すことだな」。そう言っているのが、言葉を発していなくてもわかる。
ケリーソンは腕をぐるぐると回し、肩の筋肉をほぐした。決して、グリーンヒルの幻影に、肘鉄を喰らわしたかったわけではない。
もう一度息を長く吸うと、ケリーソンは我が家のように感じる艦長室へと入っていった。