文字数 1,565文字

 さて、そこからが長かった。
 デスクに辿り着いた人は、えてして長々と自分の要件を喋り、相手をする女性はそれを無表情に聞きながら書類に目をやり、スタンプを押す。
 それが延々と繰り返されているのだ。
 あまりの時間のかかりぶりに、その間にシルフィはゲイルに自分の名前のサインの仕方を教わることができた。後で必要らしい。
 捺印でもいいのだが、どうせ列は遅々として進まないから、と教えてくれた。
 そしてそれは、シルフィが初めて読み書きを教わった瞬間だった。
 そんな風にして、気の遠くなるような時間待っているうち、唐突に、入口の方向からざわめきが聞こえてきた。
 背伸びしてみたが、シルフィの背の高さでは他の人間たちに阻まれて、見ることはできない。ただ、ひそひそと呟く周りの声だけが聞こえてきた。

「軍人たちじゃないか」

「なんだい、急に……」

 そのうちに、硬い靴底の足音と腰に下げた剣の音を響かせながら、二十人ほどの男たちが近づいてきた。紺色に金モールの上衣、揃いの色の三角帽。海軍の連中だ。当然のように並んでいた人々を押しのけ、カウンターの前まで進む。
 列にいた人々は、眉を顰めた。しかし、ひそひそと囁くだけで、直接彼らに対してなにかを言う者はいない。というか、下手をすると水夫に強制徴用されてしまうので、できる限り関わりたくないのだ。
 対象にされかねない若い男などは、ほとんど脊髄反射的に、さっさと逃げ出し始めていた。
 そもそも、海軍士官がこんなに大挙して押し寄せてきているのが、異例だ。まるで威嚇されているような状態に、シルフィはイライラが募った。
 それでつい、最後尾にいた少年がぶつかってきたとき、大声を出してしまった。

「あんたたち、ずっと待ってた人たちを、なんだと思ってるんだい」

 少年はびっくりしたようだった。体勢を立て直すと、まじまじとシルフィを見る。

「出撃予定が早まったんだ。手続きを急ぐ」

 言い訳めいた説明に、シルフィはつい言葉を続けた。

「だったら、ひと言でも添えればいいだろ。列を無視してすまない、って」

 ずけずけとシルフィが言っているうちに、少年本人より、周りを囲んでいる面々の顔色が、目に見えて変わっていった。

「この小娘はなんだ」

「不敬罪だぞ、わかっているのか!」

 とうとう、一番年かさの士官が喚いた。それを聞いて、ゲイルの顔色も変わった。

「ふけいざい?」

 シルフィがきょとんとしていると、さらに言葉が続いた。

「こちらのお方は、わが認王国の第三王子、ワイアット殿下だぞ。なんて失礼な口のききようだ!」

 ゲイルはいそいでシルフィの腕を掴み後ろに引っ張ると、頭に手をやり無理矢理下げさせた。
 それでもシルフィはあまりピンときていなかった。
 王族の顔も名前も、自分が暮らしているような貧民街、国政から忘れられた街では、知る必要もなかったからだ。
 シルフィにとって目の前にいるのは、まだ成長途中の針金みたいな体格の、頼りなさそうな少年でしかなかった。
 しかし、周りの連中はそうではなかったらしい。
 まるでシルフィが伝染病の感染源でもあるように、あっという間に人が離れていき、気がついたら広い空間に、シルフィとゲイル、王子とやらと取り巻きの軍人だけが存在するようになっていた。
 ざわめきに満たされていた神殿内も、急に静寂に包まれる。
 カウンターでスタンプを押していた巫女たちは、なぜか急に自分のサンダルの調子を点検しなければいけなくなったらしく、揃って机の陰に身をかがめた。

「どうかお許しを。こいつは風呼びです。国にとっても貴重な人材のはず。礼儀は言ってきかせますから、今回だけはどうか見逃してくれませんか」

 ゲイルが言うが、怒鳴った軍人の態度は軟化しなかった。ゲイルの手に力がこもり、シルフィはさらに頭を下げなければならなかった。

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