第10話 目覚め

文字数 3,310文字

時計の針は午前五時を差している。
降りしきる雨が全てを洗い流すように 自身の中に何の感情も見い出せない儘 唯歩き続けた。

今日が祭日だったのは幸いだ。
明け方の寮はまだ眠りに落ちているが 寮の扉は此の時間になれば開いている。
休日でも朝練に出て行く学生が居るからだが 雨は益々激しくなり今や土砂降りの勢いだ。
流石にこんな日は休もうと思うだろう。
寮の警備員はだらしのない初老の男で 昼夜を問わず呑んだくれて 何時も詰め所で引っ繰り返っている姿しか見た事がない。今も
ごががが、と工事車両の様な轟音を立てながら椅子に反り返り 背もたれの向こう側に頭を落として胡麻塩髭の生えた顎だけ見せている。栓の開いた一升瓶や吸い殻がこんもりと溜まった灰皿、食い散らかしたつまみの袋などで机の上は汚らしく埋め尽くされている。床は宴の後もかくやの有様だ。
良くこんなのを雇っているな、と弐弧は冷めた目をくれたが 今は其のおかげで助かっている。
其れに 出入り口を映している監視カメラは壊れており 修理もせずに放置されているらしい。クラスの誰かがそう話しているのを耳にした。最近の事だ。
だとするなら 二人の姿は映らず録画される事もない。
全てが上手くいっている。と
「ふが?」
警備員がやおら頭を起こし 充血した目を擦りながら弐弧を見た。
不意の事に弐弧は其の場に立ち竦んだ。
「ああん?何だぁおまえら?」
警備員は胡散臭げな目付きで びしょ濡れの弐弧を上から下まで睨めつけた。眉根を寄せると
「おいおい こんな雨ン中何処行ってたんだ? 酒は程々にしとけよ」
嗄れた声で苦々しく吐き捨てる。どうやら泥酔した仲間を背負っている、と思っているらしい。
未成年が飲酒している、と言う重大な問題については咎める気は無い様だ。
「全くしょーがねー奴等だな。黙っててやるからさっさと部屋に戻れ」
勝手にそう決めつけられたが弐弧に不服は無い。警備員はぼりぼりと顎髭をかき
「風邪引くぞ。ほら早く部屋に戻れ」
しっしと野良猫でも追い払うかの様に手の甲を振って見せた。
「あ
「はい!」
呪縛から解けた弐弧は、背を庇いながら擦るほど壁際に身を寄せ 警備員の視線を避ける様に廊下の暗がりの中に入って行った。やはりおかしいのでは、と考え直した警備員がドアを開けて追って来る、と言う事態に備えて 警備室から一時も目を離さず、後退しながら進んでいたが そんな気配もない。角を折れて階段に入るとどちらからも完全に見えなくなる。
安堵しながらも 耳を澄ませて様子を窺う。聞こえて来るのは激しい雨音だけだった。
血は土砂降りの雨に洗い流され 滴り落ちる雨滴と区別がつかなかったのだろう。
朝陽は厚い黒雲に覆われて辺りは薄暮のように暗く 血塗れの少年を背負っている、とは気付かなかったのだろう。


弐弧の部屋は最上階の端だ。
間に階段があり左側には廊下を挟んで十部屋ずつあるが 右の弐弧の側は二部屋しかない。
向かいの部屋はずっと空室で 寮は二人部屋だったが弐弧のルームメイトは入寮時から不在であった。
珍しい事では無い。寮生が行方をくらまし其の儘帰って来ない事等ざらにある。
廊下の電灯は消えていた。暗い方が安心するのは元廃墟暮らしの性か。
騒々しい雨音に紛れて 気配も音も消すのは容易だった。
五階建てだと言うのに此の寮にはエレベーターがない。
あったとしても此の状態ではとても乗れないが ― 扉が開いて誰かが居れば面倒な事になる。
人の気配を用心深く探りながら階段を上って行くのだが どうかすると意識は足の痛みに持って行かれる。自分の強運を信じるなら無事部屋まで辿り着ける筈だが 体力的にはもう限界で、階段を一歩上がる度に傷ついた足が悲鳴を上げている。踊り場で息を整える。背負った少年の重みに潰されそうだ。そっと目を向けると 背負っている少年の肌は青白く 既に冷たい屍に成り果てている。弐弧はやるせない思いを振り切る様に前に向き直り 足の痛みに耐えながら、また階段を一段一段上り始めた。

寮の部屋はそこそこ贅沢な作りで 風呂とシャワー、洋式トイレ、クーラーも完備しており 玄関を上がって直ぐ左側に簡素なキッチンと備え付けの二ドア式冷蔵庫、其の上に安物の電子レンジが載っかっている。
右側にはトイレと風呂場、洗面所があり 奥の引き戸を開ければ居室となる。
広さは八畳といったところか。つまりは一人四畳分使用出来ると言う計算だ。
角部屋の利点で他の部屋よりも窓の数が多い。開放感はある方だが 其れでも壁際に備え付けられた二段ベッドの所為で部屋は狭苦しく感じられた。
二人分の勉強机など置けたものでは無く 何処の部屋でもテーブルを一つ置いて共用にしている。
部屋に入った途端 深い安堵と共にどっと疲れが襲ってきた。
背負った少年の息づかいも、鼓動も、生きている証は何一つとして感じられなかった。苦労して屍を連れて帰って来たと言う訳だ。
使用していない上段のベッドに担ぎ上げて放り込む、等と言う余力はもう残されていない。
自分が使用している下段のベッドに仕方無くびしょ濡れの少年を押し込むしかなかった。
少年をベッドに納めると反対側の窓際の壁に凭れ 漸く下ろした重荷に、其の儘壁を擦りながら頽れるようにフローリングに座り込んだ。
虚ろに少年を見る。
   何がしたいのかって ? 自分でも分らない   ただ
   せめて最期くらいは安らかであって欲しい そう思っているだけだ

疲れ果てて其れ以上もう何も考えられなかった。雨風がガタガタと窓を激しく揺さぶるのを聴きながら意識が落ちた。

ー 茶々丸
茶々丸 助けて
廃墟の闇の中に 背を向けて一人立つサビ子の姿が浮かび上がっている
あたしの中に化け物がいるの

サビ子? サビ子!
ー ほら 見て
振り返ったサビ子の顔の半面に紅い眼を陰惨に光らせ
化け猫が口を歪めて嗤い 赤黒い肉塊を吐き出した
カシャン カシャン … 次々と地面に落ちる腕時計が音を立てて血溜まりの中に転がってゆく

跳ね起きた体は恐怖に戦慄き激しい動悸に息が詰まった。
夢だ。唯の夢だ。
片手で目を覆い 後ろの壁にぐったりともたれ掛かる。膝に顔を埋めていると

かつ かつん ・・・ かつ

… ?
何処からか 何か固い物を打ち鳴らすような音が響いているのに気が付いた。
思考も定まらない状態で弐弧は薄目を開けた。頭も視界も靄が掛かった様にぼんやりしている。
音はまだ続いて居た。
弐弧の右手はクーラーのリモコンを握っていた。寝ている間に暑くなってきて、無意識にリモコンを手に取りスイッチを入れたものらしい。冷房の風音が聞こえている。
雨音はもうしない。
窓外は真っ暗で何も見えない。
リモコンを放し、ポケットを探ってスマホを手にする。暗闇の中で液晶画面の光が殊更眩しく感じられ 細まった目で何とか焦点を合わせながら見ると 真夜中の二時を少し回ったところであった。
祭日は寝るだけで終わってしまった様だ。
「痛た …
座った儘の体勢で寝ていた体は凝り固まって 油の差していない車輪の様に軋んだ。
徐々に意識がはっきりしてくると 打ち鳴らす音の源はどうやら弐弧の眼前にあるらしいと分った。
少年の亡骸を放り込んだ下段のベッド。今 其処には
スマホの明かりで幽鬼の様な姿が浮かび上がっている。
少年はベッドの上に身を起こし壁に凭れて座っていた。丁度 弐弧と向き合う形になっている。
闇に紅い目を耀かせ 上下の牙がかつんかつんと噛み合わさって音を立てている。
表情はなく 口も惰性で動いているだけかの様な印象を受けた。
顔は俯き加減で 虚ろな目は何も映していない。
生きていたのか ―
だが 其れは化け物として、だ。人では無い。
動もすると 歯を打ち鳴らす音は止み また冷房の心細い風音だけが静まった部屋に聞えて来た。
紅い目が閉じられると頭が落ち 深く項垂れた姿で座っている。壊れたマネキンの様に。
ふ、とスマホの明かりが落ち 部屋は再び闇に帰した。
ホラー映画なら途端に少年がカッと紅い目を見開き、襲われる そんな展開が待ち受けているに違いない。
弐弧は少年から目を離す事が出来なかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

百鬼弐弧(なきり にこ)廃墟で育った平凡な高校生だが予知能力がある。

蒼鷹一縷(そうよう いちる)廃墟から弐弧が連れて来た鬼の少年

眞輪(まりん) 魅惑ボディの美少女。炎の輪を武器にする鬼姫。

甜伽(てんか) 一縷と弐弧を捕えに来た敵だが、今は同級生。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み