- 3 - 歌姫たち
文字数 1,743文字
霧が晴れたあとのデヒティネの航海は、また順調なものに戻った。
乗組員たちも意識が元通りになり、ロープで縛りつけられていることに驚きはしたが、それさえ解 けば、あとは何ごともなかったかのように通常業務に戻った。
まあ、あの異様な状態のあいだ、当の本人たちは意識がなかったのだ。そのせいで現実味がいまいちなのだろう。
前にピーティーが怪談めかして言っていた、「いつのまにかいなくなっている」というのも、けっきょくそのあいだの記憶がないことが原因に違いない。
とはいえ、人魚あるいはセイレーンの存在も、なくなったベーコンのことも、ケリーソンに報告こそ済ませたが、シルフィにしたってとっさの対処でなんとか乗り切っただけで、正直わからないことだらけだった。
ただ、船を救った英雄として、みんなにやたらと英雄扱いされるようになった。それまでは経験不足の下っ端扱いだったのが一気に変わり、正直照れくさいうえにくすぐったい。
褒美として今後の給料の三割増しと、週に一度、船長と同じ特別メニューの食事をしていいことになったのは、素直に嬉しかったが。
あの風を育てる技も、せっぱつまった状況でなくなったからか、もうできなくなっていた。もしかしたら、人魚の魔力の影響もあったのかもしれない。
それでも、あれがいつでもできるようになれば、絶対に役に立つ。だから、シルフィは平常時でもできるように、こっそりと練習することにした。
三日後、目的だったグゥリシア大陸の中西部、鮫牙 湾に着き、湾を代表する港カプ・ゥキャンに補給のため二泊することが決まると、水夫たちは大はしゃぎで下船した。
シルフィもゲイルに連れられて降りた。初めての国外の港に、戸惑いつつも興味津々だった。
久しぶりの微動だにしない地面に、なんだか平衡感覚がつかめない。下船した水夫たちが街をふらふらと歩き回っているのも、酔っ払ってることだけが原因でないのかもしれない。
鮫牙湾じたいもあまり大きいものではなく、周辺の海流も難しいせいか、立ち寄る船はあまり多くはないのだろう。シルフィの住んでいたアーンバラに比べると、カプ・ゥキャンはこぢんまりとした港だった。
唯一の宿も素朴な造りで、木の柱に草を編んだ壁、それもついていない場所もたくさんあり、かなり開放的だ。もっとも、そうでもしないと風が通らず、暑苦しくてしかたないのだろう。
さらに一階は飲み屋と食事処を兼ねているせいで、騒がしくてしかたないが、ここに泊まるしかなかった。
取った個室に荷物を置き、置いてあった水差しとたらいを使って、海風の塩がこびりついた顔を洗うと、すこしすっきりした。
食事を取ろうと階下に降りると、食堂はすっかり酔っぱらった乗組員たちで大騒ぎだった。ゲイルもさすがに陸地では羽目をはずすようで、いつになく真っ赤な顔をして仲間に加わっている。
さらには、外からも勝手にどんどん人が入ってきて、ちょっとした市のようになっていた。商売女や商魂たくましい売り子たちが、これ幸いと売り込みにきているのだ。
長い航海のあと陸にあがって財布の紐が緩んでいる水夫たちは、彼らにとっては上々のカモだ。水夫たちにしたって長い船上生活で溜まったストレスを一気に発散しようと、かなりの前のめりになっている。
そういった連中がにぎやかに盛り上がっているポーチそばの席は避け、奥まった位置の、さらに隅の席を取る。地元野菜を煮込んだシチューとひさしぶりの柔らかいパンをひとり堪能していると、目ざとい売り子が近づいてきた。シルフィの弟のウィルと同じくらいの年齢の少女だった。
アーンバラにいた頃は、シルフィも同じような仕事をやっていた身だ。仲間意識を感じて、なにか買ってやるものはないかと、首から吊るしている盆に載った小物を覗き込んだ。
噛みタバコの包みや酒の瓶がほとんどだったが、そのなかに砂糖菓子の袋をみつけたので、それを選ぶ。
男向けの品揃えのなかにあったのが不思議だったが、売り子が別のテーブルにいったのを見て、納得した。一晩の相手をしてくれる女の機嫌を取るのに、買ってやるものらしい。
そんな姿をなんとなく眺めていると、ふいに視界を遮るようにして立った者がいた。
リッチーだ。
「よう、シルフィ」
乗組員たちも意識が元通りになり、ロープで縛りつけられていることに驚きはしたが、それさえ
まあ、あの異様な状態のあいだ、当の本人たちは意識がなかったのだ。そのせいで現実味がいまいちなのだろう。
前にピーティーが怪談めかして言っていた、「いつのまにかいなくなっている」というのも、けっきょくそのあいだの記憶がないことが原因に違いない。
とはいえ、人魚あるいはセイレーンの存在も、なくなったベーコンのことも、ケリーソンに報告こそ済ませたが、シルフィにしたってとっさの対処でなんとか乗り切っただけで、正直わからないことだらけだった。
ただ、船を救った英雄として、みんなにやたらと英雄扱いされるようになった。それまでは経験不足の下っ端扱いだったのが一気に変わり、正直照れくさいうえにくすぐったい。
褒美として今後の給料の三割増しと、週に一度、船長と同じ特別メニューの食事をしていいことになったのは、素直に嬉しかったが。
あの風を育てる技も、せっぱつまった状況でなくなったからか、もうできなくなっていた。もしかしたら、人魚の魔力の影響もあったのかもしれない。
それでも、あれがいつでもできるようになれば、絶対に役に立つ。だから、シルフィは平常時でもできるように、こっそりと練習することにした。
三日後、目的だったグゥリシア大陸の中西部、
シルフィもゲイルに連れられて降りた。初めての国外の港に、戸惑いつつも興味津々だった。
久しぶりの微動だにしない地面に、なんだか平衡感覚がつかめない。下船した水夫たちが街をふらふらと歩き回っているのも、酔っ払ってることだけが原因でないのかもしれない。
鮫牙湾じたいもあまり大きいものではなく、周辺の海流も難しいせいか、立ち寄る船はあまり多くはないのだろう。シルフィの住んでいたアーンバラに比べると、カプ・ゥキャンはこぢんまりとした港だった。
唯一の宿も素朴な造りで、木の柱に草を編んだ壁、それもついていない場所もたくさんあり、かなり開放的だ。もっとも、そうでもしないと風が通らず、暑苦しくてしかたないのだろう。
さらに一階は飲み屋と食事処を兼ねているせいで、騒がしくてしかたないが、ここに泊まるしかなかった。
取った個室に荷物を置き、置いてあった水差しとたらいを使って、海風の塩がこびりついた顔を洗うと、すこしすっきりした。
食事を取ろうと階下に降りると、食堂はすっかり酔っぱらった乗組員たちで大騒ぎだった。ゲイルもさすがに陸地では羽目をはずすようで、いつになく真っ赤な顔をして仲間に加わっている。
さらには、外からも勝手にどんどん人が入ってきて、ちょっとした市のようになっていた。商売女や商魂たくましい売り子たちが、これ幸いと売り込みにきているのだ。
長い航海のあと陸にあがって財布の紐が緩んでいる水夫たちは、彼らにとっては上々のカモだ。水夫たちにしたって長い船上生活で溜まったストレスを一気に発散しようと、かなりの前のめりになっている。
そういった連中がにぎやかに盛り上がっているポーチそばの席は避け、奥まった位置の、さらに隅の席を取る。地元野菜を煮込んだシチューとひさしぶりの柔らかいパンをひとり堪能していると、目ざとい売り子が近づいてきた。シルフィの弟のウィルと同じくらいの年齢の少女だった。
アーンバラにいた頃は、シルフィも同じような仕事をやっていた身だ。仲間意識を感じて、なにか買ってやるものはないかと、首から吊るしている盆に載った小物を覗き込んだ。
噛みタバコの包みや酒の瓶がほとんどだったが、そのなかに砂糖菓子の袋をみつけたので、それを選ぶ。
男向けの品揃えのなかにあったのが不思議だったが、売り子が別のテーブルにいったのを見て、納得した。一晩の相手をしてくれる女の機嫌を取るのに、買ってやるものらしい。
そんな姿をなんとなく眺めていると、ふいに視界を遮るようにして立った者がいた。
リッチーだ。
「よう、シルフィ」