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 タグボートのロープが外され、進路から外れていく。充分に離れた頃合いを見計らって、ケリーソンは号令をかけた。

「総帆展帆! 全速で追いつくぞ!」

 檣楼で待機していたゲイルとシルフィも、立ち上がり、指笛を吹き始めた。
 渦巻く風が上空から降りてきて、猟犬の形を取った。帆の周りを、吠え声こそあげないが、狩りを始めるときに一斉に走りだす姿そのものだ。まるで今の乗組員たちの相手を追いつめようとする決意が、そのまま具象化したようだ。
 暗い海では、相手を視認するのは難しい。頼りになるのは灯りだけだったが、相手もそれに気づいたのだろう。追われているとわかったあたりのタイミングで、消してしまったようだ。
 あとは月の光だけが頼りだった。あいにく三日月なうえ雲も多く、常に照らしてくれているわけでもなかったが、雨ではないだけマシというものだ。
 昼間なら出入りする船で騒がしい一帯の海域も、今はわずかな月光を反射する波面が広がるだけで、絵のような静けさが妙にあった。
 船倉が空のデヒティネはあっという間に、相手の船のすぐ後ろに追いついた。デヒティネの半分ほどのサイズで、マストも二本だ。沿岸伝いの輸送がせいぜいの、小ぶりな帆船だった。
 全体的にあちこちが痛んでいるし、艤装(ぎそう)も明らかに貧相だ。とてもじゃないが羽振りのいい船には見えなかった。
 ジェラニから蝶の印のことを聞いたケリーソンには、心当たりがあった。商会から出てきたときに声をかけてきたあの胡散臭い男だ。
 仕事がなくて行きづまっている船を狙って雇おうとしたのだろう。
 もしもあの話にのっていたら、デヒティネがこんなふうに人さらいの道具に使われたのかもしれない。そう考えると寒気がした。
 檣楼では、ゲイルもシルフィもいったん風呼びをやめていた。すでにスピードに乗っているので無理に風を呼ばなくてもよくなったのと、今目にしているものを確かめたかったからだ。
 上から見ているとよくわかるのだが、相手の船全体が、なにか黒い霧のようなものに覆われている。進ませているのは風ではなく、この霧のような瘴気だった。
 その証拠に、檣楼に風呼びの姿がない。
 そこには荷袋がくくりつけられていて、開いた口から流れ出る黒い瘴気が、ろくに繕われてもいない帆に風の代わりに絡みついていた。

「どういうこと、これ」

「外律魔法だ。こんなもの頼りにしてるなんて、ろくな船じゃないぞ」

「そんなのはわかってただろ」

「ああ、まあ、そうだな……。人さらいだもんな。しかし、こりゃあ……、船がかわいそうだ」

 ゲイルの言う通りだった。
 デヒティネが並走に入ると、相手の船の舳先が見えてくる。視界に入ったものに、シルフィはぞっとした。

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