- 3 - 怒りの風
文字数 1,752文字
この揺れは、波の力ではない。
なにが起こっているのかわからず、シルフィは混乱した。
『ギィィィィエェェェェェェェェーーーーーーッッ』
船首から、奇妙な音が聞こえる。
船の木材が軋む音に、首を絞められた女の悲鳴が混ざったような、聞いたことがない音だった。
仰天したシルフィは立ちあがり、音のする方へ顔を向けた。
船首像のレイディが、まるで船から離れようとでもするように、ガタガタと大きく揺れていた。それに合わせて、船が揺れるだけでなく、加えてあちこちが激しく
「まずい」
いつのまにか隣にいたピーティーが、呟いた。
「なにがまずいの、今のこれ、どうなってるの」
シルフィが訊くと、血の気の引いた顔で答える。
「船長がやられると、船は動揺する。特別な繋がりがあるんだ。デヒティネは今、パニック状態だ。下手すると分解しちまうぞ」
さすがにもうどうにもならないと思ったのだろう。
乗りこんでいた海盗賊たちはあっけなく、次々に逃げ出していった。
命あっての物種、というやつだ。
船尾楼では倒れたケリーソンに覆いかぶさるようにして、ニックが必死に声をかけている。
ジェリーは舵輪を取り戻したのはいいが、まともに立っていられず、しがみついているしかないようだった。
レイディのたてる叫び声はさらに大きくなり、船体は左右に大きく揺れ、まるで振り子のようだった。
平和だった時間に、ゲームに使った板が吹っ飛んで、バタバタと騒がしい音をたてながら海へと落ちていった。
ハッチカバーの左舷側にいたシルフィは、甲板を勢いよく右舷まで滑った。ピーティーがとっさに腕を伸ばしたが、つかみそこねた。
勢いがついて、船からそのまま飛び出しそうになる。
なんとか必死で舷縁につかまったが、上半身はそのまま勢いあまって外側へと大きく乗り出した。
その視界に映ったのは。
我先にと自分たちの船に乗りこみ、デヒティネから一目散に離れようとする海盗賊たちの姿だった。
それを見た瞬間、胸のなかに突然、どす赤いものが噴き出した。
それは溶岩のように一気に血管を流れ、まるで全身が沸騰しているように感じさせる。
そしてその熱は、思考も、損得も、利害も、なにもかもを一瞬で蒸発させてしまった。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああーーーーーーッッ!」
身体の内側から、奇妙な音が流れ出していた。
音の塊が咽喉を焼きながら通り、外に向かって噴き出していた。もしもそれが目に見えるものなら、今、シルフィの口から滝のようにほとばしり出ているのがわかっただろう。
頭のなかでは、記憶がフラッシュバックしていた。
路上での物売り。
買い出しに来た立派なお屋敷の女中にバカにされた口をきかれても、脂ぎったじじいに下品な冗談を言われても、買ってもらうために愛想笑いを浮かべた。
意地の悪い連中にわざとぶつかってこられてころび、大切な商品を泥だらけの道にぶちまけてしまったときは、なにより自分が情けなかった。それを見ている同業者たちの、感情を失った目。
家にまでおしかけてきた借金取りに殴られるままの父親。
疲れたため息をつきながら、徹夜で繕い物を仕上げる母親。
強い者が権力や暴力をふりかざせば、弱い者はただただ押しつぶされるしかない。
そんな世界で、ずっと、生きてきた。
そんな世界から、やっと、抜け出せたと思っていた。
明るい空、威勢のいい風、きらきらと光る海。
ここは、シルフィが生まれ育った腐った世界とは、違うのだと思っていた。
どこまでも自由で、自分の望みをかなえられる場所だと。
だが、今の状況はどうだ。
ケリーソンは血だまりのなかに倒れ、レイディは異様な叫び声をあげ続け、船は今にも壊れそうだ。
まさにこの瞬間、シルフィが信じてよかったはずの光満ちる世界が、突然醜く変貌し、崩壊しようとしていた。
許してはいけない。
あたしの世界を壊した奴らに、重い罰を。
理由のない確信めいた感情が、硬い岩のような塊になって、足もとから頭のてっぺんまで一気に昇ってきた。
シルフィは叫ぶのをやめ、指を口元まで持っていった。
理不尽な暴力に泣き寝入りしていた生活はもう終わりだ。
今の自分なら、復讐ができる。
そのための能力は、もう、手に入れているのだ。