第86話 旅立ち 地図
文字数 2,156文字
炎から現れた堕鬼の紅い目は ほうほうの体で逃げてゆく男を一瞥し、次いで
「おい、放せ!」
祀貴の挑発に応じて力尽くで背中から降りたものの 片足首を掴まれ、罠に掛かった獣の様に、怒り狂って暴れている少年に向けられた。
百鬼弐弧が本気で怯えていたなら、此の堕鬼は迷わず救出に必要な攻撃を行ったに違いない。死に神男との戦いでも 堕鬼らしくない聡明さを見せ ― 行動の源は野性動物の様に本能其のものだと言う気がしたが ひとたび感情を見せると、子供の様に起伏に富んでいる。
体が成長しても 行方を眩ませた幼子の時の儘の心が、変わらず堕鬼の中に在るのだろう。
祀貴の行為は弐弧の身に危険を感じさせない、と言う結論に達したらしく 警戒心が解かれると、紅い目は呆れ半分、興味半分に二人のじゃれ合いを眺めた。
「へー、何か感じ変わんなー」
三人を代表して慧が率直な感想を述べた。
堕鬼は何時ものジャージ姿ではなく 半袖の無地のTシャツに、薄手の黒の半袖ジップアップパーカー デニムパンツに白のスニーカーといった軽快な服装で 大き目のリュックサックを背負っている。
何処かへ旅にでも出るかの様な ―
堕鬼の足元には、更に三人分のリュックサックが転がっていた。
「で、此れが其の地図」
「地図?落書きの間違いだろ」
「トンネル見つけりゃ良いだけじゃん。ラクショーラクショー♪」
「…」
慧が広げた大判の紙を、四つの頭が取り囲み 八つの目で吟味された。弐弧が強引に教室から連れ出されるに至った理由が不明確に描かれている。
「地図」と言うよりは 筆で書かれた下手くそな水墨画だ。
道はぐねぐねとした線で 上部にある目的地には、かまくらみたいな絵が描かれていた。かまくらの周りの濃淡のある滲みは「森」の様に思えたが 其の「森」(とするならば)以外何の目印も無い。
箸にも棒にもかからない絵心のある地図は 赤毛の付き人から、通学途中の慧に手渡された。善の仮面を被って人を騙すのではなく、悪の仮面を被って自身を騙している若君が 言下に断ると見越して慧に託したのだろう。
人外の間では知らぬ者の無い有名な湯治場が在り 食べ物も美味く、稀少な薬も手に入り 何より「鬼師会」の医者が立ち寄る為、万全の態勢で 一月も身を置けば、心身のどんな病も完治するってぇ話でさぁとの事だった。
「目的地は魂癒しの温泉宿、行って見てのお楽しみ って書いてるけど」
「既に楽しくねーし」
「天邪鬼か。まだ始まってもねーうちから下げてくんな」
「…」
軽口を投げ合いながら 四人の足は、早くも歩き始めている。
ヤバ
本当は、高鳴る思いに動悸が苦しい位だった。
廃墟から廃墟へと 尽きる事の無い闇の中を、当て所も無く彷徨い続ける旅ではない。
行く場所が在り 帰る場所が在る ー
其れが こんなにも自身の心を捉えて離さないのだ。緩んでくる顔を引き締めつつ、無関心に徹するのは至難の業だった。
「… っわ ?!
後ろから、引き摺り倒さんばかりにぐいとシャツの裾が引っ張られ 自身の表情筋に集中していた弐弧は声を抑えきれなかった。
動揺だけは隠して振り返った弐弧と目が合うと 裾を掴んだ儘、一縷の口がぱくぱくと動いた。声もないのに、聞こえて来てもおかしくない程 一縷は普通に喋っている。
今日まで 一縷と会話をする日など永遠に来ないと思っていた。一縷の行動に驚いて返事も出来なかったが 目は其の口の動きを追っている。
闇が落ちても大気の熱は消えない。火照る体を持て余し 考える事すら怠くなって来ていたから
にこ
目は、はっきりとそう読み取ったのに 脳に伝達された言葉が留まって動かない。
弐弧の心に声が届いたと知った一縷は嬉しそうに笑った。
にこ
そうして 其れだけではどうも上手く伝わらない様だ、と思ったらしく 左腕を伸ばして指差した。
一縷が指差す方向には 放置の憂き目に遭ったアイスクリームの自動販売機が、哀愁を漂わせて鎮座している。
急速に下げられた熱に、思考が優位を取り戻し ようやっと考えが及んだ。
知らぬ間に 弐弧=アイスクリーム と言う方程式が出来上がっていたらしい。
当の自動販売機は 完全に壊れているのが一目で分かる。
「壊れてるだろ
流れた月日は 無気力だった「自分」を変え 自身の「力」を変わらず残してくれた
今も あの時と同じ思いを抱き
同じ「声」を聞いている ―
「お?アイスじゃん」
不躾な訪問を知らせるが如く、祀貴が自動販売機をガンガンと乱暴に叩き
「アイス食いてー」
慧が抑揚の無い声で悲痛な心情を吐露した。
願いが届いたのか 不意に自動販売機はガタガタと体を軋ませたが 間も無く、永久に動きを止めた。
自動販売機に張り付いた黒い化け物が 氷の向こう側から、濁った紅い眼球で四人を見ている。
「化けもん味のかき氷で良けりゃー食わせてやるよ」
悪戯っぽい笑みに耀く蒼い目を細めて、祀貴が軽く蹴飛ばすと パキンと澄んだ音と共に、氷片が花火の様に綺羅綺羅と光を放ちながら舞い散った。
悪巫山戯の言葉は、多様な返答と白々しい同情の顔を招き
「此の暑さでだいぶキテんなー、お前」
「抑も食いもんじゃねーし。アタマ大丈夫かよ」
「…」
「ああ? テメーら ―
其の後の余りの喧噪の激しさに、黒雲は恐れを為して逃げ去り 青白い月の光が煌々と、戯れ合う少年達を照らし出した。
「おい、放せ!」
祀貴の挑発に応じて力尽くで背中から降りたものの 片足首を掴まれ、罠に掛かった獣の様に、怒り狂って暴れている少年に向けられた。
百鬼弐弧が本気で怯えていたなら、此の堕鬼は迷わず救出に必要な攻撃を行ったに違いない。死に神男との戦いでも 堕鬼らしくない聡明さを見せ ― 行動の源は野性動物の様に本能其のものだと言う気がしたが ひとたび感情を見せると、子供の様に起伏に富んでいる。
体が成長しても 行方を眩ませた幼子の時の儘の心が、変わらず堕鬼の中に在るのだろう。
祀貴の行為は弐弧の身に危険を感じさせない、と言う結論に達したらしく 警戒心が解かれると、紅い目は呆れ半分、興味半分に二人のじゃれ合いを眺めた。
「へー、何か感じ変わんなー」
三人を代表して慧が率直な感想を述べた。
堕鬼は何時ものジャージ姿ではなく 半袖の無地のTシャツに、薄手の黒の半袖ジップアップパーカー デニムパンツに白のスニーカーといった軽快な服装で 大き目のリュックサックを背負っている。
何処かへ旅にでも出るかの様な ―
堕鬼の足元には、更に三人分のリュックサックが転がっていた。
「で、此れが其の地図」
「地図?落書きの間違いだろ」
「トンネル見つけりゃ良いだけじゃん。ラクショーラクショー♪」
「…」
慧が広げた大判の紙を、四つの頭が取り囲み 八つの目で吟味された。弐弧が強引に教室から連れ出されるに至った理由が不明確に描かれている。
「地図」と言うよりは 筆で書かれた下手くそな水墨画だ。
道はぐねぐねとした線で 上部にある目的地には、かまくらみたいな絵が描かれていた。かまくらの周りの濃淡のある滲みは「森」の様に思えたが 其の「森」(とするならば)以外何の目印も無い。
箸にも棒にもかからない絵心のある地図は 赤毛の付き人から、通学途中の慧に手渡された。善の仮面を被って人を騙すのではなく、悪の仮面を被って自身を騙している若君が 言下に断ると見越して慧に託したのだろう。
人外の間では知らぬ者の無い有名な湯治場が在り 食べ物も美味く、稀少な薬も手に入り 何より「鬼師会」の医者が立ち寄る為、万全の態勢で 一月も身を置けば、心身のどんな病も完治するってぇ話でさぁとの事だった。
「目的地は魂癒しの温泉宿、行って見てのお楽しみ って書いてるけど」
「既に楽しくねーし」
「天邪鬼か。まだ始まってもねーうちから下げてくんな」
「…」
軽口を投げ合いながら 四人の足は、早くも歩き始めている。
ヤバ
本当は、高鳴る思いに動悸が苦しい位だった。
廃墟から廃墟へと 尽きる事の無い闇の中を、当て所も無く彷徨い続ける旅ではない。
行く場所が在り 帰る場所が在る ー
其れが こんなにも自身の心を捉えて離さないのだ。緩んでくる顔を引き締めつつ、無関心に徹するのは至難の業だった。
「… っわ ?!
後ろから、引き摺り倒さんばかりにぐいとシャツの裾が引っ張られ 自身の表情筋に集中していた弐弧は声を抑えきれなかった。
動揺だけは隠して振り返った弐弧と目が合うと 裾を掴んだ儘、一縷の口がぱくぱくと動いた。声もないのに、聞こえて来てもおかしくない程 一縷は普通に喋っている。
今日まで 一縷と会話をする日など永遠に来ないと思っていた。一縷の行動に驚いて返事も出来なかったが 目は其の口の動きを追っている。
闇が落ちても大気の熱は消えない。火照る体を持て余し 考える事すら怠くなって来ていたから
にこ
目は、はっきりとそう読み取ったのに 脳に伝達された言葉が留まって動かない。
弐弧の心に声が届いたと知った一縷は嬉しそうに笑った。
にこ
そうして 其れだけではどうも上手く伝わらない様だ、と思ったらしく 左腕を伸ばして指差した。
一縷が指差す方向には 放置の憂き目に遭ったアイスクリームの自動販売機が、哀愁を漂わせて鎮座している。
急速に下げられた熱に、思考が優位を取り戻し ようやっと考えが及んだ。
知らぬ間に 弐弧=アイスクリーム と言う方程式が出来上がっていたらしい。
当の自動販売機は 完全に壊れているのが一目で分かる。
「壊れてるだろ
流れた月日は 無気力だった「自分」を変え 自身の「力」を変わらず残してくれた
今も あの時と同じ思いを抱き
同じ「声」を聞いている ―
「お?アイスじゃん」
不躾な訪問を知らせるが如く、祀貴が自動販売機をガンガンと乱暴に叩き
「アイス食いてー」
慧が抑揚の無い声で悲痛な心情を吐露した。
願いが届いたのか 不意に自動販売機はガタガタと体を軋ませたが 間も無く、永久に動きを止めた。
自動販売機に張り付いた黒い化け物が 氷の向こう側から、濁った紅い眼球で四人を見ている。
「化けもん味のかき氷で良けりゃー食わせてやるよ」
悪戯っぽい笑みに耀く蒼い目を細めて、祀貴が軽く蹴飛ばすと パキンと澄んだ音と共に、氷片が花火の様に綺羅綺羅と光を放ちながら舞い散った。
悪巫山戯の言葉は、多様な返答と白々しい同情の顔を招き
「此の暑さでだいぶキテんなー、お前」
「抑も食いもんじゃねーし。アタマ大丈夫かよ」
「…」
「ああ? テメーら ―
其の後の余りの喧噪の激しさに、黒雲は恐れを為して逃げ去り 青白い月の光が煌々と、戯れ合う少年達を照らし出した。