文字数 1,535文字

 翌朝、家族に別れを告げ、港で乗組員たちと合流すると、デヒティネに向かうボートに乗った。
 朝霧がまだ濃く、世界じゅうがまだ眠っているように感じられた。オールを漕ぐ音も、船の木材が軋む音も、夢の中で聞く音のように、どこか遠く感じる。
 シルフィは袖を何度も神経質にこすった。
 初めて着たときはブカブカだったそれも、ホリーがあちこちを詰めてくれたおかげで、今ではぴったりとしていて、自分の皮膚の一部のようだ。襟の裏には、シルフィの誕生日の守護精霊リーイの護符がホリーの手で縫いつけてあった。
 ただ、なんとなく居心地も悪かった。昨日、かなり久しぶりの風呂に入ったからだ。
 洗濯仕事をしている近所の人間から、ホリーが洗い桶を借りて来て湯を張り、ごしごしと擦るようにして全身を洗ってくれた。
 くすぐったいのと嬉しいのではしゃいだが、いざ今日になってみると、おかしな気分になった。小ざっぱりしているのに慣れていないのだ。
 しかし、ゲイルは褒めてくれた。

「船なんて、一人がなんかの菌を持ってたら、あっという間に全員に伝染るからな。清潔にして損はない。おまえの親は頭が回るな」

 シルフィは自慢げに鼻の下を擦った。親を評価されるなんて、初めてのことだったからだ。
 デヒティネに近づくと、一昨日見たときよりも低くなっていた。積み荷が重いので、喫水が深くなっているのだ。
 ちなみに積み荷の中味は、高地(ハイランド)と呼ばれる地域から運ばれてきた、何ヶ月も保つ特殊な氷だった。
 認王国だけの特産品で、さまざまな大陸との取引に使われている。
 氷じたいは他の場所でも作ることはできる。しかし、長持ちさせるとなると別だ。
 ハイランドの氷は、一年中のほとんどが凍っている広大なエノレ湖に張ったものを切り出したものだ。
 それを、ハイランドの木材で作られた特殊な箱に入れる。それに魔術工たちが門外不出の特殊な封印を施す。そうすると、その箱から取り出しさえしなければ、半年ぐらいは溶けずに()つのだ。
 さらにデヒティネのように、木箱と同じ産地、つまりハイランド産の木材で造られた船なら、運んでいるあいだの溶ける速度も他と比べてゆるやかになる。
 地律魔法の効果をうまく利用した、認王国にとっては貴重な輸出品だった。
 これらの氷は、食品の保存や室内の冷房などに使われているという話だった。
 たしかに、船体に近づくと気温が一・二度下がったような気がした。
 甲板に上がると、重い錨を引き上げるために、屈強な水夫のほとんどが、掛け声をかけながら身体を斜めに傾けて巻き上げ機を回していた。
 船尾へ向かい、船長室への階段を降りる。しかしそちらには行かず脇の通路に入ると、小さなドアを開いた。
 そこは小さい部屋になっていた。船長のものよりは狭いが、一般水夫たちが寝起きする相部屋の船室(キャビン)とは独立した部屋だ。
 簡素な造りではあったがベッドまである。
 シルフィは知らなかったが、これはメインクルーたちにしか許されない、かなりの特権だった。
 風呼びは特殊能力の持ち主なので、一般水夫に比べれば当然、圧倒的に数が少ない。待遇を良くしなければ確保すらできなくなるので、どこの船でも破格の待遇にするのが普通のことだった。
 ただベッドはひとり分だけで、反対側の壁よりには使い古されたハンモックが吊ってあった。

「おまえが寝るのはそっちだ」

 ゲイルは当然のように言い、シルフィも特に疑問には思わなかった。いやむしろ、本来シルフィのような下っ端なら相部屋に放り込まれて当然なので、これはずいぶん気を遣った処遇だった。

「よし。檣楼に登るぞ」

 そう言われ、私物を入れてきた小さい布袋をハンモックに放り込み、すぐに部屋を出て、持ち場へ向かう。
 船はすでに動き始めていた。
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