文字数 1,581文字
デヒティネは大きく右に傾いだ。
シルフィは吹っ飛び、腰に結んでいた命綱が、ぴーんと張った。もしもこれがなかったら、波の上まで放り出されていただろう。
相手の船の側面には、砲門の蓋が一ヵ所開いているのが見えた。煙があがっている。大砲を撃たれたのだ。
見下ろすと、船尾の近くの甲板の左側がひしゃげていた。飛んできた鉄の球にやられたのだろう。
船大工と助手が、応急処置をしようと一目散に走り寄っている。
「チッ、雄鶏野郎か。飾り板は間違いない、ヴイーヴルだ」
雄鶏野郎というのはルコーオヴル王国に対する悪口混じりの呼び方だ。
「ヴイーヴル?」
「ルコーオヴルの戦艦だ。丸腰の商船をいたぶろうなんざ、よっぽど本業の戦果が悪かったらしい」
相手の胴を見ると、また別の砲門の蓋が続けて開くところだった。鉄の砲口が見えた。
もう一発来る。
体勢をなんとか立て直していたシルフィは震える腕で、懸命にマストにしがみついた。
しかし、衝撃はこなかった。
かわりに、ぼちゃん、と派手な水音が響く。砲丸が、手前の水に落ちたのだ。
ヴイーヴルは、突然、デヒティネ側に大きくバランスを崩して傾いていた。
なにごとが起こったのかわからず目を丸くしていると、その向こうに、別の船の帆が見えた。
「おっと。グロリアス・クラウンのお出ましか。やるな」
ゲイルが口角を上げた。
「グロリアス……?」
「認王国の最新戦艦だ。ヴイーヴルの相手をしに来てくれたんだろう。シルフィ、ここが勝負時だぞ。できるだけ風を呼べ」
ヴイーヴルはすでにもうデヒティネの相手をする余裕はないようだった。甲板の人間たちはすべて左舷に移動し、新たに出現した敵への対応に追われていた。
どん、という音がまたして、立て直しかけていたヴイーヴルの傾きがまたひどくなった。その隙を狙って、デヒティネはスピードを上げる。
大砲を撃ち合う二隻の戦艦の前方を横切るようにして、外海を目指す。
戦艦は外洋に出ることはできない。公海を統括するマアアルンという母なる神が、戦闘を嫌うからだ。
今いる内海で戦闘ができるのは、ここの統括は娘神の一人アックキュが任されているからだった。この神は戦闘を忌避していない。
だから今のような状況の場合、商船であるデヒティネは一刻も早くこの海域を抜け外海に出るのが、一番手っ取り早いうえに確実な方法だった。戦艦が追ってくることはできないからだ。
グロリアス・クラウンもそのために援護攻撃をしているのだった。その証拠に、船首に立つ者が「行け」という手旗信号を送ってきている。
その横にいる、乗員に指示を出していた小柄な士官が、一瞬だけ、振り返った。檣楼を見上げ、シルフィと目を合わせたようにも思える。
そして、こんな場面でも士官の矜持か、被ったままの三角帽に軽く手をやり挨拶を送った。
それが、あの神殿で見たワイアットに似ているように、シルフィには思えた。
でも、速度を上げたデヒティネからそれが見えたのはほんの一瞬で、確かめる術はもうなかった。ただ、あの神殿で見た、鼻に皺を寄せた表情をぼんやり思い出した。
鈍い音を響かせながら大砲を撃ち合う二隻の戦艦をしり目に、デヒティネは一気に外海へと滑り出す。
内海とは比べものにならない、おおらかで激しい風が吹いてきた。
ゲイルの指笛の調子が変わった。
ただ呼び寄せるだけでなく、調整もできるものだ。シルフィも見習い、真似をする。
小競り合いも煤けた空気も関係のない世界へと、今、デヒティネは乗り出したのだ。
無限に続いているように見える大空と、大海原の波濤に、さっきまでの恐怖はあっという間に霧散していく。
広大な空間は、勝手気ままに駆け回る、風の動物たちで賑やかだ。
デヒティネも喜びを我慢できないのか、船首像が高らかな笑い声をあげはじめていた。
[第一章 風を操る少女 了]
シルフィは吹っ飛び、腰に結んでいた命綱が、ぴーんと張った。もしもこれがなかったら、波の上まで放り出されていただろう。
相手の船の側面には、砲門の蓋が一ヵ所開いているのが見えた。煙があがっている。大砲を撃たれたのだ。
見下ろすと、船尾の近くの甲板の左側がひしゃげていた。飛んできた鉄の球にやられたのだろう。
船大工と助手が、応急処置をしようと一目散に走り寄っている。
「チッ、雄鶏野郎か。飾り板は間違いない、ヴイーヴルだ」
雄鶏野郎というのはルコーオヴル王国に対する悪口混じりの呼び方だ。
「ヴイーヴル?」
「ルコーオヴルの戦艦だ。丸腰の商船をいたぶろうなんざ、よっぽど本業の戦果が悪かったらしい」
相手の胴を見ると、また別の砲門の蓋が続けて開くところだった。鉄の砲口が見えた。
もう一発来る。
体勢をなんとか立て直していたシルフィは震える腕で、懸命にマストにしがみついた。
しかし、衝撃はこなかった。
かわりに、ぼちゃん、と派手な水音が響く。砲丸が、手前の水に落ちたのだ。
ヴイーヴルは、突然、デヒティネ側に大きくバランスを崩して傾いていた。
なにごとが起こったのかわからず目を丸くしていると、その向こうに、別の船の帆が見えた。
「おっと。グロリアス・クラウンのお出ましか。やるな」
ゲイルが口角を上げた。
「グロリアス……?」
「認王国の最新戦艦だ。ヴイーヴルの相手をしに来てくれたんだろう。シルフィ、ここが勝負時だぞ。できるだけ風を呼べ」
ヴイーヴルはすでにもうデヒティネの相手をする余裕はないようだった。甲板の人間たちはすべて左舷に移動し、新たに出現した敵への対応に追われていた。
どん、という音がまたして、立て直しかけていたヴイーヴルの傾きがまたひどくなった。その隙を狙って、デヒティネはスピードを上げる。
大砲を撃ち合う二隻の戦艦の前方を横切るようにして、外海を目指す。
戦艦は外洋に出ることはできない。公海を統括するマアアルンという母なる神が、戦闘を嫌うからだ。
今いる内海で戦闘ができるのは、ここの統括は娘神の一人アックキュが任されているからだった。この神は戦闘を忌避していない。
だから今のような状況の場合、商船であるデヒティネは一刻も早くこの海域を抜け外海に出るのが、一番手っ取り早いうえに確実な方法だった。戦艦が追ってくることはできないからだ。
グロリアス・クラウンもそのために援護攻撃をしているのだった。その証拠に、船首に立つ者が「行け」という手旗信号を送ってきている。
その横にいる、乗員に指示を出していた小柄な士官が、一瞬だけ、振り返った。檣楼を見上げ、シルフィと目を合わせたようにも思える。
そして、こんな場面でも士官の矜持か、被ったままの三角帽に軽く手をやり挨拶を送った。
それが、あの神殿で見たワイアットに似ているように、シルフィには思えた。
でも、速度を上げたデヒティネからそれが見えたのはほんの一瞬で、確かめる術はもうなかった。ただ、あの神殿で見た、鼻に皺を寄せた表情をぼんやり思い出した。
鈍い音を響かせながら大砲を撃ち合う二隻の戦艦をしり目に、デヒティネは一気に外海へと滑り出す。
内海とは比べものにならない、おおらかで激しい風が吹いてきた。
ゲイルの指笛の調子が変わった。
ただ呼び寄せるだけでなく、調整もできるものだ。シルフィも見習い、真似をする。
小競り合いも煤けた空気も関係のない世界へと、今、デヒティネは乗り出したのだ。
無限に続いているように見える大空と、大海原の波濤に、さっきまでの恐怖はあっという間に霧散していく。
広大な空間は、勝手気ままに駆け回る、風の動物たちで賑やかだ。
デヒティネも喜びを我慢できないのか、船首像が高らかな笑い声をあげはじめていた。
[第一章 風を操る少女 了]