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さらに丘を上がると、森になった。
見慣れない樹木が葉を多く茂らせているせいで視界はふさがれ、むんむんとたちこめる温かな湿気は肌に貼りついてくるようだ。
足どりの軽いティシャの背を追い緩んだ地面を一歩一歩踏みしめながら歩いていると、袖になにか衝撃があった。
目をやると、見たこともない虫がとまっていた。親指ほどもある大きさで、濃い緑色の羽と、長い触覚を持っている。
「ぎゃああああああ」
思わず叫びながら手を振り回すと、慌てて飛び立っていった。
「なに、どうしたの」
ティシャが心配そうに引き返してくる。
「む、虫が、虫……」
「み、緑色の、羽があって……」
形状を説明すると、あははは、と軽い笑い声をたてた。
「大丈夫。毒もなにもない、パンゼっていう無害な虫だよ。色の名前にまでなってるくらい、あたしらには馴染みなんだよ」
そうやって説明を聞いてもまだ眉間の皺が取れないシルフィに、ティシャはなにか思い当たったようだった。
「あんた、もしかして街育ちかい」
「うん。田舎は行ったこと……ない」
「ああ、じゃあ、虫なんて身近じゃないんだな」
「うん」
「じゃあ、しかたないか」
なんだか同情されたようで、我ながらちょっとなさけなかった。でもまあ、こればっかりは相手が言う通り、しかたない。
せめてもの慰めに、そこまでは息苦しくなるので上げていたヴェールを下ろすことにした。視界もすこしぼやけるが、このさいしかたない。
「こうなりゃ、早く森を抜けるしかないね。急ごっか」
そう言って、枯葉の山や落ちた枝などをひょいひょいと身軽に避けながら進むティシャは、まるでこの森の申し子のようだ。必死について行くうちに、シルフィもなんとかコツをつかんできた。そうなると楽しくはなってきたが、やがて森の切れ目に近くなり、鬱蒼とした草木のあいだから光が見えてくると、さすがにほっとした。
急ぎ足で森を出て、しかし、そこに広がっていたのは意外な光景だった。
下草さえも生えていない一面の土と岩の地が広がり、そこかしこに、黒ずんだ木が立っている。いや、正確に言えば木の残骸だろう。葉もなく、とても生きているようには見えない。近づいて触れてみると、硬い炭のようになっていた。
「昔々、この山の神が怒ったときに、地下をものすごい熱が走っていって、そのせいで木が一瞬でこんな風になったんだってさ」
「へえ……。すごいね」
「だから、このあたりには人は住まないんだ。その木も、炭として使おうと持ち帰ると、呪われるって言われてる。そのおかげで、今でもこんな風に昔のものが残ったままなんだってさ。もっとも、雨風が激しいから、どんどん減ってはきてるらしいけど」
説明を聞きながら、改めて景色を見渡してみる。
きらきらと輝く海に面した大きな港。そこから続く、さまざまな建物がひしめくように並ぶ市街地が、沿岸沿いをずっと埋め尽くしている。もしそれをリボンに例えるのなら、縁取りになる部分には、森がずっと続いている。
そしてそこまでは、南の国らしい、逞しく陽気な生命力が溢れてみえる光景だった。
そこから急に、殺風景な、あまりにも殺風景な地に、今立っている。
その落差に、急に迷子になったような気持ちになった。あるいは、知らない誰かの敷地に突然迷いこんでしまっていたたまれないような。
「さあ、行くよ」
だから、そう声をかけられて、なんだか気分が晴れた。
「うん」
頷き、歩き出したティシャに並ぶ。
「木音の森も、同じ時代にできたんだ」
「へええ」
不毛な景色が続く斜面をしばらく登ると、今度は崖だらけの場所に着いた。
「あそこを越えるよ。あたしの持ったところや、足置いたところを真似して登るんだよ。わかったね」
そう言って、ティシャはそのなかのひとつに取りつき、岩が飛び出している部分を掴むと、ゆっくり登り始めた。シルフィも見様見真似で続く。
しゃべる余裕もなく集中してその崖を登り切ると、最上部に平らになっている場所があった。
そこに立ち、眼下の景色を見て息を飲んだ。
そこには、すり鉢状の広い窪地があった。一番下の地面には炭化した樹々が並び、その根元には水が湛えられている。
あの絵で見た風景そのものだった。
「降りられるよ。行ってみようか」
今立っている場所から、岩の壁伝いに下に降りられるようだった。転がり落ちないように慎重に足を進め、時々は飛び降りるようにしながら、水面に向かって降りていく。
水があるせいなのか、壁の内側は、すこしだけ涼しかった。ちょうどお腹も減ってきていたので、かなり下まで降りたところで、ちょど広い平らな石があったので、そこで食事をすることにして、荷物を下ろして二人とも座った。