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 やがて中ほどまで行ったところで、つい、下を見てしまった。
 自分は今、くらくらするような高さにいた。塔にも登ったことのないシルフィには、初めて体験する高さだった。
 視界が急に狭まった気がして、何度もまばたきを繰り返す。
 こわばった身体にも容赦なく風の鳥たちはぶつかってきて、まるで木の枝から実をもごうとしているようだ。
 いつか見た、落ちてぺしゃりと潰れたリンゴを思い出し、シルフィは奥歯を噛みしめる。
 あと一歩だけ。右手を伸ばすだけ。わかっているのに、身体が動かない。下から続いていたゲイルは、しばらく待ったあと、言った。

「今はちょうど真ん中だ。さあ、下に降りるか、それとも檣楼まで登り切るか。どうする?」

「うぅ……」

「どっちを選んだって、俺はお前を責めねぇよ。だが、よく考えるんだな。降りるなら、船の風呼びになる話は終わりだ。そのかわり、危険な目には合わずに済む一生を送れる。登れば、それと逆の未来が待ってる。どっちが賢い選択かなんて、俺にだってわからん」

 シルフィは麻痺したような頭のなかで、必死にその言葉を考える。
 生まれ育った街。
 澱んだ空気と饐えた匂い、工場の煙でできたピリピリする霧がいつもたちこめ、陽がろくに射さないせいでいつも湿っている石畳の、陰鬱な狭い路地。
 二束三文の商材をカゴに入れ、一日じゅう声を枯らして売り歩いて、ようやく手に入れたわずかばかりの売り上げで、その日をなんとか乗り切るだけで精一杯の暮らし。
 あの世界から抜け出せるのだと、初めて、夢を見た。
 今ここで震えている瞬間だって、あそこに戻りたいとはこれっぽっちも思えない。
 そう。それなら、今やるべきことは、決まっている。
 シルフィは震える右手を、ゆっくりと伸ばした。

「いいぞ。焦らなくていい。落ち着いて、慎重に」

 下からゲイルの力強い声が聞こえる。右手を固定させたら、今度は左足。怖くても、無理な力が必要でも、それでも登っていきたい。
 その意志だけで、シルフィは上へと進む。
 ひどく間延びして感じる時間をたっぷり使って、ようやく、……ようやく、檣楼へ手がかかった。
 よじ登ると、へなへなと座り込んだ。
 後から、ゲイルも乗った。その拍子にガタンと揺れたが、びくつく余裕すら、もう残っていなかった。

「よくやった。根性はあるな」

 それからしばらくのあいだ、なにも言わずにただ隣に座っていてくれた。
 風が吹いてくる。やはり、大きな鳥の姿をしている。ロープを揺らし、シルフィの髪を乱し、あっという間に去っていく。皮膚にはりつくようになっていたいやな汗も、乾かしていった。

「ほら、見てみろ」

 シルフィが落ち着いたころ、ゲイルが沖合の空を指さした。
 港を吹いているあいだは鳥の形だった風が、今は馬の姿になっていた。

「大海原の風は、こんな港のちまちました風とは違う。あんなふうに、自由気ままな力強い姿に変わる。わかるか。あれが、俺たちが呼ぶ風だ」

 シルフィは目をこらす。
 馬の形はしていても、自分の知っているそれら、馬車に繋がれ鞭打たれ、不満のいななきを上げている姿とは雲泥の差だった。
 たてがみを靡かせ、足取りも力強く、円を描いたりまっすぐ走ったり。一頭だけでなく、並んで走り回っているものもいた。
 自由。
 全身に喜びをみなぎらせ走る姿は、それの象徴のように見えた。
 あれと共に生きる。
 その生活を予見しただけで、鼓動が高まってきた。

「よし、まずは港の風を集めるところから始めようか……」

 だから、そう言ってゲイルが手本に吹き始めた指笛を、シルフィは熱心に真似し始めた。
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