第53話 鬼子の宴 終宴

文字数 2,996文字

しっかりとした力強い手が弐弧の体を揺さぶったが 目を開けるには至らない。
廃墟に居た時には昼夜が逆転した生活を送っていたから 一晩中起きているのは何の問題も無かった。学校に通い始めて逆転した生活は戻されたが 今でも夜の方が行動するのには適している。昼だろうが夜だろうが 寝られる時に寝ておくのは至極当たり前の事ではないか ― 
「弐弧ー。起きないとなくなっちまうぞ」
頭の中に 慧の声が入って来る。自分の体が深い水底に沈んでいるかの様に 声はぼやけて 視界は真っ暗だった。
今朝 何処とも知れない場所に飛ばされた弐弧を どうやって知り得たのか赤毛の付き人が迎えに来てくれて 其の儘一縷と一緒に帰った ― 滑らかに走る車の単調さに微睡んで ― 其れから
「 … ?
蒼味がかった浅い黄褐色の目と目が合った。あるかないかの薄い笑み。
目の前の光景が 雪崩の様に頭の中に流れ込んで来て
「!?」
突然異世界に放り出されたかの様に 弐弧はがばっと起き上がった。
まだ夢の中に居るのか。ありえない現実と悪い夢との境目がはっきりしない。上半身は反射的に起き上がったが 衝撃を受けた脳は働かず 体は其の儘茫然と固まった。
「 … ? … え 
何がどうなっているのか さっぱり分からない。
「? ?
右手が頭を抱えたが 混乱を止める事は出来なかった。予想外の事でも余りに驚き過ぎると もう悲鳴も上がらない。
自分の部屋に間違い無い。間違いがあるとすれば 
「起きたんなら着替えなさいよ」
「そんな汚い格好で良く寝られるわね」
カレー以上にスパイスの効いた台詞を吐く少女。
「…
黙黙とカレーを食べ続ける人形の様な少女。
「俺は平気だけど?」
共感を口にするも 何処か他人事っぽく話す少年。
そう狭くはないと思っていた部屋が すし詰め状態になっている。
部屋はスパイシーな食べ物の匂いと 陽だまりの様な温かい空気に満ちていた。

堕鬼の女との戦いの後、甜伽はずっと学校を休んでいたが 誰も気に留めて等居なかった。空いた儘の席に 言及する者も無かった。
だが 其れは自分も同じだ。
廃墟に居れば 自然そうなる。毎日誰かが 何処かで死を迎えていて いつかは其れが我が身となる。留まる事は出来ない。心を捨てて歩き出さなければ 闇に追い付かれてしまうから。そう知りながらも
自身の心は 甜伽の身を案じないでいられる程 非情にはなれなかった。

こうして 眞輪と甜伽、二人の無事な姿を見れた事に 密かに安堵の息を漏らす。
あの男は双子であり、あの時両方が揃っていた。眞輪の身に起こった残酷な運命を惧れたが 如何する事も出来ない儘、黒焰の渦に捕われた。
今漸く 蟠っていた思いが全て解き放たれると 驚くほど心が楽になった。
慧、甜伽、眞輪 ― 皆 弐弧の命の恩人なのに 礼も言っていない。
だから 礼を返すのが筋という物だと言うのは分かる。だが 何もこんな形で返さずとも ― 赤毛の付き人には感謝しなければならないのだろうが 弐弧が最も苦手とする場を作り上げた事には文句しかない。だが 安堵と、どうにもならない状況にすっかり脱力し 最早どうこうする気力も無い。其れに
三人共、住人以上に寛いでいて 然したる気遣いも無用だと思われた。
「んー」
テイクアウト用の容器に入ったカレーを スプーンを咥えた慧が寄越して来た。
惰性で受け取りはしたが 手に持っている物に対する何らかの行動にすら考えが及ばない。唯、白昼夢の産物を茫然と眺めるだけだ。
「お前らは?食わねーの?」
慧が弐弧の後方に向かって声をかける。二匹の黒猫がベッドに寝そべっていた。
毛足の長い黒猫の金色の目と 黒髪に黒いパーカーを着た少年の紅い目が薄らと開かれたが 両者ともに馬鹿騒ぎに付き合う気はないと言わんばかりの視線をくれると、再び閉じられた。
「冷めてんなー」
はは、と慧が笑う。
   あれ? そう言えば 此奴
つられて一縷に目を向けていた弐弧は 閃光の様に甦って来た記憶に因って我に返ると ばっと飛び退さり 忙しなく辺りを見遣った。
「は?何?何か急に元気になったじゃん」
「… え、いや 別に
弐弧は口籠もった。昨夜の事を一から話す気はさらさら無い。だが 此処に来る前 一縷は「人の腕」を咥えていた。戦利品がどうなったのか ― 其の如何に因っては 由々しき事態にもなり得る。
幸いにもベッドに血生臭い物は無さそうだった。
「また何か視えたの?」
甜伽がぽりぽりと福神漬けを齧りながら聞いて来る。もう其れが当たり前かの様な言い草だ。
弐弧の返答はいつも通り
「面白い事?」
口調はゆっくりしているが 頭の回転は速い眞輪に先を越され
「ヤバイ事なんじゃねーの?」
次いで勘の鋭い慧が にんまりと笑って此方を見て来る。
「は?(ちげ)ーし」
口は辛うじて平静を保ち 内心の狼狽え振りと赤らんできた顔を誤魔化す為に 顰めっ面で手にしたカレーをぱくぱくと勢い良く食べ始めたが
「ぶはっ! … な?! 何だ此れ …!
小石の様な何かをがりがりと噛み砕き 驚いて吐き出しそうになった。
「甘!」
口中にぞわっとする程、砂糖の甘味が広がる。
「カレーに金平糖入れるとか どんな悪食だよって思うわなー」
其の言い草だと 慧も味わったらしい。
「そう? 甘くて美味しいわ」
耳元で囁かれたら卒倒しそうな程の艶声で確信犯が返す。
「んー…。甘さと辛さのデスマッチ?」
「不味いってはっきり言いなさいよ」
してみると 誰も眞輪の攻撃からカレーを守り抜く事が出来なかったらしい。
羞恥の余りろくすっぽ見もせずに口に運んだが 成程 トッピングされた金平糖が色取り取りに耀いて、見た目は華やかだ。何食わぬ顔でルーの中に埋まっているのはマカロンかも知れない。
「… 不味いの? 如何して?」
其の声には非難を受けた事に対する憤りも弁解もなく 何故そう言われるのかが心底分からないと言った風であった。
「カレーの中に砂糖菓子が入ってるからよ!貴方、味覚馬鹿なの?」
甜伽が吼える。
「クッキーならまだマシかなーって思えてきたわ」
慧がスプーンで カレーの具材の中に混ざり込んでいるショコラクッキーを突いている。
「どう違うって言うのよ?!」
甜伽の怒りは収まらない。其れでも 本気で怒っている様には見えない。生来の負けん気の強さから噛みつかずにはおれないだけだと言う気がした。
「いやー、だって ケーキとか放り込まれてたら終わってたとか思わねー?」
テーブルには 蝋燭があったら誕生日ケーキかと見紛う位、豪華に飾り立てられたホールのケーキが載っている。こってりとした生クリームの化け物だ。
慧の言う通り こんな物をカレーに投げ込まれたら、と考えるだけで胸焼けしてくる。
「カレーにケーキは合わないわ」
眞輪が至って真面な台詞を吐いたが
「砂糖菓子のトッピングなら合ってるとでも言いたいの?!」
甜伽の突っ込みの餌食となった。
個々の味覚に対する論争は暫く続けられ 二匹の猫は煩そうに薄目を開けると 呆れた目つきで此の果てない論争を眺めた。

弐弧は何時の間にか 春先の陽だまりの様な此の場所で 心から笑い合える級友達がいる事に 居心地の良さを感じ始めている自分に気が付いていたが もう如何する事も出来なかった。
見せかけだけの 偽りの笑顔を作る事が出来ない。
顔に浮かんだ笑みが本物だとしても 自分では如何する事も出来ない。
今日と言う日が どうしようもなく楽しかった。
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登場人物紹介

百鬼弐弧(なきり にこ)廃墟で育った平凡な高校生だが予知能力がある。

蒼鷹一縷(そうよう いちる)廃墟から弐弧が連れて来た鬼の少年

眞輪(まりん) 魅惑ボディの美少女。炎の輪を武器にする鬼姫。

甜伽(てんか) 一縷と弐弧を捕えに来た敵だが、今は同級生。

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