文字数 1,639文字
その日も、ちょっとした風の調整を任されて、シルフィは指笛を吹いていた。この日は、ゲイルは隣で居眠りしていた。
なんでもない、ごくあたりまえの日常のはずだった。
だが、急に船の軋む音が大きくなった。いつもはどこかリズムを刻んでいるような調子なのに、それとは違い、まるで不満の唸り声をあげたようでもあった。
それに自分でも、なにかに身体を引っ張られるような、おかしな感覚がある。
シルフィは指笛をやめ、檣楼の端から頭を出し、下を覗いた。操舵を任されている二等航海士のジェリーが、引っ張られている力とは逆方向に行こうと、ものすごい勢いで操舵輪を回しているのが見える。
帆桁の向きを変えるロープが引かれ、操帆手たちもあっというまに総動員だ。
「ゲイル、ゲイル、起きて」
隣の身体を揺さぶると、あぁ?と寝ぼけた声をあげながら、目を開いた。
「なんかおかしいよ」
そう言っているあいだに、操帆手たちが伝言形式で下からの指示を伝えてきた。
「沖合に引っ張られてる。戻るために、もっと強い風を呼んでくれ」
引っ張られる、なんて表現は、本来海上ではありえないはずだ。
「どういうことさ、ゲイル」
「わからん。とにかく今は指示に従おう」
「うん」
二人で懸命に指笛を吹くが、どうにも呼べる風がない。
さっきまで順調に吹いていた、豊かな魚群のような姿をしていた風も、数十匹、また数十匹と減っていき、どんどん群れの形が崩れていく。
下では補助帆まで張りはじめたが、効果はないようだった。
船足はどんどんと遅くなる。レイディが不満の唸り声をあげているのが檣楼まで響いてきた。
やがて風はすっかりなくなり、気がつくと、いつのまにか船は白い霧にすっかり包まれてしまっていた。
さらにおかしなことには、さっきまで騒がしかった甲板の人間の声や音も、突然聞こえなくなった。
どうしたのかと下を覗いてみたが、たったそれだけの距離なのに、濃い霧のせいでなにも見えない。
「ゲイル」
急に不安を感じて、隣に声をかける。しかし、返事はない。
驚いて見つめると、ゲイルはうつろな目をして、ただ、座っていた。指笛もまったく吹かなくなっている。
「どうしたんだよ、なにが起こってるのか、教えてよ」
身体を揺すってみるが、まるで布人形のように、シルフィの力に合わせてぐにゃぐにゃと動くだけ。しばらくそうやっていたが、らちがあかないので結局あきらめた。
やがて、霧の合間から、不思議な音が聞こえてきた。
若い女性の、澄んだ歌声のようだった。惹きつけられる声音だが、なにか不穏さもはらんでいる。
「ああ、そうだな」
急に、ゲイルが口をきいた。
「なにが?」
シルフィは聞き返す。しかし、シルフィに言ったわけではないようだった。
「ブラストも一緒なのか、いいな。待っていろ、すぐに行く」
意味不明なことを言いながら、マストから飛び降りようとした。
「ちょっと、待ってよ。駄目だよ、なにやってんだ」
止めようとあわてて抱きつくが、とてもじゃないが力ではかなわない。
シルフィは急いで近くにぶら下がっていたロープを取り、ゲイルの身体に巻きつけた。
だがそうされても、ゲイルは動きを止めない。飛び降りようとしては、そのたびにロープに引き戻されている。
それを、こりもせずに何度も繰り返す。
とっさに縛りつけられたロープなんて、普段ならなんなく自分ではずせるはずなのに、今のゲイルは、飛び降りること以外に頭がまったく働いていないようだった。
いつもなら頼りがいのある師匠のこんな姿に、シルフィの不安は急速につのる。
誰か助けを頼めないかとまわりを見回したが、驚いたことに、さっきまでばたばたと活発に働いていた連中がすっかりいなくなり、操っていたはずのロープにも動きがまったくなくなっている。
船足も、いまや完全に止まっていた。
白い霧は、どんどん濃くなってきている。
どうにも視界が働かないので、シルフィは状況を誰かに訊くために、とにかく甲板に降りてみることにした。
なんでもない、ごくあたりまえの日常のはずだった。
だが、急に船の軋む音が大きくなった。いつもはどこかリズムを刻んでいるような調子なのに、それとは違い、まるで不満の唸り声をあげたようでもあった。
それに自分でも、なにかに身体を引っ張られるような、おかしな感覚がある。
シルフィは指笛をやめ、檣楼の端から頭を出し、下を覗いた。操舵を任されている二等航海士のジェリーが、引っ張られている力とは逆方向に行こうと、ものすごい勢いで操舵輪を回しているのが見える。
帆桁の向きを変えるロープが引かれ、操帆手たちもあっというまに総動員だ。
「ゲイル、ゲイル、起きて」
隣の身体を揺さぶると、あぁ?と寝ぼけた声をあげながら、目を開いた。
「なんかおかしいよ」
そう言っているあいだに、操帆手たちが伝言形式で下からの指示を伝えてきた。
「沖合に引っ張られてる。戻るために、もっと強い風を呼んでくれ」
引っ張られる、なんて表現は、本来海上ではありえないはずだ。
「どういうことさ、ゲイル」
「わからん。とにかく今は指示に従おう」
「うん」
二人で懸命に指笛を吹くが、どうにも呼べる風がない。
さっきまで順調に吹いていた、豊かな魚群のような姿をしていた風も、数十匹、また数十匹と減っていき、どんどん群れの形が崩れていく。
下では補助帆まで張りはじめたが、効果はないようだった。
船足はどんどんと遅くなる。レイディが不満の唸り声をあげているのが檣楼まで響いてきた。
やがて風はすっかりなくなり、気がつくと、いつのまにか船は白い霧にすっかり包まれてしまっていた。
さらにおかしなことには、さっきまで騒がしかった甲板の人間の声や音も、突然聞こえなくなった。
どうしたのかと下を覗いてみたが、たったそれだけの距離なのに、濃い霧のせいでなにも見えない。
「ゲイル」
急に不安を感じて、隣に声をかける。しかし、返事はない。
驚いて見つめると、ゲイルはうつろな目をして、ただ、座っていた。指笛もまったく吹かなくなっている。
「どうしたんだよ、なにが起こってるのか、教えてよ」
身体を揺すってみるが、まるで布人形のように、シルフィの力に合わせてぐにゃぐにゃと動くだけ。しばらくそうやっていたが、らちがあかないので結局あきらめた。
やがて、霧の合間から、不思議な音が聞こえてきた。
若い女性の、澄んだ歌声のようだった。惹きつけられる声音だが、なにか不穏さもはらんでいる。
「ああ、そうだな」
急に、ゲイルが口をきいた。
「なにが?」
シルフィは聞き返す。しかし、シルフィに言ったわけではないようだった。
「ブラストも一緒なのか、いいな。待っていろ、すぐに行く」
意味不明なことを言いながら、マストから飛び降りようとした。
「ちょっと、待ってよ。駄目だよ、なにやってんだ」
止めようとあわてて抱きつくが、とてもじゃないが力ではかなわない。
シルフィは急いで近くにぶら下がっていたロープを取り、ゲイルの身体に巻きつけた。
だがそうされても、ゲイルは動きを止めない。飛び降りようとしては、そのたびにロープに引き戻されている。
それを、こりもせずに何度も繰り返す。
とっさに縛りつけられたロープなんて、普段ならなんなく自分ではずせるはずなのに、今のゲイルは、飛び降りること以外に頭がまったく働いていないようだった。
いつもなら頼りがいのある師匠のこんな姿に、シルフィの不安は急速につのる。
誰か助けを頼めないかとまわりを見回したが、驚いたことに、さっきまでばたばたと活発に働いていた連中がすっかりいなくなり、操っていたはずのロープにも動きがまったくなくなっている。
船足も、いまや完全に止まっていた。
白い霧は、どんどん濃くなってきている。
どうにも視界が働かないので、シルフィは状況を誰かに訊くために、とにかく甲板に降りてみることにした。