文字数 1,424文字

 結局昼前になってようやくデスクに着くと、ペンを渡されサインするように言われた。さっそく教わったばかりの名前を書くと、その上からスタンプを押された。

「奥の左三号室へ行くように」

 指示されたので、階段は登らず、その下に伸びる長い廊下を奥へと進んだ。
 あれだけ待たされたのに、目的の用自体はあっという間に終わってしまうのが、どうにも理不尽に思える。
 言われた部屋に入ると、すぐにデスクがあり、書類を提出した。椅子に座って待っているように言われ、ガタガタしてバランスが取りにくい木のベンチの端に座る。
 周りには似たような人間が十人近く待っていた。ここでも好き勝手に喋り続けている人々がいて、下ほどではないが騒がしい。居眠りし始めるほど長く待たされたところで名前を呼ばれ、シルフィは弾かれたように立ち上がった。
 奥のドアを開き、入っていった瞬間、急に世界が変わったような感覚にとらわれた。
 さっきまでの喧騒がまるで嘘のようだ。部屋には誰もいず、奥の沐浴場に設置されている噴水の音だけが響いている。落ち着いた空間。潮の匂いがした。海水なのだ。
 床は途中から階段になっていて、沐浴場に降りられるようになっていた。

「あたし、着替え持ってきてないよ」

 ゲイルに言うと、肩を竦めた。

「今日は手を浸すだけでいい」

 そう言われたので、濡れているので滑らないように慎重に階段を降り、しゃがんでから両手をそっと水に浸した。
 その、次の瞬間。
 沐浴場の水の色が、一瞬でオレンジ色に変わった。
 そのせいで、噴水がまるで揺らめく炎のように見える。
 その炎の熱が、一気に身体のなかを駆け抜けていったような
錯覚に、頭がくらくらした。
 だがそれはほんの一瞬で、水はまた元の色に戻った。
 手を水から引き出すと、右の薬指の根元に、オレンジ色の小さな渦巻き模様と番号がついていた。ついこすってみたが、落ちそうにない。

「それは落ちない。おまえが海の神に認められた証だ。正式になると赤い色になる」

「なんか、やだなあ」

「なにがだ。もしもおまえが海で死んだら、身体がたとえぐちゃぐちゃになってても、その印が浮き上がって身元確認ができるんだぞ。ありがたいと思え」

 ぜんぜん慰めにもなっていないことを言われて、シルフィは口をひん曲げた。
 ただ、『船乗りの仕事は、板一枚下は地獄』という言葉はしょっちゅう聞いていた。それが急に身近になって、焦りに似た気持ちも生まれてきた。

「これでおまえも海へ出られるようになった。予定より遅くなっちまったから、今日はとりあえず残りの時間で、挨拶しておくか」

「挨拶?誰に?」

「行けばわかる」

 ゲイルはそう言うと、足早に部屋を出た。
 手前のデスクにその印を見せると、提出していた書類に新たなスタンプが押され、返された。ゲイルはそれを確かめたあとシルフィに渡し、きちんと取っておけと言った。言われた通りに、それを丁寧に畳んで、ポケットに入れる。その動きを見ていたゲイルが、急に立ち止まった。

「そのまえに、服をなんとかするか。ドレスじゃ危ない。ズボンにしろ」

「ズボンなんて、持ってないよ」

「うーん、そうだな…。ちょっと宿に寄るか。使えそうな古着がある」

 この時代、衣類は貴重品だった。古着でも売り買いされるほどだった。

「それに、食事もしたいしな」

 食事、と聞いて、シルフィの腹が鳴った。これまでのことを見るに、ゲイルはなかなか羽振りがいい。どうやら、まともなものにありつけそうだ。

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