- 1 - どんづまりの街
文字数 1,310文字
シルフィは弟のウィルの小さな手を握ると、こっそりと建物の外、表通りと裏通りを繋ぐ、暗く狭い路地に出た。
これ以上、両親の怒鳴り合う声を聞いていたくなかったからだ。
この一帯は、ウィロウ地区と呼ばれている、スラム街すれすれの貧しい地域だ。
世界でも有数の都市、トライゴズ認王国の首都アーンバラの西のどんづまり、大きな港湾のすぐ近くにある。
華やかな中心街からそう遠くはないというのに、周りに並んでいるのは古びたレンガ造りの今にも倒壊しそうな住宅ばかり。それぞれの狭い部屋には、貧しい家族たちがぎゅうぎゅうに詰め込まれて住んでいる。
街灯もない暗い細い道に、ふいにはしゃぐ声が迷い込んできたように一瞬響いて、虚しく消えた。
夜更けの裏通りを行く、酔っぱらった帆船乗りと、相手をする女の声だ。
シルフィは反射的にその方向に視線を向けたが、見えたのは通り過ぎる女の、派手な色のショールの房飾りだけだった。
姉弟二人で並んで壁にもたれ、ため息をつく。ウィルは手をぎゅっと握って来た。
「シルフィ、寒いよ」
「もう少し待ちな。ケンカなんて、すぐ終わるよ」
抱き寄せながら言い聞かせる。本当は、そんな保証などどこにもなかった。それでもシルフィは、弟の不安な顔を見たくなかった。
「ねえシルフィ、あれ、やってよ」
ウィルはそうせがんだ。二人には、こんな風に時間を潰さなければいけないときの定番があった。
「よぉし」
シルフィは自分の指を、子供用ドレスの裾でいったん拭いてから、口に当てた。
安物の生地でろくに洗濯もしていないものだが、まあそんなものでも、拭かないよりはましだろう。……たぶん。
そうやってから吹いたのは、軽い指笛。近所にうるさいと怒鳴られない程の音量を心がける。
びゅう。
小さな風が吹き、石畳に落ちていた葉と木屑を巻き上げた。そのまま、路地を吹き抜けていく。
シルフィが見様見真似で覚えた指笛で呼べる風は、それが限界だった。
「すごい、すごい」
それでも、ウィルははしゃいで手を叩いた。シルフィは離れていく風を見送る。
実は彼女には、風の姿は小さなネズミに見えていた。
なぜか、生まれたときからシルフィには風がなにかの動物に見えることがしょっちゅうだった。
でも、誰にも言ったことはない。
おかしなこと、人と違うことを言えばそれをあげつらわれ、排斥やいじめの口実にされる。そんな世界で生きていれば、余計なことは口にしないことが自然と身につく。
本当は、もっと色々なことができたらいいのに、とも思う。たとえば、魔術工なら。
年に何回か、職にあぶれた彼らのうちの誰かが、小銭稼ぎの大道芸を見せに近所に回ってくる。
空中からウサギを出したり、バラのつぼみを一瞬で咲かせたり。
それに比べて、弟を喜ばせる方法をこれしか知らないのは、なかなかに情けない。
ばぁん!!
突然大きな音を立てて、ドアが開いた。父親のティムが足音も荒く出てくると、シルフィたちを一瞥だけして、無言で路地を出て行った。
いつものように、飲み屋に行くのだろう。
ろくでもないことだったが、とにかくこれで、家の中は静かになった。姉弟は手を繋いだまま、自宅へと戻った。
これ以上、両親の怒鳴り合う声を聞いていたくなかったからだ。
この一帯は、ウィロウ地区と呼ばれている、スラム街すれすれの貧しい地域だ。
世界でも有数の都市、トライゴズ認王国の首都アーンバラの西のどんづまり、大きな港湾のすぐ近くにある。
華やかな中心街からそう遠くはないというのに、周りに並んでいるのは古びたレンガ造りの今にも倒壊しそうな住宅ばかり。それぞれの狭い部屋には、貧しい家族たちがぎゅうぎゅうに詰め込まれて住んでいる。
街灯もない暗い細い道に、ふいにはしゃぐ声が迷い込んできたように一瞬響いて、虚しく消えた。
夜更けの裏通りを行く、酔っぱらった帆船乗りと、相手をする女の声だ。
シルフィは反射的にその方向に視線を向けたが、見えたのは通り過ぎる女の、派手な色のショールの房飾りだけだった。
姉弟二人で並んで壁にもたれ、ため息をつく。ウィルは手をぎゅっと握って来た。
「シルフィ、寒いよ」
「もう少し待ちな。ケンカなんて、すぐ終わるよ」
抱き寄せながら言い聞かせる。本当は、そんな保証などどこにもなかった。それでもシルフィは、弟の不安な顔を見たくなかった。
「ねえシルフィ、あれ、やってよ」
ウィルはそうせがんだ。二人には、こんな風に時間を潰さなければいけないときの定番があった。
「よぉし」
シルフィは自分の指を、子供用ドレスの裾でいったん拭いてから、口に当てた。
安物の生地でろくに洗濯もしていないものだが、まあそんなものでも、拭かないよりはましだろう。……たぶん。
そうやってから吹いたのは、軽い指笛。近所にうるさいと怒鳴られない程の音量を心がける。
びゅう。
小さな風が吹き、石畳に落ちていた葉と木屑を巻き上げた。そのまま、路地を吹き抜けていく。
シルフィが見様見真似で覚えた指笛で呼べる風は、それが限界だった。
「すごい、すごい」
それでも、ウィルははしゃいで手を叩いた。シルフィは離れていく風を見送る。
実は彼女には、風の姿は小さなネズミに見えていた。
なぜか、生まれたときからシルフィには風がなにかの動物に見えることがしょっちゅうだった。
でも、誰にも言ったことはない。
おかしなこと、人と違うことを言えばそれをあげつらわれ、排斥やいじめの口実にされる。そんな世界で生きていれば、余計なことは口にしないことが自然と身につく。
本当は、もっと色々なことができたらいいのに、とも思う。たとえば、魔術工なら。
年に何回か、職にあぶれた彼らのうちの誰かが、小銭稼ぎの大道芸を見せに近所に回ってくる。
空中からウサギを出したり、バラのつぼみを一瞬で咲かせたり。
それに比べて、弟を喜ばせる方法をこれしか知らないのは、なかなかに情けない。
ばぁん!!
突然大きな音を立てて、ドアが開いた。父親のティムが足音も荒く出てくると、シルフィたちを一瞥だけして、無言で路地を出て行った。
いつものように、飲み屋に行くのだろう。
ろくでもないことだったが、とにかくこれで、家の中は静かになった。姉弟は手を繋いだまま、自宅へと戻った。